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シン・エヴァンゲリオン公開を祝して(ネタバレあり)

私は90年代ではなくゼロ年代を中高生として過ごした、いわゆる「エヴァンゲリオンに熱狂し 旧劇場版エヴァンゲリオンをぶつけられて大変なことになったオタク」からは一つしたの世代になるだろう。

私にとっての90年代はウルトラマンティガがいて、ビーストウォーズがやっていた時代だし、オウム関連で連日報道されるニュースは幼稚園児である私に不健康すぎるものだからか親は「絶対に見せなかった」「子供が尊師マーチを真似して困るとママ友は言っていたがそもそもあんたには見せなかったしね」と母がいつか言っていた。まさにそういったテレビから引き離すためにゴジラやウルトラマンのビデオが常にデッキに挿入され、自分の意思でテレビを見られる小学生になるとティガというヒーローがやってくるのだ。

エヴァンゲリオンと向き合うのは中学生になってからのことになる、それまでは「アニメ名場面ベスト」に登場する少し前のアニメでしか無かった。

当時の私の中二病は黒龍波への憧れ的なものではなく「オタクになること」へのあこがれのようなものであった。オタクっぽい行動や知識にかっこよさを見出し、ついでにスーパーロボット大戦にハマっていた私は作品を順番にレンタルビデオで見ていくことになる。

先に行っておくとその中で私の一番大事な部分に残り長い間影響を残したのは機動戦艦ナデシコの方だった、エヴァンゲリオンの順番がくるのは少し後だった。

幸運だったのはちょうどPS2ブームでDVDが普及し「じわじわとレンタルビデオがDVDに置き換わり半々で置いてある」状況だったことは間違いない、初めてのエヴァンゲリオン視聴は途中までビデオで途中からはDVDだった。おかげさまで「ビデオフォーマット版と放送版が両方入ってる」DVDで通したのだ。

当時のエヴァンゲリオンの感想は素直に面白がっていると同時に終盤の精神世界パートに関しては「意味はわからないし怖い」と「このいけないものを見てる感が心地よい」という感じだった 実際当時のオタクへの流行り方もそんな感じだったんだろうなと2chや個人サイトの時代にネットで情報を集めようとした時も思っていた。

AIR/まごころを君に関してもそういうものだったと言っていい
衝撃的で見たことの無い映像でエログロナンセンスで見てはいけないような気がするしそれを見ているという背徳感を気持ちよさへと変化させるのは自分の中のアニメ体験には無かったものだった。

「で、人類補完計画ってなんなの?」とブックオフに中古で売られている謎本を漁ったりもしたが、まぁ…謎本が何なのかわかってる人達なら「知りたかったことは書かれてなかった」故に落胆したことはわかるだろう。

ここまでで気がついたかもしれないが「画面の前のオタクに向けてこのアニメはなにかを言ってるんだ」という認識は結局持たなかった、そういう見方があること、実際に庵野秀明がそういうことを言っていたとしるのはしばらく後になってから知る。

そこからのエヴァンゲリオンとの付き合いは概ねスパロボにたまにやってきて暴れていく僕らのスーパーロボット軍団の一員だった。

認識が変わったのはエヴァンゲリオン2というゲームが発売されたことだ、エヴァンゲリオンのテレビゲームでは唯一庵野秀明がちゃんと関わったゲームでもある。
内容はガンパレード・マーチのシステムに登場人物とシナリオをエヴァンゲリオンに置き換えたものなのだが、それ故にプレイヤーが登場人物をイジっていくことでいろんなことが起こるというわけだ。

だがこのゲームは機密文書という形でなんと作中の意味のわからなかった言葉の意味を教えてくれるというとんでもないシステム「深度情報」というものがある「ロンギヌスの槍って結局なんだったのか」「人類補完計画って何」「使徒って何?」概ね私がエヴァンゲリオンに対して知りたかったことはここに揃っていた。私がエヴァンゲリオンに求めていた答えとは心理学的なものでも画面の向こうのオタク達がアニメとの向き合い方について考える仙問答でも無く、ガンダム大百科に載っている「メガ粒子砲はミノフスキー粒子を固めて射出してる」みたいな「作品世界の中での原理」だったので本当に満足した。

