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【レビュー】負債に軋む列車—『黄金列車』(佐藤亜紀)

全てが、驚くほど軽い。何が軽いのか自分でもわからないが、軽い。(p.187)

積み荷の重さ

「ツイッター文学賞」に初めて投票した。その後、初めて、この文学賞の1位を獲ったという理由で小説を読んだ。

『黄金列車』は85票を集めて国内編1位に選ばれている。投票までにこの小説が読書人たちの間でどんな風に話題になったのかを知らないのだが、読み終えて、85人がそれぞれどんな思いでこれを推したのか、知りたくなった。美しいが、決して心躍る小説ではないのだ。

列車がハンガリーの首都ブダペストから、ただただ西を目指して走る話だ。時は終戦間近の1944~45年。列車にはハンガリーのユダヤ人から没収した資産が積まれている。貴金属、銀の燭台、絨毯、肌着など、金目のものからそうでもないものまで、長い編成の列車に満載され、線路はその重みに軋む。爆撃され、ソ連軍が迫るブダペストからユダヤ資産を西方に「退避」させるのが列車のミッションだ。

列車には、大蔵省の外局としてそれらの〝国有〟資産を管理するユダヤ資産管理委員会の役人や警備の軍人たちが乗っている。彼らの家族も乗っている。これは家族ぐるみの「疎開」でもあるのだ。役人たちは、ユダヤ資産と家族の両方を守らなくてはいけない。

主人公が感じる軽さ

このミッションを役人たちがいかに遂行するかが、この小説の軸となっているのだが、そのプロセスが痛快なのかというと、実はそうでもない。この旅の終わりにほっとしたり、登場人物たちが喜び合う場面が待っているかというと、それも全然違う。

一般にロードノベル(道中小説)の終わりには、主人公の成長なり、問題の解決なり、悲しみの和らぎだったり、何かしらポジティブなものを感じとれることが多いが、果たしてこの小説にそれに相当するものは見つかるだろうか?

読み進めていくと、この小説の終わりに、そんなものが待っていないことがわかってくる。この列車にはたしかに始発点があり、終着点もあるのだが、物語は実質的には、どこにも向かっていかない。この小説においては、ほとんど全てが「過ぎたこと」なのだ。列車が出発する前に、大事な局面はほとんど通り過ぎ、終わっている。少なくとも、主人公の役人、バログにとっては。

そのことを作者は、かなり早い段階で読者に予感させる。小説の序盤でわかることだけここに書くが、バログの妻は列車が出る前にアパートから落ちて死んでいる。また、バログの親友でユダヤ人のヴァイスラーの一家はナチスドイツとそれに同調するハンガリー政府によって虐げられ、略奪し尽くされている。バログにとっては、ユダヤ人のために、あるいは、家族のために、何かができた局面は決定的に過ぎ去っているのだ。

レビューの冒頭に掲げたのは、バログの内心の言葉だ。親友のヴァイスラーも、妻と子どもを守る方策をバログに語ったあと、こう言ってる。

その後は、拘引されようとこの歳で労働大隊に入れられてウクライナに送られようと、或いは、そう、その手の施設で起こっていることを自分で見ることになろうと、軽いよ。(・・・)他にどう言いようもない。軽いんだ。兎も角、軽い。(p.195)

時系列でみると、ヴァイスラーのこの発言が先にあり、その後に、このレビュー冒頭のバログの内言がある。親友を失い、妻を失ったバログは、ヴァイスラーが言う「軽さ」を理解したに違いない。ユダヤ資産を満載した大編成の列車が積み荷の「重さ」にあえぐ一方で、それに乗り込むバログはこの上ない「軽さ」——空虚さ、と言い換えても良いだろう——を感じている。

背中を見せず、後ずさりする

しかし大事なのは、そのような軽さを抱えるバログが、ユダヤ資産の〝重し〟として機能することである。

列車の内からも外からも、ユダヤ資産を奪おうとする輩が出てくる。ユダヤ資産管理委員会の委員長からして、高価な品をトラックに積み替えて奪っていく。ドイツの国防軍や、ナチスの親衛隊も列車に闖入してくる。

バログやその上司たちは、時には(微々たる)武力をチラつかせつつ、しかし主には役人の論理(書類作成や指揮系統の問題)を持ち出して、ユダヤ資産の二次的な略奪をサボタージュする。ユダヤ資産を守る一方、列車の運行が危ぶまれる状況では、その一部を賄賂として提供する狡猾さも発揮する。

つまり、彼らは頑張るのである。国家としてユダヤ人から全てを奪い、彼ら・彼女らの多くを強制収容所に送った後で、その資産の目減りを少しでも抑えるために。

負けがものすごい込んでても、次の負けにこだわること。後退するにしても、背中を見せて駆け出さず、後ずさりで対応すること。なんなら踏みとどまる可能性をいつも探ること。この小説に、そんなテーマを見ることができる。

次の「負け」にこだわる

ただ、ユダヤ資産をどう扱ったかが自分と家族の戦後の処遇に影響する上司たちは別として、ほとんど全てを既に失い、「全てが、驚くほど軽い」と感じるバログにとって、そのような闘いを続ける根拠は何なのだろうか。

世の中には、返しきれないほどの負債を抱えて、なおかつ、リセットのための破産の道も閉ざされているという事態がある。挽回するという希望を持てないときに、つまり、「勝ち」の可能性がないときに、何が人を次の「負け」にこだわらせるのか? 

想像するに、それは負債の感覚である。後ろめたさ、と言った方がわかりやすいかもしれない。

列車には、バログがその官僚組織の一端を担っている国家が、ヴァイスラーの一家から奪った財産が載っている。あるいは、死んだ妻は今の自分に何を望むだろうか。ほとんど全てを失ったバログにとって、積み荷はそれでも失って(lose)はいけないものであるに違いない。

ある種の闘争においては、それまでの「負け」そのものが、次の「負け」にこだわる根拠となるのである。

沈鬱な美しさ

列車はハンガリーの西へ、未来に向かって走るが、列車に乗るバログの心は東(ブダペスト)で起きた、過去の出来事へと引き戻され続ける。

列車には、あるユダヤ人家庭の銀の燭台を取り戻そうとするならず者が尾いてくる。また列車は、どうやって移動しているのかもわからない、謎の浮浪児たちを振り切ることができない。東から、切れることのない糸を引くように、西へと走って行く。悲しくも美しい動きを見せる小説である。

(参考)

書評家の長瀬海氏のレビュー(みのわがレビューで触れていない部分をすくいあげている。たしかにナプコリというタイピストの女性の存在は重要)





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