ウン命


 男ならば絶対に守り通さなければならない事がある。
 一つ目はプライド。プライドがなく、常に流されて生きる男に社会という荒波を航海出来るほどの技術はない。上の者に媚びへつらい、下の者に強く当たる。一般的な社会人として、平凡極まりない人生を送るに違いないのだ。私はそうはなりたくない。絶対にプライドは失わない。
 二つ目は女の笑顔。これは男が人生を賭してでも守らなければならない物の一つだ。プライドなら特定の場面でなら捨て去ってもよいかもしれんが、女の笑顔はいついかなる時でも守らなければならない。特に自分を愛してくれる女なら尚更だ。理由?そんなものあるか。理由がなくとも、女を守るのが男の役目だ。
 三つ目は我が子の幸せ。これも女の笑顔同様、男が人生を賭してでも守るべきものだ。理由も同様にない。強いて言うなら、男だからだ。子供は我儘かつ金がかかる。自分の時間を奪われ、あまつさえ金さえも子供のせいで溶けてゆく。しかし、それが男の幸せだ。男は女に、そして子供に振り回されて生きることこそが真の生き方なのだ。もし、我が身が恋しく、子供のために粉骨砕身できない男がいるのならば、それはまだ一人前とは言えない。血肉を削って働いて得た金を自分以外の家族に使い、幸せを提供する。それが男だ。
 そして最後。四つ目。これが最も重要である。
 電車に乗っている時、家にいる時、学校にいる時、外を歩いている時、外食している時。いついかなる時でもその四つ目に関しては、守り抜くべき、いや守り抜かなければならない。
 では、よいだろうか。もし、この時点でピンとくるものがない男は心して聞いて、これからの人生に大いに役立ててほしい。
 男が絶対に守り抜かなければならない事。その四つ目は、

『ウンコを人前で漏らさない事』である。

 


 大学一年の夏、四ツ谷にある大学に向かう東海道線の中で俺は人生の岐路を迎えていた。
 横浜を通り過ぎた瞬間に襲ってきた圧倒的な腹痛。満員電車内に蠢く世のお父様方の体の支えがなければ、俺はその痛みになす術なく、足の根本からボロボロと崩れ落ちていたに違いない。約二十年生きてきた俺の人生の中で瞬く間に一位を掻っ攫うほどの強烈な痛みだった。
 不運な事にその痛みには大便が伴っていた。その勢いあるであろう噴出力に俺の肛門括約筋は何度も負けそうになる。腹痛を抑えようとお腹を抑えると一気に便意が増大し、逆に大便を押し返そうと力を込めると腹痛が増進する。東海道線内で激臭テロを起こさぬべく、俺は扉に身を任せながら、自らの身体と一進一退の攻防を繰り広げた。
 川崎駅に着いた。大きな駅であるため、トイレは確実にある。
 しかし、この通勤ラッシュ時である。世のお父様方がこぞって都心に向かう中、俺と同じく、闘いを繰り広げているお父様方は少なくない。トイレに行き着いても、そこからまた幾分か列に並び、便意と腹痛との三国志を孤独に行わなければならない事は目に見えていた。
 俺は自分のケツの筋肉に絶大な信頼を寄せ、川崎駅をスルーする事にした。
 目指すは大学のトイレ。誰もいない、自分一人で思う存分、用をたせる百点満点のトイレ。綺麗で紙がきれていることもない。安心安全を兼ね備えたトイレ界のガンダーラが大学構内にいくつも存在する。
「そこに行けば、どんな夢も叶うのだ」
 俺は自分を鼓舞し、川崎駅で閉まる電車の扉を強く見つめた。

