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「教育」を再定義しよう

かなり調子に乗った題名ですが、お付き合い頂けますと幸いです(笑)

皆さんは日本の教育についてどう思いますか?何か課題点や疑問点など感じますか?

私は改善の余地しかないと考えてます(笑)

皆さん、思うことは多々あると思いますが、私の思う最大の問題点は教育にあたかも「解」があるような風潮です。

私の見解を紹介する前に、教育とはそもそもどのように定義するべきか考えてみたいと思います。解釈はヒトによって違うと思います。

まず辞書の定義を紹介します。

ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること。知識の啓発、技能の教授、人間性の涵養 (かんよう) などを図り、その人のもつ能力を伸ばそうと試みること。

この定義を読んで皆さんは納得しましたでしょうか?私の疑問点は下記2点です。

①望ましい姿とは?

②教育を受ける側の意思は尊重されないのか?

この定義だと、教育を施す側が勝手に認識する望ましい姿に変化させる為に働きかけ、教育を受ける側の意思に関係なく能力を伸ばそうとしている印象を受けます。

では、教育を施す側の認識する望ましい姿とは?

それは、人それぞれだと思います。つまり「解なし」が答えです。人間として一定の共通する道徳・倫理観はありますが、それを土台とした望ましい姿は人それぞれですよね。そして、そもそもその望ましい姿を決定するのは施す側ではなく、受ける側の本人であるはずです。

さて、私が冒頭で述べた見解に戻りますが、私の思う日本の教育の最大の課題点につきお分かり頂けましたでしょうか?

教育にあたかも「解」のある風潮と表現しましたが、それを二つに分解すると、下記の通りです。

望ましい姿は人それぞれであるべきなのに、あたかもその望ましい姿は一択であるかのうように認知されている

望ましい姿の決定権が逆転している

では、①の望ましい姿とは?簡単に言うと俗にいう「エリート」です。

エリートと認知されているヒトはどのようなヒトか?一般的には高学歴の高収入のヒトと認知されているであろう。

つまり「エリート=高学歴の高収入のヒト」になる事があたかも「解」になっているのです。

さて、エリートになる事が望ましいのだろうか?親として子供には社会に出て苦労して欲しくないという想いも分かるが、果たしてエリートになる事を教育を受ける本人は望んでいるのだろうか?そもそもエリートになれなかったら苦労するのだろうか?苦労の捉え方は人それぞれでは?

ここで伝えたいことは②で述べた通り、望ましい姿の決定権が逆転しているという事です。自分のものさしを醸成する機会が十分に与えられないまま、社会のものさしがあたかも自分のものさしかのように刷り込まれていきます。

では、教育を受ける側は何を望むのか。それは本人にしか分かりません。しかし、それを見つけるのがウルトラスーパーベリーハードなのですよね(笑)

「自分は何を望むのか」

この問いに対して即答できるヒトはどれくらいいるだろうか。

お金、旅行、ステータスといった目先のものではなく、自分にとって本当にに大事なもの。「そんなの知らんわ!」といって片付けることもできますが、それを見つけられるまでこの問いは一生付き纏います(笑)

一方、そもそもそれを見つけようとすること自体が誤ったアプローチだと思います。何故ならそれは自分の内側にある為です。見つけようとしなくても実は既にあるのです。ただ、それに気づいていないだけではないでしょうか?

では、何に気づけていないのか。それは自分の絶対的尺度です。自分のものさし。これだけは譲れないもの。奪われたくなないもの。これこそが自分にとって本当に大事なものだと考えます。

「個性・自分らしさを大事にしよう」といった謳い文句をよく見かけますが、この表現は曖昧で余計に混乱を招いているように見えます。

自分にとっての絶対に気づこう」こちらの表現の方がしっくりくるのではないでしょうか。

ローランドの言う「俺か。俺以外か。」に近いニュアンスです。

結局、自分にとっての絶対に正解はありません。その本人が正解だと思えば他の人が何と言おうと、正解なのです。ただそれを貫くことが重要です。そもそもそれが正解かどうかは本人も分かってません。貫き通して初めて正解になるのですから。

では、自分にとっての絶対にどうすれば気付けるのか。これは一概に回答できないですが、私の見解は「他者との衝突を通じた内省」です。

ヒトの価値観や思想は千差万別です。その価値観や思想に対して自分はどう思うのか。自分はどう感じるか。その衝突を繰り返して内なる自分と初めて向き合えると私は考えます。その為、できるだけ多くの価値観や思想に触れ、衝突することが重要です。「対立」する必要はなく、飽くまでも内なる自分との対話です。そしてそれを言葉や文書で発信することも等しく重要だと考えます。何故なら発信する事で客観的に内省できる為です。一旦、内側に溜めたものを外に出します。すると、また第三者の視点で冷静にそれを見る事ができます。

総じて重要なのは、他者との会話の中でも良いですし、読書でも良いですし、社会問題と向き合うでも良いですし、手段は様々ですが、全ての事象の先には自分がいるといった感覚を持つという事です。

では、最後に纏めます。

本来、望ましい姿に「解」など存在しない中、あたかも「解」が存在しており、その「解」が教育を受ける側の望ましい姿の「解」にすり替わってしまう結果、教育を受ける側は「自分にとっての絶対的尺度」を十分に醸成できない状態にあること

これが最大の課題だと考えます。

私の考える教育の定義は、「己の絶対に気づかせる為の手助け」です。

極論、ヒトは放置してても学びます。別に強いるものでもないのです。しかし、放置すると本人の発信先がないままです。その為、教育を施す側はそれを受信してあげるのです。そして受信したものを更なる核心へ深める為の手助けをするだけで良いと思います。余計なモノを吹き込むと、選択肢が増え、自分を見失う可能性があります。

Simple is Best

余計なモノは不要です。本人の絶対的尺度に導く為の手助けで十分だと私は考えます。






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