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宮沢賢治「なめとこ山の熊」にみる“人間”と“自然”の関係性

「なめとこ山の熊のことならおもしろい」

律動的な書き出しで、声に出して読んでいくと気持ちいい。「つめたい霧か雲を吸ったり吐いたりしている」、「まわりもみんな青黒いなまこや海坊主のような山だ」。子供向けの絵本で、山同士が背比べをしたり、柴刈りに山に入ったおじいさんに山が語りかけたりすることがあるが、ここでもまるで山が生きているような感じがする。

童話のような世界観、熊と小十郎の友情

そこにいる熊は「赤い舌をべろべろ吐いて谷をわた」り、「子供らがすもうをとって、おしまい、ぽかぽか撲りあっている」。ここでも同様に童話のような世界観がある。

そんな山の中を淵沢小十郎は「ゆっくりのっしのっし」と歩く。彼は熊を獲ることを生業としているが、熊の気持ちを読み取ることや意思疎通もできるようだ。熊の母子が月を眺めながら会話をしている場面を見つけたり、熊と遭遇したときに二言三言、言葉を交わしている描写もある。

小十郎のことを熊たちも好んでいるようで、森の中を闊歩する小十郎を、熊たちは「おもしろそうに見守っている」らしい。ある時、鉢合わせした熊に銃を向けると「もう2年ばかり待ってくれ」と熊に言われる。小十郎は、撃つことはせずにそれを見送った。はたして2年後、熊は言った通りに小十郎の家の前で倒れていた。小十郎の素直さ、そして約束をきちんと守る熊の実直さが感じられるような場面だ。そして最後のシーン、小十郎の死骸を囲んで大きな黒いものがじっと動かないでいる。おそらく熊たちが小十郎の死骸を囲んで弔っているものと思われる。

一見すると人間と熊が友情を育む物語と見えなくもないが、それだけでいいのだろうか。確かに作中で語られる小十郎の、どっしりとした温かみの感じられる風貌は、人柄の良さを感じられるし、街で商人に買いたたかれてしまう描写からは、性格の素直さ、素朴さが感じられる。彼は生きるために仕方なく熊を狩っており、やむを得ず撃った熊については、心を痛めながら死体の処置をして、肝と毛皮を採っている。

小十郎が熊にもたらすもの

しかし、熊たちにとって小十郎は何なのだろうか。熊たちが小十郎を好んでいるというが、彼が山に入ってくることで何かしらの恩恵が熊たちにもたらされるのか。熊の母子を見つけた時、小十郎は気づかれないよう、風上に立たないよう気を使っている様子だった。獲物を見つけたにもかかわらずあえて撃たなかったことが、美談のようになっている印象を受ける。「もう2年ばかり待ってくれ」の話では、そもそも熊が自らの命を差し出す義理があるのか。

小十郎が山に入ってくるとき、それは熊たちにとっては自分たちを狩りに来ているときだ。もちろん猟だけでなく、山菜採りなどを兼ねている可能性もあるが、あまり語られることがない以上、熊狩りが主目的なのだろう。小十郎は熊たちにとって、すみかである森に入ってきて、自分たちを殺そうとしている敵以外の何者でもないはずだ。

読者の視点からならば、熊を獲っていく以外に生きる道がない小十郎を、不憫に思いながら読み進めていくことになる。熊を狩らないと家族もろとも飢え死にしてしまう恐れがある。しかし、そんな人間側の事情など熊たちにとっては知ったことではない。

これらのことから、熊から発せられる言葉や気持ちは、人間側で都合よく解釈しているだけではないか。つまり小十郎が、自らの行為への罪の意識を和らげるために、つくり出した空想なのかもしれないと、私は一度考えた。

ただ、「もう2年ばかり待ってくれ」や、弔いの場面で熊たちは、明らかに小十郎のために行動を起こしている。この点を切り取れば小十郎と熊たちの関係は、獲る獲られるだけのものでない可能性が見えてくる。

例えば山で私たちがキノコ狩りをするとき、採ったキノコを竹籠に入れて歩くと、竹の編み目から胞子がこぼれることで繁殖の手助けになるという。猟師と獲物の間に、そんな持ちつ持たれつの関係があるのか。

機能不全となった″三すくみ”

作中に「狐けん」という単語が登場する。狐は猟師に獲られ、猟師は旦那に頭が上がらず、旦那は狐に化かされる、という三すくみのことだ。もちろんこの物語の中では熊だが。

物語の時代設定について明確な記述は無いが、「町」にある店に並んだ商品の様子や、「中山街道はこのごろ誰も歩かない」としており、道路の拡張や付け替えが進んでいることが伺えるので、明治〜昭和時代前期くらいが舞台なのだろう。近代以前であれば、人が狐に化かされるという話が、ある程度信じられていたかもしれない。しかし、この時代に至ってその様な迷信は、説得力を持っていたのだろうか。まして、旦那がいる「町」は既に、動物が這入りこんでいける場所ではなかったのではないだろうか。

つまり、三すくみのうちの一辺が機能していないことになる。旦那だけが得をして、熊は勝つ相手がいないこの状態について、語り手は「しゃくにさわってたまらない」としている。さらに「こんないやなずるいやつらは、世界がだんだん進歩すると、ひとりで消えてなくなって行く」として、三すくみが復活することを願っている。

そもそも「勝つ」とはどんな状態なのか。現在の私たちからすれば自然環境や天然資源は、神が人間のために与えたものではないし、無尽蔵にあるものではない、というのは自明のことだ。この作品が書かれた1930年代にそのような認識がどのくらい存在したのかはわからない。作者が「環境保護」などという観点を持っていたかは不明だが、少なくとも人間がただひたすらに、自然の中から資源を持ち出していく状態を良いとは思っていないことが伺える。人間も自然に対して何かしらの供給を行う必要があり、そのことを三すくみといっているのではないだろうか。

しかし作中ではその状態にはなっていない。熊は本来勝つべきところに勝つことができずにいる。供給されるものはなく、奪われていく一方だ。結局小十郎がその割を食うように、熊に殺されてしまう。熊が小十郎に襲い掛かったとき、「おお小十郎、お前を殺すつもりはなかった」と言っている。本来あるべき形を叶えることができない、熊と作者のやるせない思いがこの言葉に詰まっているのではないだろうか。

近代化への問題提起

近代化によって多くの人々が豊かになった。一方でそこから取り残されてしまう人がいたり、人間以外の自然や動植物にはしわ寄せが及ぶことになってしまった。小十郎や熊たちは、旦那が大部分を食い荒らしてしまったパイの、残ったわずかな部分を分け合いながら、なんとかその日その日を生き長らえている。「近代化の素晴らしさ」の裏で、生じる矛盾や、理不尽な境遇におかれているものがあるという不条理さに目を向けた作品なのだと思う。


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