 俺の自信は瞬く間に打ち砕かれた。先程までの痛みは相変わらずであったが、程なくして肛門括約筋が限界の意を発したのである。息子の能力を過信しすぎた父親の気分であった。
 強く締めればよかった横浜川崎間とは打って変わり、最早強く締めることすら覚束無い危機的状況に陥っている。すでに幾度なく、本丸への侵攻未遂があった。とてもまずいのである。
 そも、どうしてこのようなことになったのか。読者の皆様にも説明しておこう。決して辞世の句ではない。
 元始、女性が太陽であったように、俺のお腹は弱かった。食べ過ぎ、風邪、乳製品、緊張。あらゆる要因をもって、俺のお腹は壊れ続けた。幼き頃から、止まることを知らなかったのである。
 それに気付き始めた頃こそ、自分のお腹を過信し、あらゆる危険物質に手を出しては、その都度、個室で烈火の如き戦いを繰り広げていたものであるが、大学生になり、ある程度の選択権を有した俺は、そのような危険物を避けるようになった。幸いにも大学では意味もなく発表させるという義務教育における盲信的教育はなく、自分のペースで勉学に励むことができる。授業中に行きたい時にトイレに行くことだってできた。大学生になり、俺は自分のお腹に対して、優位的に振る舞うことができていたはずだった。
 ただ、たった一つ。俺にもどうすることもできない事があった。
 親である。
 俺は大学卒業までは実家で暮らすと決めているため、四ツ谷にある大学に一時間半かけて横浜の実家から通っている。高校生の通学時間と比べると二倍ほどに伸びたのであるが、実家で暮らすということの利便性を考慮さえしてしまえば、そのような事は一抹の不安にすらならなかった。少し遠いな、というだけで特に気にもかけもしなかった。
 俺の母親は料理が好き、かつ量絶対主義者ある。料理が好きであることは特に問題はなく、こちらとしても常日頃からバラエティ性に富んだ素晴らしい料理を頬張れるのだから、口出しなども一切せず、殊勝な心掛けだ、と心の中で賛辞を送っていた。問題は量絶対主義のほうである。
 母親の料理は美味であることに加えて、決まって量が多かった。俺と妹、そして父親に振る舞われる料理はゆうに五人前を越えることが当たり前だった。残せば、母親の鉄拳が下る。味にケチをつければ、翌日の弁当が劇物に変わる。父を主導とし、俺と妹は一心不乱に食にがっついた。
 その大食い動画に出てくるような料理に時間性はなかった。朝であろうと、弁当であろうと、夕飯であろうと。その量は人知を超える。おかげで俺と妹はすくすくと育った。弁当のおかげでクラスの話題になることも珍しくなかった。
 本日の朝ご飯も例の如く、豪勢であった。よくも朝からこんなに料理できるな、と低血圧の俺は思った。ただ、母親の料理がまずいということは決してない。今まで弁当も残したことがない。そういった考えがふと頭に浮かんだからであろうか。俺は本日のラインナップを深く考えることもなく、少ない時間を駆使しながら、口を動かした。洗い物をしながら、「朝からよく食べるわね」と嬉しそうに母が言っていたのが記憶にある。俺は、尚更残せない、と奮起した。そして、無事に十五分ほどで完食し、洗い物をしようと流しに向かい、大きな鍋が置いてあるのを見て、俺は気付いたのである。

