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日仏対話『芸術と科学』日仏会館にて 

 2023年9月29日、日仏会館(恵比寿)で日仏対話『芸術と科学』が開催された。私は当日の朝、東京芸大学長日比野克彦さんのXポストで知り、思い立って足を運んだ。いつもの直観。『芸術と科学』といったテーマに特に興味があったわけでもなかったが、日比野克彦さんにお会いしたいからがもっとも強い動機か。今年も二週間ほど前からベランダに朝顔が咲き始め、一昨年前、日比野克彦さんが朝顔の種を瓶に収集していく話を提供されていたことを思い出していたところだった。

 前置きはこのくらいにして本題。

 結論から言うと、この日仏対話『芸術と科学』は大変興味深い企画だった。ラフな言い方をすると、大変気に入った。これを短絡的に日本とフランスの相違と断定することはできないが、構成として、「二人のフランス側」と「二人の日本側」が『芸術と科学』に関することについて語り、その視点や観方、視野の違いを浮き彫りにする形になっている。
 打ち合わせなしで行われたそうだが、予想通り、フランス側は哲学的な切り口で、日本側は学校運営の視点と、芸術的な切り口で語られた。
 もちろん、国内を見渡せば日本人でも哲学者は多数いるわけで、もしも日本側も哲学者を招いて同じテーマで語ってもらえば、充分に哲学的な切り口で行われただろうから、本日の構成でもって、フランスは哲学的、日本は現実的かつ芸術的と簡単に決めつけることはできない。
 このように「フランスは哲学、日本は現実的かつ芸術的とのざっくりとした仮説」の上で、このシンポジウムは作られていると考えられ、それが一概に正しいとは言い難いのだが、私の読書経験の範囲(フランス文学と日本文学の比較など)から推測すると、このざっくりとした対比はそれほど外れたものではない。フランス文学や映画はエレガンスの中にも気の利いた論理展開を楽しむ趣向があり、日本文学は論理よりもリアリティや、人情、エモさを重視したりする傾向があるのではないか。
 厳密には、芸術とはなにか、科学とはなにかと深堀しなければ、なかなか真の本質には接近し得ないとは思うが、漫然と思い浮かべる「芸術的なもの」と「科学的なもの」を対置させて、それぞれに思うところを述べる形式には「完全に噛み合わないまま流れに任せておく」味わいがあった。これは、思うに「大人の味」であり、何が正しいのかと論争するのではなく、なんとなくお洒落なカフェで行われる高度な対話のようだ。和やかながら刺さる部分もあるやりとりが流れ、流れたまま席を立っていく。
 私としては、これまでに、芸術と科学を対置させて考えてみたことはなかった。どちらかと言えば、科学と対置させて論じられているのはスピリチュアルとか宗教ではないか。それを芸術と対置させたのだから、単なる「非科学的と科学的」の論争を求めているものではないことが自ずとわかる。
 では、この芸術と科学の対置は、本質的に何を対置されているのか。思うに、「主観的と客観的」ではないだろうか。むろん、明確に芸術は主観で、科学は客観とわかれているわけではないが、芸術は主観が多め、科学は客観が多めと言ってもよいだろう。科学の方に主観が入り込む隙があるのかどうかはわからないが、観察によって対象物が変化するのは量子物理学で証明されているので、厳密な客観など存在し得るのかの問いが発生した時点で、科学=客観と定義するのは困難ではある。
 シンポジウムの中で、自然に対する観察の仕方について、日本は科学的側面においてはやや遅れているのではないかとの指摘があった。ホリスティックな捉え方に偏重しているとのこと。本草学の紹介もあった。この辺りの指摘に関しては意図を明確に把握しきれてはいないのだが、自然に対して「妄想的主観」を介入せずに観察することの必要性を主張されたのだろうか。そうだと仮定して考えてみると、『「妄想的主観」は本当に妄想か』と深く考えていくテーマが浮上するだろう。確かに日本人は自然界の音をノイズではなく言葉として聴き取る民族(語族)で、自覚的であるかどうかは別として、自然は常に日本人である私達の脳に言葉を語り掛けているらしい。この特殊性により、自然と日本人の間には「観察」といった姿勢が取りにくいのかもしれない。常に一体化しているからだ。そのような関係性の中では、こちらの接し方によって自然も形を変え、それなりに応答するので、固定した観察はやりにくいのだ。それが「遅れている」かどうかはわからないが、確かに、一体化しているがゆえの無観察、横暴さはあるだろうから、省みる必要はある。

 上記のようなことを思い、終わった後、懇親会には参加せずに外に出た。恵比寿ガーデンプレイスに向かって少し歩き出すと、
「ピーピピ」
 ヒヨドリが頭の上で高らかに鳴いた。

「ピータ? こんなところまで来たの?」
 まさか、と思いつつ、口笛でピーピピと応答した。するとまた、
「ピピピピ」
 と呼び止めて、ハタハタと頭上を飛んで樹木の植え込みの方に私を誘った。

「なんだろう」
 私は車の往来に気を付けながら渡り、植え込みに近付いた。すると
「ピ」
 と鳴いて、とある樹木の上に止まった。
「なに?」
 樹木の名前が幹に巻いてある。
《ネムノキ》

 はっはあん。言いたいことはわかった。人間が狭い部屋に集まって、自然に対する観方がどうのこうのと会議していることについて、「眠い」と言っているのだ。
 私はおかしくて吹き出してしまった。
 ピータの言う通り、ああだこうだと考えすぎずに樹木や花とたわむれる時間を大切にする方が豊かだし、「理解」に近い気がする。もちろん、現代の人間は通常、テレパシー能力を持たないので、感じた事を言葉に置き換えて伝え合う時間を持つのも大切なのだが、超能力鳥ヒヨドリにしてみればそんなものは眠くて無駄な時間なのだろう。
「そうだな。いっそ楽しもう」
 せっかく恵比寿に来たので、エビスビールを飲むことにした。

 おいしい!
 写真美術館では何をやっているか。スマホで調べるとなかなかおもしろそう。20時まで開いているとも書いてある。
 行くか!
 『TOPコレクション 何が見える? 「覗き見る」まなざしの系譜』展が私の真ん中にヒットした。制作中の長編『楊貴妃の口紅』の参考資料にもなる。

 長い時間を掛けて鑑賞し、帰路に着いた。
 
 麦酒も飲んだせいか、眠くなり、地下鉄の中でうとうとしてしまった。
 ピータが「ピーピピ」と呼び止めてまで伝えてきた《ネムノキ》は現実的にも大当たり。
(客観的、科学的観察なあ、ふうむ。そんなの、自然を舐めているじゃないか)
 うとうとしながら、私の中でシンポジウムの個人的結論を出さずにはいられなかった。

 久々のペンネムラムネでした。

 しまった! 
 またやられた!
 ピータは《ネムノキ》で「ペンネムラムネで書けよー」とまで指摘していたのだ。

 

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