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坊主考

 今年の夏の甲子園をおさらいしていたら、そう言えば京都国際も関東一も坊主(に近い丸刈り)だったな、と気づいた。

 去年「非坊主」の慶応高校が優勝した事で物議を醸したのが、「サンプル」が消えた事でとたんに議論が鎮火するのだからゲンキンなものだと思う。

 しかしこういう恒久的なテーマは、「サンプル」がない時にこそ議論を深めるべきだと思うので、一人で蒸し返してみる。

 が、残念ながら「深まる」事はない。

 なぜなら、この議論に関しては坊主反対派、賛成派のいう事はそれぞれテンプレ化していて、かみ合っていないからだ。

 かみ合っている議論というのは、例えば「家系ラーメン最高だよな」という意見に対し「でも俺は夜しか食べたくないな」とか、少なくとも相手の意見を引き継いでいるものなのだが、かみ合っていない話(議論とは言わない)というのは、例えば「家系ラーメン最高だよな」という意見に対し「千石ラーメン廃業だってな」などと、かろうじてラーメンの話ながら相手の意見を引き継がない返しをする事に近い。

 坊主反対派、賛成派の言う事が議論としてかみ合わないのは、双方の「高校野球とは何か」という前提が違うからだと思う。

 反対派が高校野球を単なる「高校生のスポーツの一種」と思っているのに対し、賛成派にとって高校野球は何か神聖な「神事」に近いものなのだ。だから言ってる事がそれぞれの世界で完結しているわけなのだ。

 が、議論が進もうが後退しようが、事態は動く。反対派の主張は世の中のいわゆる建前なので、今後はその原則に従い、「非坊主」の野球部の数とその活躍が増えると思う。

 その一方で、高校野球を「神事」のようなものと考える人も一定数いて、坊主の野球部がなくなる事は決してない。理由のひとつは自分を「俺って進んだ考えの持ち主」と思い込んでいる反対派の主張を尻目に、大きなお世話と言わんばかりに坊主を別に苦にしていない子が一定数いる事と、もうひとつは精神性に基づく主義とかスタイルは、抑圧(?)されるほど洗練されていくものだからだ。

 話がかみ合わない者同士でも野球はできる。ひとつ言えるのは、坊主で良い子も坊主にしたくない子も、同じように野球ができるのが望ましいという事だ。

 ちなみに岡山放送の報道によると、坊主賛成派は「7.5%」らしい。確かに何か強いポリシーを感じる数字ではある。


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