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🔶私の好きな奈良:弘仁寺 明星が隕ちた地に空海が建立

弘仁寺の弘仁とは

平安時代初期、810年から824年の年号が弘仁です。
天皇でいうと、嵯峨天皇、淳和天皇の時代ですから、奈良から都が平安京に移った桓武天皇から、平城京に都を戻そうと画策した平城天皇の代を経て、その次の時代ということになります。

弘仁という名を良く聞くのは、「弘仁・貞観文化」です。この時代は密教の影響が強まり神仏習合の動きが強まったことによって、独特の仏教文化が栄えました。仏の世界を描いた曼荼羅(まんだら)が発達し、この頃に造られた仏像「弘仁仏」は、前代に流行した金銅仏、乾漆造、塑造に代わって木造「一木造(いちぼくづくり)」が主流となり、豊満で官能的な造形と、着衣が波打つ翻波(ほんぱ)式彫法が特徴です。

昭和に活躍した写真家である土門拳氏が弘仁仏をこよなく愛したのは有名です。代表作の一つ「古寺巡礼」では、弘仁仏である京都神護寺本堂の薬師如来立像や、奈良室生寺金堂の釈迦如来立像、弥勒堂の釈迦如来坐像(現在は宝物殿)の写真が収められています。この時代の特徴である翻波式の衣紋は特にお好きだった様で、その部分だけをアップにした写真が掲載されています。

空海が見た明星

弘仁寺は814年(弘仁5年)、前述の嵯峨天皇の勅願で小野篁が建てたとされますが、空海が夜明けにこの山に明星が隕ちるのを見て、この場所に堂を建て、明星天の本地仏である虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ、梵名アーカーシャガルバ:空海が修行中に来臨し、仏道に入る決心をするきっかけになったことでも知られていますね)を祀ったのが始まりと言われています。天文学の発達していなかった当時、流星に人知を超える力が宿ると考えたのは十分理解できますね。

この寺の本尊は秘仏の虚空蔵菩薩立像で、空海の自作と伝わり、本堂の天井まで届く厨子に納められています。この虚空蔵菩薩がそのまま地名となり、現在弘仁寺のある奈良市南端のこの地の町名は「虚空蔵町」です。

木造明星菩薩立像(国重文)は本堂東側の明星堂の本尊です。現在は奈良国立博物館に寄託されており、公開されていればそちらで見ることができます。豊満な造形や翻波など、弘仁時代の木造仏の特徴を良く備えています。

明星堂

弘仁寺は、戦国時代終わりに松永久秀の兵火で多くの伽藍を焼失しましたが、明星堂は難を逃れました。現在、重層寄棟造、本瓦葺きの堂々とした姿を見せる本堂は、1969年に僧・宗全によって再建されたものです。

弘仁寺では、毎年4月13日には13歳になった子供が知恵を授かるために詣でる「十三参り」が行われています。虚空蔵菩薩は広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩で、参拝により智恵や知識、記憶といった面での利益が あると言われています。
山門に至る道ではウグイスのさえずりが聞こえ、自然に囲まれたとても良い所にあるお寺です。新たな門出を迎える季節に訪れられては如何でしょうか。

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