翻ってアニメの内容に疑問が蘇る「人類補完計画の正体やアダム・リリスの正体がああいうものであるなら なんでそこを説明せずにシンジくんは椅子に座って問答してるんだい?」って話である。

ここはまぁしばらくわからなかった、当時の私のコンテンツへの向き合い方は結局浅かったし、作品を読み解くという訓練が身体に染み付いていなかっった。

ヱヴァンゲリオン新劇場版序も実は公開時には全然興味がない状態だった、後にソフト化されてから見た時はあれほど本歌録りされたヤシマ作戦があそこまでエンターテイメントになるのかと驚いたものである、

そうして破がやってきてQがやってきて(結局これも映画館で見てないので偉そうなことは言えない あの頃はもっと他に夢中なものがあった)

しかしそれよりもTwitterが現れたのが大きかった、ニンジャスレイヤーなどを通して人と繋がり、打てば響くように作品が何を描いていて登場人物のいいたかったことはこれだよね?と正解でも不正解でも投げかけてその時放送されたコンテンツに真実を見出そうとする行為を繰り返したことは大きな糧となり作品に向き合っていく筋肉をつけてくれた得難い体験の一つです

幼少期に繰り返し見た思い入れあるコンテンツの続きとしてのシン・ゴジラを迎え。

インターネットで知り合ったエヴァンゲリオンファンたちとの「メタファーを抜きにしてエヴァンゲリオン劇中内で起こっている出来事のあれこれを語る」という反復作業により自身の中のエヴァンゲリオン感を固めた上で望んだシン・エヴァンゲリオンの内容は福音だった

ある意味めちゃくちゃ性格のいい場面も悪い場面もあった、今回は人類補完計画などの謎ワードについて全て説明する、説明するが「そこがわかったからといってエヴァンゲリオンの物語を理解する助けにはならないよ」といわんばかりに登場人物の気持ちの問題に本筋は転換していく、一歩間違えれば「またかよ」と言われかねない勢いだが今回はそれを逆手にとった、登場人物の気持ちの問題についてもちゃんと説明する、それはきちんとこれまでのエヴァンゲリオンの劇中で見せてきたことにも一致するもので、事前に交わしあったエヴァ語りで出来上がったエヴァ像そのままにパズルのピースのようにピタリとハマるものであり、庵野秀明は作品を追いかけてきてきた人に対してここまでの信頼を持っていたのか!と同時に「そこまで追いかけられなかった人に説明する」という形を持ってしてエヴァンゲリオンを完結させる覚悟を持ってきたのかという話である。

実際に説明されたことは実は旧エヴァンゲリオンから一貫して変わっていなかった「同じ出来事でも角度を変えてみると印象が変わる」「自分がネガティブに受け止め過ぎているだけなのではないか」

旧劇場版では自分の妄想の中のアスカに首を絞められるが、そもそも現実世界のアスカはそんなことするだろうか?それを確かめるために他人と自分が分け隔てられ、分かり合うにはコミュニケーションするしか無い世界に帰ってきて終わる。

だが今回は碇シンジは自分がなんでこんなに落ち込んでるのか、自分が何をしでかして何をしないといけないかを何日もかけて立ち直っていく。
これは決して「今回のシンジはそうした」という話ではない、旧劇場版ではカヲル君を殺したショックから立ち直る時間を与えられないままネルフ本部が戦略自衛隊に強襲され、ゼーレの補間計画が始動してATフィールドを剥がされた魂だけの世界で自分と向かわされた、でもシン・エヴァンゲリオンと同じ用に「長い時間があれば」立ち直ったのであろうという話でもある。

実際に庵野秀明が鬱状態を経験し立ち直った経験から生まれたのかも知れない描写でもあるが「碇シンジは心身ともに健康ならめちゃくちゃ強い」というのは新劇場版以前から言われていたことであり、それはオタクの与太話でもスーパーロボット大戦のアレンジでも無く「事実だった」ということ、そしてシンジが立ち直るまでの間、いじけていてもいい場所を用意してくれたのが大人になったトウジやケンスケなどのかつての友人たちであったこと。
Qのラストで消える前に「縁が君を導く」と言っていたカヲル君の言葉が浮かび上がる。

