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温泉と虹の架け橋 

サウナと温泉にハマっている。昨日は日本三大薬湯と言われている松之山温泉に足を伸ばした。雪が降っており車で行く際一度山道で滑って少し怖かったが、道が空いていたためことなきを得た。温泉は少し濁ったしょっぱいお湯だった。露天から山の景色と月がよく見えて雪の降るなかお湯から立ち昇る湯気にけぶる山の自然はとても素晴らしかった。

ドイツのサウナは混浴で男女問わず全裸で楽しむらしい。どんなものなのかマンガで少し読んだけれども興味深かった。日本の風呂とて昔は混浴だったという。しかし今混浴の風呂に行くかといったら、やはり混浴ではなく男女別になっているお風呂の方に行くだろうなと思う。そのほうが緊張感なくリラックスできそうだからだ。
だけれどももしドイツに行ったら混浴のサウナに行ってみたい。そのある種楽園のような場所を体験してみたい。

ドイツ生まれの哲学者フリードリヒ・ニーチェは療養のために保養地を転々としながら主要な著作を著したという。湿気や寒さを避けて南仏やイタリアに行っていたそうなので今私のいる日本の新潟などは寒く湿気っぽいためニーチェには嫌がられそうだけれども。温泉水を飲んだり、水風呂に入ったり、山道を散歩したりといったことをしていたことを知ると、少しニーチェの存在が身近に感じられる。あまりそういった話は聞かないけれどニーチェもサウナに入ったのだろうか。

神保町と新潟県を行き来している。月に2回ほど神保町に行き、日々を山々に囲まれた南魚沼で生活している。ずっと家にいると生活に飲み込まれてしまうので、移動することは気分転換になる。私は生活や、仕事をどこか憎みきれないため中途半端に生活に巻き込まれながら、しかし生活にどっぷりも浸かりきれない。日々生活をしているのにどこで生活をしていても、そこの人ではないように感じている。移動しながら生きているほうがとりあえずしっくりくる。山の近くに住んでおり都会に降りていくのだからツァラトゥストラのようではないかといわれ、まったくそう思っていなかったので、そうか言われてみれば山のほうに住んでいるのだと気づいた。そうだとしたら私にとっては生活が修行なのだろうか。

コールセンターで働いていると毎日毎日よく話すお爺さんお婆さんから沢山の電話がかかってくる。ひとは話すことが好きだ。正確には話して聴いてもらうことが好きだ。話を聞くことには大体のひとはそれほど熱心ではない。聴いてもらうだけで自己解決してしまう人の何と多いことだろうか。話を聞いてもらいたい人の何と多いことだろうか。

日々の虚しさに負けないために動いて移動して運動をする。体を使う。例えば走ったりサウナに入ったりすると一時虚しさを忘れられる。身体の意識に集中することができる。そうするとそのまま気持ちよく眠ることができる。夢や希望や展望は特にない目の前の安楽を愉しむ日々、それは末人の生活かもしれないけれどもしかしいまの私にはそうするほかどうしたらよいのかわからない。ニーチェの言っていることがいいのかもよくわからない。人間は不可能に挑戦するべきとニーチェは言っているかのようだ。

旅の中で車や新幹線に酔う、胃がもたれる、吐き気がする。子供のころからずっと吐き気に悩まされている。あまりにずっと吐き気がしていたので大人になるまでそれが吐き気だと気づかなかったほどだ。三半規管が弱いのかもしれない。気分が悪いと助けてほしいと祈ってしまう。しかし誰が、何が助けてくれるのだろう、神様なんてものはいないのに。そもそも我々には唯一神なんてものは神が死んでしまう前からいないし神的なパワーや気のようなものは信じていても人間より偉い絶対的な神様がいるとはそもそも考えていない。それでも辛いと助けてほしいと宛先のない祈りを祈ってしまう。宛先のない祈りはどこへいくのだろう。虹の橋のようにどこに降りているのかわからない放物線を描いて何処かへ消えていくのだろうか。虹の麓にあると言われている宝にはたどり着けない。祈りの宛先は虹の麓のようなものかもしれない。おそらくは祈りの橋をかけながら生き続けていくほかないんだろうな。

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