【俺は朝からこんなにも大量のクリームシチューを食べてしまったのか?】

 乳製品という神が生んだ天然の下剤になす術なく、俺のお腹は崩れた。それが今に至る。今思えば、「こんなに食べてしまったのだから、またお腹痛くならないだろうか」と不安に煽られたことも此度の激戦の引き金の一つと言えるだろう。まあ、それはともかく、これが経緯だ。
 走馬灯のように今朝の出来事を懐古した俺に選択肢はなかった。
 品川駅で降りる。そこが関ヶ原だ。
 街並みが東京に変わる。それに釣られるように俺の意志も変わった。
 最早、ガンダーラを目指している時間はない。三蔵法師がフェラーリに乗って、悟空の筋斗雲を嘲笑いながら旅をしたならともかく、東海道線というそれほど速くない馬に乗っているのだから、決断の意図は自明であった。俺は敦煌で下車することにする。
 品川駅のトイレはすでに経験済みであった。俺の足は決められたレールを爆速で走るプラレールのようにきびきびと動く。人の合間を縫い、俺は迫真の顔で進み続けた。
 トイレを取り巻く人の列を見て、絶望したのはそれから数秒後のことである。他のトイレをあたるか、と一瞬考えはしたが、駅から出てトイレを探す時間的かつ精神的余裕はすでになく、俺は泣く泣くその列に加わった。万里の長城は日本列島より長いというが、俺が最後尾に立つこの列はその万里の長城よりも果てしなく長いものに思えた。
 自分の肛門と熾烈な争い、そして時には柔和的会談を行いつつ、俺は憮然として立ち続ける。
 ここで折れてどうする。韓信だって、人の股をくぐったではないか。夫差は薪の上で臥し、勾践は苦い胆を嘗めたではないか。人類史に残る偉大な男は必ずと言っていいほど、目も当てられない苦労を経験しているのだ。男なら、いつしか大きな決断、もしくは大いなる苦労を経験せねばならぬのだ。そして、それは必ず将来的に大いなる成功に繋がるのだ。この第一次肛門括約筋絶対防衛戦線だって、成功の暁には輝かしい未来が迎え入れてくれると思えば、苦ではないはずだろうが。ここで折れるな。自分に負けるな。たかが排泄物だ。今後、自分が排泄物のような扱いを受けぬためにも、絶対に負けるんじゃない。頑張れ!
 自分の熱い気持ちだけではない。周りの男達もまた自分を鼓舞する存在に見えた。
 俺の前に並ぶ自営業を営んでそうな紳士はすでに組織中枢まで侵攻を許しているようで、なんとも形容し難い立ち姿である。しかし、そこにあるのは汚物と戦う惨めな男の姿ではなく、自らの尊厳をかけた孤高の戦いに臨む男の姿である。俺は年も離れ、名も知らぬ男にささやかながらもエールを送り、その戦いが実を出さずに、実のあるものになることを願った。
 後ろを振り返ると、平静を装っているも、額から尋常じゃない脂汗を流してる眼鏡のエリート風サラリーマンが遠い目をしている。靴を見遣ると、ファッションに興味がない俺でもたじろぐほどのお洒落な革靴を履いていた。結婚指輪も見えた。
 この男、家族のために戦っているのだな。そう思うと、涙が出そうになる。妻の知らぬところで天下分け目の戦いを繰り広げているのだな。素晴らしい。まさしく、漢だ。名も知らぬサラリーマンよ。お前こそ、真の漢だ。
 だが、神よ。もし神がいるのなら、もし少しの気まぐれでも特定の人間に施しをしようという意思があるのなら。そうならば、真っ先にこの男を救ってほしい。見てくれ、この男の顔を。戦いの場にいることは確かだが、この遠い目をして、向こう岸の散り桜を眺めるようなこの顔はすでに死を決意した顔なのだ。もうこの男は真っ白な灰。介錯を待つ処刑人なのだ。それでもなお、自分が発する異様なる臭いを気にも留めず、悟りを開いた顔で並び続けるこの立派な男をどうか、どうか救ってくれないか、神よ。
 二人の勇士に挟まれ、俺は気持ちを強く持った。