巨大綾波が再び現れ「ま、またか?!」と一瞬思わせたところからの「イマジナリーエヴァンゲリオン 誰も見たこと無い架空のエヴァンゲリオンだ」という言葉が痺れる 奇しくもエロ漫画家のモグダンがエヴァンゲリオン二次創作のガイドライン公開に合わせて綾波レイを描くことを辞めたという歴史的な出来事の後に飛び出してきた巨大すぎる存在である

「エヴァンゲリオンは自分達の世代の作るものがヤマト・ガンダムのコピーでしか無い世代の葛藤」という評価がかつてのエヴァにはある。

でも今は違うのだエヴァンゲリオン以後に生まれた莫大な「誰かの想像上に存在する架空のエヴァンゲリオン」と決着をつけるのである「同じ出来事でも見る角度によって意味が変わる」と旧エヴァンゲリオンでも伝えたきた集大成として「エヴァンゲリオンも見る人によって受け取り方が代わり 人によって見えているものが違う」という集大成としてイマジナリーエヴァンゲリオンという物体をそのまま物語にお出ししてしまう。

新劇場版に関しては序破Qとわりかし庵野秀明の気持ちや思想などを読み取らなくても画面上に置いてあるもので答えを導きやすく作られていたが、「エヴァンゲリオン」というコンテンツと決着をつけるにあたってはある意味むき出しのメッセージが飛び出してくるのだなと思った。

でもそれはかつて旧エヴァンゲリオンを見た時のような「見てはいけないものを見ている背徳」ではなく「なるほどー!!!」と疑問が氷解していくような、シン・ゴジラでパズルが解けるシーンのようなものであった、ていうかあれもヒント(答えを最初に決めてそれに合わせて解かないとわからないようになっている)だったんだろう。

アニメを卒業して現実に帰れといいたいのではなく「アニメを見て元気を貰ってその元気を使って現実を生きて欲しい」と今度は誤解なく伝わるように言い直す、エヴァンゲリオンは繰り返しの物語 ずっと同じことを語っているが見る側の気分でも作ってる側も気分でも出力される内容が変わってしまう中で今度こそ伝わるようにお出しされる希望の槍。

そういったメタな視点とは別にダイナミックな演出で突撃ヴンダーなどアニメとして面白い場面や、トンチキで笑ってしまうような場面もバランスよく織り込んで突き出し 最後はフィクションと現実が混じり合った実写の世界を少し大人になった彼らが駆け出していく。

最後のシーンを「現実に帰れ」だと誤解している人もいたが「実写の世界に実写のシンジ」ならそうだったかもしれないが 実写の世界に手書きアニメのシンジとマリが書き足されて走っていくのだ、アニメと現実は切り離すものではなくいつもそこにある、シン・ゴジラのラストで凍結されたゴジラがずっと東京駅にあるのと同じだ、ポジティブにもネガティブにも「僕らはこの映画の後ずっとゴジラのことを考える」 答えは既にシン・ゴジラの時点で出ていたのだろう。

今回のエヴァンゲリオンに納得がいかない人もいるのだと思う、90年代の新興宗教や99年に世界が滅びると言われ、同年代コンテンツがガイア思想に基づいて地球の意思が人類を滅ぼすみたいなテーマを採用した作品を多数発表した世相の中でエヴァンゲリオンをぶつけられる『そういった意味でのエヴァンゲリオン』が好きだった人には受け止められなかったり丸く見える部分もあるのかも知れない、LDのライナーノーツなどを手掛けた小黒祐一郎さんのWEBコラムで

『誰かが『エヴァ』という作品を否定したとしても、その語る行為そのものがヤマアラシのジレンマの一例となり、わざわざ否定的な発言をする事で、その人物がアニメで現実の埋め合わせをしている事が明らかになる。つまり、心に補完されるべき欠落がある事を示す事になる。「こんな展開は認めないぞ」と怒っても「ほら、そんな事で怒るのは、自分の心の隙間をアニメで埋めようとしているからです。あなたも、心の補完が必要なんでしょう」と作り手に返されかねない。』http://www.style.fm/as/05_column/animesama63.shtml

