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宝くじと感情的確率論

宝くじは買わなければ当選する確率は0%だ。当選確率はくじの持つ確率に収束する。至極当たり前の話だ。
だが、本当に当選確率はくじの持つ確率に収束するのだろうかと、下らない疑問が頭をよぎる。

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例を挙げてみよう。
2020年の年末ジャンボ宝くじでは、1等7億円が22枚存在した。基本的に宝くじはユニットと呼ばれるグループに分けられる。1ユニットに対して1等は1枚のみ配当される。このユニットには2000万枚のくじがあるため、当然1等が当選する確率は2000万分の1となる。

これはつまり、当選する確率を1%に引き上げようとした場合、少なくとも20万枚、6000万円を支払う必要がある(1口300円計算)。
こんな途方も無い確率を前にしては、通常は買うべきでないと判断できるのだが、人は往々にして夢を追い求め宝くじを購入する。

当選確率1%、つまりやっとの思いで100分の1までの確率を得るには大き過ぎる代償である。そんなものは運に頼る以外道は無い。
宝くじというのは、莫大なリスクを取り極小のリターンを得ようとする大博打なのだ。でも人は宝くじを買う。それは何故なのか。

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そんな中、ある馬鹿げた考えが浮かんだ。
「宝くじをたった1枚だけ買った時、その宝くじの当選確率は、当たるか当たらないかのどちらか、つまり2分の1の確率なのではないか?」
というものだった。もちろんそんな事は無いのだが、そこに確率論とは別の、何かおぞましい裏がある気がしたのだ。

一度この思考を整理しよう。
宝くじ本来の持つ当選確率は抜きにして、宝くじのレゾンデートルを「当たる」「当たらない」という事象の二つに分けてしまう。畢竟、宝くじの確率の事象を「結果論」に落とし込む。宝くじを買ったことによる結果を見ると自然である。

宝くじを買った事により発生した当選の確率「原因の確率」と、宝くじが当たるか当たらないかという「結果の確率」は同時発生的と感覚が叫ぶ。
だが、これらは確率論において計算上混合することは出来ない。確率発生のそもそもの条件が違うからだ。

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当選する数学的確率とは別に、当たる当たらないのドキドキな感情的確率では存在できるステージが違うということだ。後者はあくまで人間の思考の上で成り立つからである。宝くじを販売する各地方自治体、つまり国はこの感情の闇を上手く利用している。

こんな思考実験はきっと間違えているし、思考しているからといってそう簡単に当たるものではない。
宝くじというのは、そういった人間の、綺麗に着飾れた醜悪な果てなき欲望を駆り立てる恐ろしい仕組みだ。搾取する側とされる側の資本主義的なゲームなのだ。

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