 恋焦がれ、我が手中におさめようと願い続けた個室はもう眼前に迫っていた。あと二人。前にいる二人がガンダーラに飛び立てば、いよいよとなる。
 しかし、俺の防衛ラインは先刻、瓦解し、敵軍を食い止めるは生まれてこの方、家族以外に生で触らせたことのない、水々しい桃尻のみとなった。俺は自らの桃尻が汚れていくことに苦渋の念を隠せなかったともに、血縁者以外に初めて、この桃尻に触れたものが手で触れたくもない汚物であることに袖を濡らす勢いだったが、その汚物も自分の血縁者とかわりないのではないか、と閃いたことで、濡らさずに済んだ。
 そうこうしているうちに自営業らしき男が奇妙な歩き方をして、ガンダーラに到着した。俺は、その苦しみに満ちた旅の完遂に拍手を送る。
 血眼になりながら、数多ある扉を観察する。決して、見逃してはいけない。少しでも扉が開いた個室に飛んで行ける準備をしておけ。事態は数秒を争う。クラウチングスタートはもうできない体になってしまったが、気持ちだけでもクラウチングさせるのだ。
 右手のトイレに眼力を飛ばしていた、その時。左手に設置されているいくつもの個室の内の一つの扉が動く音がした。
 頚椎最大出力で首を動かす。
 左側。壁から三つ目。手前側。
 確かに扉が僅かに開いている。
 考えている時間もない。俺の足は一目散にその扉の部屋に赴いた。
 列の先頭からその個室までわずか数歩。たった数歩なのだが、その数歩が俺の人生史上最大の数歩だった。後生まで忘れないだろう。
 もう桃尻防衛拠点も陥落し、敵軍は「こんにちは」していた。
 力強くドアノブを掴む。冷たい金属製の感触が自分に勝利の喜びをもたらす。
 このドアが開いてから、誰かが俺の横を通りすぎた気配はない。もしかしたら、まだ誰か入っているのかもしれないが、もうここまで来たら後に引けん。もし中にまだいたのなら、力づくでも追い出すまでだ。男のトイレは扉の開閉が交代サイン。意図せぬ開閉だったとしても、開閉したのであれば、男を見せるべきだろう。醜態を晒したとしても、それがお前の業である。
 なかば興奮状態で俺は扉を開けた。
 誰もいない。俺が見逃しただけだったか。
 悠然と扉に向かい、便座に照準を合わせる。前屈みになりすぎると危ないので、ゆっくりとズボンを下ろす。次はパンツだ。
 プラモデルを作るような繊細な手付きでパンツを扱う。膝まで下ろしたところで、視線を落とす。俺はほっとした。

【よかった。こんにちは未遂で済んだか。まだハイタッチはしてないみたいだ。よし、では座ろう】

 安堵が一気に襲ってきた。危ない、危ない。気を緩ませるな。遠足は便座に座るまでが遠足だ。
 便座に目視で位置を合わせ、膝を曲げようとし、視線を上げた、その時だった。
 俺の目の前に、値札のついたままの洋服を着た少女が現れた。足から徐々に顕現した。
 開いた口が塞がらなかった。なんだこれは。人がこのように現れるなど、奇襲もいいところだ。しかも、どうして女子がいる。ここは男子トイレだろう。先程の勇士達もみな男だったはずだ。
 少女は何も喋らない。じっとりと俺を見つめている。彼女の視線が下に向かったのを見て、俺は我に帰った。
 先程の続き。ゆっくりと便座に座る。安堵の声が漏れる。正直、女性に恥部どころか弩級の醜態を見せてしまったことなど、今はどうでもいい。ここは男子トイレだ。たとえ少女がいようと、男子トイレなのだ。
 敵の降下がそれなりに落ち着いてきたころ、俺は少女の顔に目を移した。未だに視線は下のままだ。俺は恥ずかしくなった。

【おいおい、そんなに俺の下肢を見つめるなよ。未だ攻め込んだことのない鉞だけどな。いずれは、数多の女を落とす伝説のまさかり・・・】
 俺は自慢の鉞を見ようとした。そうして、言葉が詰まってしまった。
 脳が勝手に動き出す。これは。そうだ、この場面は初めて理性を感じた小学一年生の場面だ。布団の中で妹と話しているその時の記憶が俺の最古の記憶だ。ん?次はなんだ。これは宿泊体験か。楽しかった。この日を境に今でも付き合いのある内田と仲良くなったんだよな。お、これは卒業式。これは部活の大会。修学旅行。初恋。受験。説教。オリエンテーション。試験。
 そして、その場面の連続は先程の少女との出会いの場面で終了した。
 俺はその場面を何度も脳内で巻き戻し再生し、推敲を重ねる。五度目でようやく結論に至った。

【あぁ、あの開いた口が塞がらなかった時か】

 俺は一度、少女に目配せし、紳士的な笑顔を見せたのち、深淵なるパンツを覗き込む。敵を追い出すことに夢中で、自分のパンツがいつも以上に質量を帯びていたことに気付かなかった。安堵の快楽に浸りすぎて、強烈な臭いにすら気付かなかった。男が守り抜かなければならないことを守れなかったことに気付かなかった。
 俺は少女に聞こえるように言った。相変わらず、表情を崩さない少女に同情を求めるように。

「なるほど。気付かなかったよ。こんにちは」

 ハイタッチをかましていたパンツは今も品川駅構内のゴミ箱に眠っている。

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