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「空虚」(と言うため)の条件—『ルポ百田尚樹現象』(石戸諭)

「人に会わなくては書けない」というのは報道の世界では、文芸批評の世界で「テキストを読まなくては書けない」というくらい当たり前のことだろう。それなのに新聞記者出身の著者の「ルポ」と題された本を読んで「これは会わないと書けないものだ」とわざわざ感じるから不思議だ。

おそらくそんな現象が起きるのは、この本が「批評」として読めるからだ。

ルポルタージュなのか、批評なのか。批評的なルポルタージュがあるように、ルポルタージュの手法(会う・現地調査)を採用した批評文だってあるが、後者は決して多くない気がする(なぜだろう?)。わたしはその珍しい方の文章として、この本を読んだ。

ルポルタージュは「発見」がないと成り立たない。取材によって人々に知られていないファクトや場面を獲ってくる。獲れるか、獲れないか。場面に立ち会えるか、立ち会えないか。成果がはっきりと表れるシビアでマッチョなジャンルと言える。もしもこの本がルポルタージュだとしたら、右派や著者の言う「普通の人たち」から百田尚樹が熱く支持される現象を取材した『ルポ百田尚樹現象』の収穫物はなんだろうか?

そのように問うと、この本の特徴が見えてくる。

90年代後半に「普通の人たち」を招き入れる右派の新しいマーケットを切り拓いた藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりに著者が会う第二部がこの本の読みどころだ。藤岡には手製のイデオロギーがあり、西尾には哲学があり、小林には自分がこれはと思った人への情がある。彼らにとってそれは活動の動機であり、抜き差しならない事情だった。著者は取材を経てそう思う。

一方、この本の主役である百田尚樹にはそういうものが「ない」。このルポルタージュの発見は、百田の言動の背景にある成育環境でも、彼に思想的影響を与えた人脈でもなく、藤岡・西尾・小林に「ある」ものが百田に「ない」という印象である。こう言うことができる——著者は百田の取材から空手で帰ってきている。そして、その「ない」ことこそが発見であると提示してくるセンスが——わたしが勝手に考える——報道人の類型から相当に外れている。

百田にそういうものが「ない」ことが、百田尚樹現象の中心が「空虚」であるという結論につながるわけだが、字面だけ見ると決して目新しい指摘ではない。しかし、この本は生身の藤岡・西尾・小林・百田に実際に会って考えた記録であり、著者は生身の自分を担保に「空虚」という印象を強く言いきっている。その文章と虚心に向き合えば、字面の既視感を超えた気づきがある。

「空虚」というのは、言うのはたやすいが、たやすく言えばその言明そのものが空疎になってしまう難しい評言だと思う。この本で提示される、取材の果てにたどり着いた血肉ある印象としての「空虚」は、その困難さを忘れさせてくれる。そうか、著者は空虚と感じたのか、と。これは「会わないと書けないもの」なのだ。

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