見出し画像

🔶私の好きな奈良:喜光寺「試みの大仏殿」 民の救済を続け、天皇をも動かした行基

写真は喜光寺の本堂です。
もとは奈良時代の創建で、この建物は鎌倉時代に再建されたものですが、何か別の建物に似てい様に感じませんか?

実はこれは「試みの大仏殿」と呼ばれています。のちに東大寺大仏殿の建立を依頼されることになる行基が、元正天皇の勅願を受け任された菅原寺に、雛形としてこの本堂を建てたと伝承されています。


喜光寺 もとは菅原寺

奈良市菅原町にある喜光寺、もとは菅原寺という名前でした。天満宮で有名な菅原道真のルーツがある土地です。

行基の信者が寄進した住居が菅原寺になったと言われ、748年に聖武天皇の参詣に際し本尊から不思議な光が放たれたため、天皇が喜んで「喜光寺」の名前を与えたと伝わります。

本尊は座高2.33mと大きな阿弥陀如来坐像(平安時代作、国重文)です。


喜光寺は蓮の寺とも言われており、本堂のまわりや参道にさまざまな蓮の花が並べられています。

西大寺の再興で知られる叡尊が、相模国の江の島弁財天を勧請したと言われる弁天堂があり、堂を取り囲む弁天池では、蓮の季節に綺麗な花を見ることができます。

弁天池の蓮

若いころの行基

行基は、飛鳥時代から奈良時代に活躍した僧です。
河内国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に生まれ、15歳で出家したあと、24歳で飛鳥寺に入りました。経典学習を行う傍ら、並行して山林修行に励むという生活を10年以上続けました。

ほぼ同じ時代に山岳修行を行った有名な僧に、修験道の開祖といわれる役行者(えんのぎょうじゃ:役小角)がいます。山中での修行なので正確な文献資料が残っていませんが、行基がその道の偉大な先輩(約30歳上)である役行者から影響を受けたことは間違いないと思いますし、直接の交流があったとしても不思議ではありません。

厳しい山岳修行により、役行者の様に強靭な身体・精神能力を身に着けたことと思います。その後、故郷に戻り、40歳代後半から民間への布教や社会事業を行うようになります。橋を架けたり井戸を掘ったりという土木事業に積極的に携わり、人々のため尽力しました。

こういったスタイルは、行基が飛鳥寺で学んだ際に、唐で玄奘の教えを受けた僧・道昭から影響を受けたのではないかとも言われています。

民衆の救済による絶大な支持と、朝廷からの弾圧

当時の僧侶は、寺の中で、仏が国を護ってくれる様に祈るのが普通でした。しかし行基の場合は、役行者や百済からの帰化人の氏族から受け継がれた仏教、道教集団の中で、土木工事のほか、自前で薬草や鍼灸などの医療を施すなど、民衆の中に入って苦悩を救おうとしました。

少し前から朝廷により導入されていた律令制度は、厳しい税の徴収だけでなく、多くの公共事業に従事させるなど、民衆には苦しい生活を強いていました。そんな中での行基の行動は民衆の絶大な支持を受け、無視できない存在となってきました。

結果として、行基は民衆を惑わす法外の徒として朝廷から弾圧を受けることとなります。しかし反乱の意思などは全くなく、ただ民衆のために尽力していた行基は、淡々と民衆の救済を続けます。

聖武天皇が行基に大仏建立を依頼

この頃、平城京では権力争いが激しく、長屋王の変や藤原冬嗣の乱が起こったりと、政治不安の状態となっていました。これを憂いた聖武天皇は、仏の力にすがって国家を平定しようと考え、忌まわしい事件の起こった平城京から都を恭仁京(くにきょう)に移し、さらに743年には紫香楽宮(しがらきのみや)に廬舎那仏を造営することを発願します。

このとき聖武天皇は、民衆に直接仏の道を説いて、次々と公共事業を進めていた行基の力を頼ろうと考え、それまで僧尼令違反として処分していた行基に接近し、大仏建立への協力を依頼します。745年、朝廷は行基に、仏教界の最高位である大僧正の位を贈りました。
これは日本で初めての事です。

大仏開眼を見ずに喜光寺で入滅

行基は大仏造営に尽力しますが、造営中の749年、完成を見ることなく、自身が722年に平城京内での本拠として創設した、この喜光寺で入滅します。
なお、大仏開眼では、行基が736年に唐から平城京内の大安寺に迎え入れた僧・菩提僊那が導師を務めました。

行基は、生駒山麓に草庵を構えていました。
40歳代の頃、行基は病身の母親とこの庵に住み、看取り、しばらく喪に服しました。行基の遺体もまた生駒山麓にある「往生院」で火葬され、竹林寺に遺骨が納められました。喜光寺から往生院まで行基の弟子が輿をかついで運んだことから、往生院周辺の墓所は別名「輿山(こしやま)」とも呼ばれています。

死後、朝廷は行基に朝廷より菩薩の諡号を授けました。
そのため行基は「文殊菩薩の化身」「行基菩薩」と呼ばれています。

偉人、行基の功績を尊ぶ

近鉄奈良駅の駅前広場の噴水に、行基の像が設置されていることは、奈良県民の多くが知っていると思います。「行基様の前」はお馴染みの待ち合わせスポットです。

1970年、当時の奈良市長が、行基の精神を受け継ぎ、奈良市のシンボルにしようということで設置したものです。微妙な方向を向いて立っておられますが、行基像の顔は東大寺大仏殿を向いているそうです。

冒頭の喜光寺には、行基堂があります、中には行基菩薩坐像が安置されています。これは、墓所の竹林寺に安置されていた鎌倉時代の像(国重文・現在は唐招提寺蔵)を模刻したもので、1998年の行基菩薩1250年御遠忌にあわせて造立されました。

喜光寺の境内には、有名な歌人・会津八一の歌碑があります。

会津八一の歌碑

「ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に 汽車 の ひびき の ゆき かへり つつ 」
(一人でやって来て、荒廃を悲しむこの寺の白壁に、汽車の行き帰りする音が響いてくる)

八一が訪れたころの喜光寺は、明治の廃仏毀釈の影響を受け無住で荒れ果てていたようです。一時は悲しいほどに荒廃していたこの寺も、平成に入り行基菩薩の精神を受け復興に取り組み、2010年の南大門、2014年の行基堂、2021年の仏舎利殿などの再建により、現在の姿となっています。

美しい花を見ながら、法(律令)に左右される事なくひたすら仏の道を貫いた当時の行基の精神に、思いを馳せては如何でしょうか。

おまけ:多少創作も入っていますが、行基の生涯や時代背景がよく分かる物語ですので、紹介させていただきます。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。


よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!