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目の前を、がむしゃらに走る男〔エッセイ〕

 私は今まで生きてきて、全力で走る人を見るのは、体育の授業のマラソンとか、運動会の徒競走くらいだと思っていた。

 しかしあの日、それは完全に私の思い込みであったこと。そしてそれがどれほどまでのパワーを持つのか、思い知らされたのだった。

 10年以上前、私は男友達のM太と、とあるテーマパークに遊びに行った。少し汗ばむぐらいの陽気だったが、もともと汗かきで恰幅のよいM太は
「あつい、あつい」
 としきりにタオルで腕や首筋に光る粒をぬぐっていた。気がつけばM太の着ていたTシャツの背中部分にぽっかり丸い汗じみができていて、名前は忘れてしまったが、いつか地理の授業で見た湖の形みたいだった。

 たくさん歩き回ったせいで疲れたのか、暑さで体力を奪われたのか、だんだんと日が暮れていくのと共に、次第とM太の歩く速度は落ち、口数も少なくなっていった。

テーマパークの閉園時間まではまだ時間があるけれど、今日はもう帰ろうか。
なんとなく、そんな雰囲気になってしまっていた。

「帰る前に、おみやげを買ってもいい?」
 おみやげ店はどこも混雑していたが、帰る前にどうしてもおみやげを買いたかった私はM太に尋ねた。
M太は人でごった返すおみやげ店をちらりと見てから、
「疲れたからそのへんのベンチで待ってる」
 そうぽそりと言うと私に背を向け、そそくさと空いているベンチに向かって歩いて行った。M太の背中のテーマパークのキャラクターが風にそよぐ。
Tシャツが汗だくになってしまったため、テーマパークで購入して途中で着替えたのだ。そんなM太の背中からは、なんだか少し哀愁のようなものさえ漂って見えた。

 おみやげを買ってM太のところに戻るとM太は居眠りをしていた。
座っているベンチからそのまま転がっていきそうなくらいに体が傾いている。首の後ろの部分がこんがり日に焼けていた。
「M太、大丈夫?」
 私はM太を揺すって起こす。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
 M太はぼーっとした顔でベンチからよろよろと立ち上がった。

 2人で駅の方に向かって歩いていると、遠くのバス停に一台のバスが停まっているのが見えた。
「あっ、バスだ」
 ふと私がつぶやくと
「えっ」
 うつむきがちに歩いていたM太が顔をあげた。
「走ろう!」
 すると突然、M太が走り出した。急に走り出してしまった友達の行動に、私は一瞬目を疑った。そして出遅れた。
「ま、待って!」
 おそらくこれを逃したら、次は少なくとも何十分かは次のバスが来るまで待たなければならないことをM太は知っているのだ。しかし家に帰る手段はバスだけではない。
「バスがダメでも電車があるよ!」
 私はM太の背中に向かって叫ぶ。
しかし私の提案は却下された。
おそらく、電車よりバスに乗った方が早く家に帰れるからだ。
M太は私に背中だけを見せたまま、無言のままひたすら走る。バス停まではだいぶ距離がある。
「走っても間に合わないよ!」
 私の声がM太の背中に体当たりする。
それでもM太は走っり続けた。しかたなく、私も走る。
それにしても、なんて速さだ。
さっきまでベンチから転がり落ちそうになっていた人とはとても思えない。

M太は体を左右に揺らしながら前へ前へと進んでいく。
どんどんどんどん行ってしまう。
追いつけない。
私とM太との間は常に一定の距離が保たれていた。
M太の背中のキャラクターが私に笑いかけていくる。

M太は進む。どこまでも。体、そして頭までもが左右に揺れている。
するとどこからともなく、おかしさが込み上げてきた。
「待って、待って! ちょっと、止まって」
 私は叫んだ。バスになんて乗れなくたっていい。逃したっていい。
お願いだから、これ以上、私の前を走ら
ないで! 
込み上げてきたおかしさをこらえる。おなかの右側が痛い。M太に話しかけようとする声は喉に詰まる一方なのに、笑いだけは口からこぼれ出そうになる。

今、目の前を走っているのは、本当に私の知っているM太なのだろうか。先ほどまで、あんなに疲れ果てていたではないか。それなのに今、こんなに生き生きと走っている! バスのために!!

 駅に向かう人たちを私たちはどんどん追い抜いて行った。みんな楽しそうに仲間や友達や彼氏や彼女と喋りながら歩いている。
こんなんじゃなくて、私だって本当は楽しかった1日の余韻に浸りながら帰り道を歩きたかった。
どうしてこんな目に合わなけれないのだろう。

M太の走りっぷりと頭の揺れ具合を見ていたら、突如、私の頭の中に野菜が浮かんできた。私の前を、野菜たちが頭フリフリ走っている。

アスパラ、つくし。
頭の中にアスパラとつくしがパッと浮かぶ。

アスパラ、つくし、れんこん。
アスパラ、つくし、れんこん。
おや、れんこんもやってきた。

M太の骨太な体型からはれんこんの方がしっくりくる気がするけど、その頭の振り方は、アスパラやつくしを連想させる。そしてなぜかブロッコリーまで登場!

アスパラ、つくし!
アスパラ、つくし!
アスパラ、つくし!

アスパラ、つくし、れんこん、
アスパラ、つくし、れんこん、
れんこん、れんこん、れんこん……
ブロッコリーーー!!

イェーイ。

私の中で野菜たちが絶好調に踊り耽っていた頃、私たちはどうにか目指していたバス停にたどり着くことがてきた。
バスはまだ停まっていてくれた。

ああ、これで、野菜たちから解放される。
バスの手すりにつかまり、なんとかバスに乗りこむ。息が切れて苦しい。
バスの運転手さんと目が合う。待っていてもらったのだから、すみません、ありがとうございます。の一言を告げるのがおとなとしてのマナーである。
しかし私の口から発せられた言葉は、
「ふぬーーー」という妙に高く、うわついた声だった。
鼻から抜けていく我が声にあたふたし、心の中で何度も謝る。
ちがうんです。そうなふうに言いたかったわけじゃないんです!!
そういくら弁解しても、私に冷ややかな視線を向ける運転手さんには届かない。

全部、M太のせいだ。M太が走り出したせいで、お腹は痛いし、野菜は舞うし、おかしな声は出るし、運転手の人に変な顔はされるし。たとえそうだとしても、今いちばん怪しいのは、完全に私だ。
目の前には、私を散々くるしめたアスパラガスが、きょろきょろ座る席を探して、頭を左右に動かしていた。

そして、私は学んだ。全力疾走と恋をすることは、ちょっと似ている、と。
どちらも走り出したら急には止まれない。
この時、なにかが始まったことは確かだった。
そのどうにも憎めない、ユニークで愛すべきM太は、現在、私の、夫なのである。


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