という言葉でEOEを振り返るパートがある

エヴァンゲリオンに本気になってのめり込み過ぎたが故に理想の展開と違うと怒ってしまうファンと「怒るほど本気になるってことはエヴァのことが好きってことじゃない?」という双極性の話だ。

翻って今回のエヴァンゲリオンには象徴的な台詞がある「君はもうリアリティの方で立ち直っていたんだったね」虚数宇宙にある記憶が具現化した世界でゲンドウと対話し ゲンドウが補間された後にシンジに向けられるカヲル君の台詞だ

TV版最終話やEOEでは発動した補間計画に引きずり込まれた精神世界の中で悩んで結論を出した碇シンジだが、今回は長い時間をかけて精神世界に行かなくても立ち直って最終決戦に間に合った彼を象徴する台詞である。

本当は碇シンジの悩みに いや、それぞれの登場人物の欠落を埋めるのに人類補完計画など必要なかった、ただ治るのにめちゃくちゃ時間がかかるだけだったのだ。

それはそのままシン・エヴァンゲリオンが完成するまでの長い時間との合わせ鏡だろう。

今回のエヴァンゲリオンにあの頃にようにのめり込め無かったことを「エヴァンゲリオンが終わった」とする感想も見た、それも一つの正解なのだろう、シンジ君のように時間が解決したのだ、エヴァンゲリオンを通して自分の欠落を補完する必要が消えたのだと思う。

僕は素直に「エヴァンゲリオンという作品 フィルムが見事に終わった」と思った それはこれまでエヴァンゲリオンが抱えてきた「シリアスに見えて実は笑えるシーン(なんだけどなんか真面目に考察されちゃった場面)」とか「シリアスな内容のことは置いといて理屈抜きに炸裂するかっこいいメカ」だったり「なんか良くわからないスーパーパワー」だったりの方も「エヴァンゲリオン」として総括し それらにありがとうと言って終わる。

さようならはもう一度会うためのおまじないとはよく言ったものだ

エンドオブエヴァンゲリオンで幕を閉じたエヴァンゲリオンは、その後巷にエヴァっぽい物があふれかえることで何度も会えた。そんなエヴァっぽい物に会うという経験を経てそれらにありがとうを伝えてさようならなのだ。

序でエヴァを再始動する時は「中高生のアニメ離れが叫ばれる昨今」と語った世相は代わり アニメ映画が何度も日本最大の興行収入をとる世の中になった大人がみんなアニメ見ててもおかしくない世の中にもなった、だからエヴァンゲリオンは完結する。でも君たちはエヴァンゲリオンに影響を受けた後続の作品に何度も出会うし 新劇場版シリーズそのものもエヴァンゲリオンの影響を受けた後続の作品の影響を受けてまた新しいモノになっている。

だからさらば、全てのエヴァンゲリオンなのだ

明日から頑張ろうと思えるいい映画だった。

もはや何がいいたい文章だからわからなくなっているが、シン・エヴァンゲリオンはとても楽しいいい映画だった。

個別のシーンを洗い出せば「あそこ爆笑したよね?」とかいいたいシーンが沢山あるがそれは君たちがそれぞれ思い思いにインターネットに書き込んで欲しい 私もふせったーに書いて放流している。

なんと言えばいいのかわからないが
真面目に感動する映画でも無かったけど真面目に感動する部分もあり、笑える要素もあり、関心する場面があり、熱くなる場面があってバランスの良い映画で だから感想を言うのも怖くないっていうそういう心地よさがあった。

良いエンターテイメントだった、メタ要素もむき出しの庵野秀明のメッセージも かつてのように刺激の強いグロテスクなものでないけど、間違いなく強烈で楽しい映画だった。だからありがとう。

なんだかわからない記事になったが「中二病になった時 オタクっぽいことがカッコいいんだと信じ オタクっぽくなるためにエヴァンゲリオンを見た」過去を持つ一人の人間として エヴァンゲリオンの完結に立ち会ったので自分の話がしたくなった。

みんなにはシン・エヴァンゲリオンがどういう姿に見えただろうか。

イマジナリーエヴァンゲリオンがもぐ波の象徴に見えて笑っただろうか。

そんなそれぞれに見えた違うエヴァンゲリオンの話を今はたくさん聞きたいです。



終記事。

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