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テセウスの同一性が示すものとは?

夢を見た。
崖を駆け登る自分。
永遠と広がる地平線の沈む夕日が自分を照らす。
断崖絶壁に落ちる影には、ツノが見える。

そう、自分は崖を駆ける鹿になっていた。
ただ気づいた時にはもう遅い。
崖から真っ逆さまに落ちていった。

そこで目が覚める。もう朝になっていた。
奇妙な夢を見たと思いながら、その内容は起きた瞬間から情景が曖昧になって、霧散してしまった。


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「テセウスの舟」というパラドックスをご存知だろうか?
この舟はギリシャ神話に登場するテセウスが、ギリシャより約160km南下した、地中海東部にあるクレタ島に棲むミノタウルスを討伐する際に乗り込んだ舟を表している。
当時の船を構成するのは木材が中心であり、舟を使用する度に老朽化が進むため少しずつ新品の木材と交換していった。この作業を当初の木材から新品に全て入れ替わるまで行った時、入れ替わる前と後ではその舟は本当に同じ舟と言えるのだろうか?

そう、このパラドックスを「テセウスの舟」と呼ぶ。
つまり、そのものを構成する要素が全て入れ替わる時、そのものは果たして前と同じものと言えるのだろうか?
そこに「アイデンティティー(同一性)」は存在するのだろうか?


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たぶんこれは多くの人がどこかで聞いた事があるかもしれないが、人間の細胞は破壊と再生を繰り返して少しずつ細胞が新しいものへと変換されている。
人間の細胞は約60兆個あるらしい(すぎょい…)。
脳や心臓の一部の細胞などを除いては、基本的に時が経つにつれて新しい細胞に代わる。
新陳代謝という原理だ。

全てではないにしろ、身体のほとんどの細胞が数ヶ月数年で入れ替わる。ただ、テセウスのパラドックスを知っているからといって、「数年前の自分と今の自分は全く違う別人だ!」と言って嘆く人はいない。何故なら自分が自分であると心の中では分かっているから。
そう、これがいわゆる「アイデンティティー」、同一性や個性と言ったものを指している。

では、テセウスの舟と自分達とでは何が違うのか。
テセウスの舟は完全に違うものだと認識すればするほど、これは過去のものとは違うと確証が持てる(気がする)。

ワンピースを読んだ事がある人には、以下の事を知ってもらえるはずだ(読んでいない方は呼び飛ばしてもらっても構わない)。
ウォーターセブン編にて、メリー号を直す為に麦わら一味は敏腕の船大工の元へ訪れた。しかし、船大工に船の重要なパーツである竜骨が激しく損傷していて直せないと言われてしまった。それでもルフィは絶対に直してほしいと言ったが、断られた。その中である提案として、メリー号そっくりに船を新しく造る事もできると船大工に言われたが、同時にそれはメリー号とは別物だとも言われた。この世に同じ木材はないからだ。

まあ現実ではあり得ないが、船が『話し出す」事もあった為に(船の妖精クラバウターマンの声)、船にも意志があるように感じ、より前と後のメリー号は違うと判断したのだ。

結局テセウスの舟も前と後で違うと言っていた過去の人間達は、船に情が移りあたかも舟の意志があると錯覚していたのではないか?
その流れであれば、テセウスのパラドックスは、意志や心情といった不明瞭な定義めいたものが舟自体にあるのではないか、と人自身が誤認してしまったことから発生する。
人間における細胞の破壊と再生で得た新しい身体は、その人間が過去と現在で違うと認識した段階で同じモノではないと判断しうる。
つまりは認識の違いなのだ。


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意志や心情はアイデンティティーに大きく関わる。むしろそれ自体を示しているのかもしれない。
身体が過去と違うからと言って、表面上変化する事はない。見た目が変わらないから過去の自分とは違うと絶望する事もない。

ただアイデンティティーを形成する上で、アイデンティティーそのものの本質を知っておかなければ、個性は生まれてこない。
先にも述べたがその本質は、「個の意志や心情を、己自身で尊重すること」にある。自分は自分であると認識していく為には、肉体に物事の本質を理解させるのではなく、精神に取捨選択させる他ない。
そしてアイデンティティーを形成する事が出来れば、その精神は肉体と密接に繋ぎ留め合える。
テセウスの舟は、あくまで「舟」だ。それが入れ替わる前と後で違う段階で、同一のものかどうかはその舟の材質の違いだけではなく、この舟に関わる人自身がどう感じているのかということに決定権があるのだ。


自分が鹿かどうかを見極めるには、ツノが生えているだとか、毛深いだとかという身体的特徴から見出すのではなく、自分は元より鹿であると心の中で認識しなければならない。精神と肉体にギャップが生まれれば、たちまち崖下の奥底へと堕ちてしまう。
個の形成、アイデンティティーの確立は、その人間を作る上でとてもシビアな問題なのである。

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