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解読 ボウヤ書店の使命 ③

 この解読『ボウヤ書店の使命』は私自身がシュルレアリスムで書いている小説や詩、思弁論文等を掲載しているボウヤ書店について、私自身が解読しようというものだ。シュルレアリスムの技法を使うと制作者にとってもその成果物は謎なので、それを著者自身が解読しようと考えても不思議ではない。実際の生活にはみ出し、時事とリンクし、書いたことによってさらに物事が引き寄せられてくる現象を記録しながら制作しているので、創作と解釈と現実が境界線を失って現前化する。

 昨日(2023年2月25日)は、その解読『ボウヤ書店の使命』の⓶-2を下書きした後、新しい映画館が出来たと聞いたので行ってみることにした。仕事の都合もあり、時間的に可能ものとして、最終上映の映画を選択することになる。
 それは映画『あなたの微笑み』リム・カーワイ監督作品。これについての感想はさきほどTwitterに書いたので、雑ながらもそれをそのままここに貼っておこう。

《映画『あなたの微笑み』について。私は主に岩波ホールとかBunkamuraシネマでミニシアター系の映画を観てきて、やっと「文学らしい」と同じニュアンスで「映画らしい」といった感覚を持ち始めたところだけど、それとは違った意味で「あーこれは映画だな」と感じた不思議な映画。⇒⇒日常会話と演じる会話について考えさせられる。私たちは日常でステレオタイプな事をステレオタイプにしゃべる。でもいわゆる映画では説明的だったりかっこいい台詞だったりを「自然な演技」でしゃべっている事が多く、自然な演技ってなんじゃい?みたいなところがあるが、この映画は徹底的に⇒⇒日常会話だった。人々はぎこちなくステレオタイプ的な事を話すものだ。下手な演技者としての生の人間をここまで掴んだかと驚かされる。まるで堂々と見える隠しカメラで撮ったかのような感じがするよ。流れる時間の記録。でもなんかおもしろい。⇒⇒仕方なき門前払いが繰り返されるのだが、そういうのも人生にとってリアル。サクセスストーリー後の苦悩らしく、顛末とも言えるが、じゃあ最初に出てきた成金のハーレムみたいなのがいいのか、満席のミニシアターがいいのかわからず、その顛末のところどころにあるフラッシュ程度のシーンに⇒⇒映画の神様は宿っている。ぎこちなく話す不自然なステレオタイプな日々の中に、ほんの少し垣間見れる金のような記憶。それが「映画らしい」ものだが、その配分において正直な映画だった。⇒監督も女優さんも田中さんもアフタートークに来られるという、超贅沢な企画なので、行かない選択はもはやないでしょう。菊川Strangerに行かない選択はないでしょうよ。⇒(とある方から)好き嫌いで批評するなと釘刺しありましたが、ほんとに好きでしたよ、映画『あなたの微笑み』は。 あいつはしあわせなやっちゃなと少し馬鹿にしたトーンで言う事があるけど、映画はそういうトーンにも思えるけど、実際、そういう人が幸せなんだと思える。ブルーハーツ、リンダリンダみたいにね。》2023年2月26日投稿

 Twitterに投稿した映画批評はともかくとして、この映画の構造はまさに今私がやっている解読『ボウヤ書店の使命』に似ている気がした。ミニシアターで見ると分かるが、絶妙な手法で現実と虚構の境目を取っ払ってしまった。そして、人々のありのままの姿を描き出しているが、その中に時々、金のような美しいものが見つかる。
 ――思い付きほど正確に引き寄せるものはない。
 個人的にはそのような感慨を持ちながら映画『あなたの微笑み』を鑑賞した。
 トークを楽しんだ後、パンフレットにサインして頂いたので、写真を掲載しておこうと思う。カフェでの食事も美味しかった。




