100年の家、101年目へ
2021年の半分が過ぎた。コロナは相変わらず猛威を奮っている。急速にワクチン摂取が拡大する一方でデルタ株も登場、それでもオリンピックは開催だという。そんな世相を横目に家づくりも順調デス!
6月は地鎮祭に始まり、住宅ローンが無事実行され多額の費用をバシバシ決済する日々。
この金額の借金は最初で最後かもしれないが、自分でもびっくりなほど淡々と対応し、粛々と手続きを進めた。職業柄、こうした書面のやりとりに対する慣れもあるのかもしれない。自分ごとだともっと緊張するかと思っていたが、そうでもなかった。
オペレーションに興味があるので、ひとつひとつの流れが興味深かった。『ここはこのように改善されればもっといいのに・・・』というポイントを見つけて鼻息荒くなりそうな一方で、儀式めいたフローと捉えればアリだな・・・と思い至った。一番テンションが上がったのが初めて実印を作ったこと。燗酒FUJIN会長のあゆみさんに相談して、楓の木の実印を所有できたことが少し誇らしかった。
そんなこんなでついに所有権が移転し、土地の所有者になった私。解体工事の始まりはまず南側にあった大きな木の伐採から。
土地を選んだときには、その大きさを理解して無かったけどかなりのサイズだ。そして藪の中と化した木々を伐採すると、あれよあれよとガラクタが出てくる出てくる。予定日を一日越えてしまう作業量だったそう。そして伐採後の姿がこちら↓
現地には行ってないけれど、恐らくこんなに広いんだなぁと感じるのだろう。
木々の伐採後、速やかに解体工事。まずは胸が熱くなる一枚から。
大正十年辛酉(かのとり)、1921年・・・今から100年前に坂田倉市郎という棟梁がこの家を建てたのだろう。この土地を選んだ理由の一つがこの立派な柱とそこに彫られている大正10年の文字。100年経ってもなおこの地でずっとU家の暮らしを支えてきたのかと。
私はいつも物語に心惹かれる。長い間引き継がれた棟梁の知恵とそれを残してきた人々に心からの敬意を払いたい。その思いは建築士の川口さん、今回一部の工事を請け負ってくださる宮大工・白鳳社寺の高崎さんも同様で、私以上に強い。
この解体は柱や梁を残した状態のスケルトンだ。もちろん費用はかさむのだけど、彼らのアドバイスに従ってこの決断をして良かった。きっと良い買い物だったと思う。
解体によって出た廃材の一部はテーブルの椅子やテレビボードなどに利活用してくれるそうだ。まだまだ工事は続くが、無事に進行しますように。
この写真の撮影日は6月25日金曜日。
この日は工務店・I社長、宮大工・白鳳社寺の高崎さん、建築士の川口さんの全員が集合するという。ここまで色々あったので、懇親会を提案してみたところI社長にご快諾いただいた。
それならば私も行くしかない!前もって佐久平入りして、夜に噂の猪料理のお店「やまおく」に集った。山奥ではないやまおく。もちろん社長の行きつけだ。猪のお肉ってこんなに柔らかいのか、と感動の美味しさだった。
猪は串に刺して焼いたり、鍋にも入っていたり。既にお腹いっぱいだったが、社長が私たちにどうしても猪豚を食べさせたがるので、お腹がはち切れる程の量を食べた。
いやはや社長は始終ご機嫌だ。傾聴の姿勢を片時も崩さず、太ってもいいと思って食べた。美味しいから食べれてしまう量を超えていたけど、食べた。社長の終わりそうで永遠に終わらない貴重な話もたくさん聞けた。
なんだか平和だ。
解体する家の方は”床をめくってみないとわからない”問題があったが、それほど大きな問題はみつからなかったそう。かなり深く掘られていて、坂田棟梁の工夫が感じられた、とか。
なんだかとても平和だ。
家づくりの楽しみを享受しつつ、プロフェッショナルな面々が私の家づくりのために力を尽くしてくれていることがとても嬉しく感じる。翌日は佐久平駅のモスバーガーで外壁の色と屋根の色を決めた。社長とお話しして現場にも行きやすくなったし、野菜作りのアドバイスももらった。
平和でいいじゃないか。
私が長野に行く日はいつも晴天で、この日も晴れていた。ところが解体の滑り出しは随分と大雨に悩まされたらしい。本当は屋根から外すところを、やむなく中から行ったとか。庭と家に高低差があるので、家の方に雨が流れてしまう。雨対策については社長からいろいろ指南いただき、急ぎの対応も発生しそうな雰囲気。
そしてこの雨対策、心に引っかかった事項。
この大雨が棟梁にある気づきを与えて、プロフェッショナルな男たちの論戦が展開されることになるとは、猪を食べてるその時は誰しも考えていなかった。
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