許可を得て撮影&掲載

 さて本題に入ろう。
 小説『駅名のない町』の続きを解読する。何も考えずに昨日の続きを貼り付けてみよう。

《 永尾祐一は堪能するまで海を眺めた後、振り返って山側を見るとベンチがあった。薄水色のプラスチック製であり、ところどころひび割れている。背もたれに白抜きされていたらしき文字も掠れて消えかけ、今ではもう読み取ることが出来なかった。勢いよく座ったりするとぐしゃりと壊れそうだ。
 恐る恐る近付いて行き、そっと触れてみると、錆びついた鉄製パイプの足は歪んでぴったり揃って立つことが出来ず、コンクリートの上でどちらかに傾いて揺れるのだった。座面も驚くほど均等に色褪せ、際立って部分的にこすれている場所はない。ということは、長い間ここにあったようだが、多くの人が腰かけたというわけではなさそうだ。単に海風や年月に晒されているうちに、少しずつひからびるように古びていったのだろう。
 そのベンチ真上のトタン屋根を支えている四本柱のひとつには、字の消えかけたブリキの時刻表が釘で打ち付けられているけれど、どうやら一日に七回ほど行き来する本数しかなく、わざわざこの予定を眺めて車両の到着を待った客がいたかどうかさえ疑わしい。ブリキの縁もすっかり茶色く浸食されている。
 彼は溜息を着いた。
 もうごまかしようもなかった。ここは寂れ果てた駅でしかない。
 やや肩を落とし、再び海の方を見た。僕はどうしてここへ? 
 海は相変わらず青く、また白く揺らめいてカモメが群れをなして波間を渡っている。潮の香りも漂っているし、遠くには亀の形をした緑の島もある。線路の方を眺めるとやはり先程と同じように遠くを予感させている。
 しかし、あのベンチだ。彼は振り返りもせず海の方を向いたまま目を閉じ、先程見たベンチの様子を思い浮かべた。古びているだけではなく、これまでに訪れた乗客たちの往来さえ想像できない有様だった。
 どうしてここに来たのか。ここを選んでしまったのか。それを思い出そうとした。しかし、どうしても思い出せなかった。
 職業安定所で紹介され、
「ずっと遠くの町にある鉄道だが、住むところも無料で貸すし、給料も申し分なく出す」
 と言うので、幸いとばかりに引き受けたことは覚えている。家を出たかったというのもあるし、鉄道が嫌いなわけではなかった。
 でも、それだけの理由? 
 潮風が渡り、山の木がさわさわと木の葉を鳴らした。 
 どうにかして素晴らしいものだと考えようとしても、現実的に見れば、「山と海の間に漫然と線路が敷かれ、ただ無造作にプラットホームが置かれている」だけに他ならない。これといって目立った取り柄はない。
 あえて言うならば、この上なく身軽ではある。
 そうか。それはいい。彼はまた一人うんうんとうなずく。
 身軽でなければ遠くまで行けないのだから。》

 要約すると、永尾祐一は職業安定所で紹介された駅員の仕事をするべく町にやって来てプラットホームに立ち、海や線路を見てなかなかいいと感動した後、寂れたベンチを見て不安になったところだ。しかし彼はその状況の利点について以下のように考えた。
あえて言うならば、この上なく身軽ではある。
 そうか。それはいい。彼はまた一人うんうんとうなずく。
 身軽でなければ遠くまで行けないのだから。

 どういうことなのだろう。今朝も早起きのヒヨドリにピーと早く起こしてもらって、午後の予定もあるからと早めにこの書き物をやり始め、なんとなく昨日の続きとして上記の貼り付けを終えたところだが、この貼り付けた小説『駅名のない町』のシーンはミニシアターStrangerの風情に似ていないか? もちろんミニシアターStrangerは清潔でお洒落だし客は豊富にいた。寂れてはいない。しかし小説の抜き出し部分で太字にした箇所が、あまりに似ていないか? (怒らないでほしい。先回りして書いておくと、この小説はハッピー&ホラーエンドだ。大して怖くもないホラーであり、派手にハッピーエンドだ。確かめたい場合はボウヤ書店の方で最後まで読んでください。)

 繰り返してしまうが、私は昨日、初めて訪れたミニシアターStrangerで、ミニシアターにも関連する映画『あなたの微笑み』を観た。そして、アフタートークで「日本は世界でもトップレベルでミニシアター文化が充実しているのだ」との話を聞いた。それで、
 ――ミニシアター文化をもっと拡大しよう!
 などと思ったのだ。
 映画を観る前からそれは願望であり、そもそもミニシアター文化にとって重要なのは批評だと考えているので、店に入るとすぐに批評雑誌も買って読み始めたのだ。


 とすると、パラレルに移行させて考えてみると、私のボウヤ書店がミニシアターだとして、そこに必要なのは批評だ。つまり、この解読『ボウヤ書店の使命』が重要なのだ。たとえそれが自己批評であったとしても、シュルレアリスムの宿命として著者にも謎であるこのボウヤ書店の使命を解き明かす。
 
 正直、午後からの予定のためにやっつけ仕事的に始めた上記の文だが、我ながら、そうだったのか、そういうオチだったのかと、驚いたところでひとまず筆を置く。(今日出力しますが、明日推敲し直すかも)
 
 追記。ミニシアターStrangerの待合室でもあるカフェは一見軽装なのだが、シアターの椅子や音響はかなりラグジュアリーなのにも驚かされる。手前味噌ながら、私のボウヤ書店もそうではないだろうか。おそらく小説『路地裏の花屋』などを読んで頂くと、この軽装なのにラグジュアリーが体感して頂けると思う。
 また、この理想的ミニシアターのイメージは小説『続無人島の二人称-ポワゾン☆アフロディテ№X』の人物造詣用短編『人物№3 さやか』にも登場しているので、よろしければ読んでくださいませ。

 





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