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解読 ボウヤ書店の使命 番外編 

 近頃、桃色と白を組み合わせた人物をよく見かける。オーラは乳白色に光っている。
 一人目はショッピングセンターの中にある上島珈琲から出てきた時に、白髪に綺麗なパーマをかけて桃色のTシャツ地のワンピースを着た人を見かけた。乳白色に光っていたので驚いた。
 二人目は一昨日(2023年7月3日)カフェでランチを終えた頃に現れた背の高い男性で、金髪を短く刈り込んで桃色のTシャツを着ていた。やはり白く光っている。私の隣の席に座られたのだが、どうやっても顔が見えない。でも幽霊ではない。お店の方とお知り合いのようで、親し気にお話をされていた。
 なんとなく不思議な気分になり、私はスケッチをした。顔は見えないから視界に入る範囲のもの。そして、自宅に戻り、用事をした後、疲れて横になっているとベランダからピーと声がする。
 ――ピータだ。
 私は嬉しくなって窓から覗くと、ピータは私が座るベンチに止まっていた。そんなことは初めてだった。そして、万物の供物として毎日入れ替えている水盤の水に嘴を入れた。
 ――ああ、そうだったな、カフェで隣に白と桃色の人がいたな。
 思い出し、ひょっとしてピータの化身だったのかな、などと思った。
 さて、昨日(2023年7月4日)の朝。また、ピーと呼ぶので窓を覗くと、再びベンチに止まっている。そして、同じように水盤の水に嘴を入れて飲む仕草をした後、ベランダの柵に移り、顔を横に向けて、ヒーヨヒーヨヒとひと鳴きし、飛び去っていった。
 ――なんだろうな。何が言いたいのだろうか。
 しばらく思案し、珈琲を飲みに行きなさいと言っているのではないかと思った。言われなくてもあちこち頻繁に行っているのだが、そう言えば、近頃、忙しくて銀座まで行くことができていない。
 ――カフェ・ド・ランブルに行くように、ということか?
 深読みし過ぎかもしれないが、豆もなくなっているので出掛けることにした。正直、6月はあまりにも色々なことが起き過ぎて、文字通り眩暈がしそうな忙しさだったのがようやく落ち着いたばかりで、まだ疲労感もあるし頭がぼんやりとしていてカフェ・ド・ランブルに行く気合いがそれほどなかったのではあるが、通常、ピータの導きにハズレはない。何かあるはずだ。行かないわけにはいかない。
 行くと、珍しく、一番奥のカウンター席が空いていた。というか、ちょうどその席に居たお客様が席を立ったところだったのだ。申し訳ないなと思いながら、ママさんの誘導に従って遠慮なく奥の席に座り、なんとなく朦朧としながら、
「いつも通りで、適当に見繕ってください」
 とお願いした。と、一旦言ったわりには、
「いや、エクアドルではなく、もう少し酸味のあるのを持ち帰り、飲むのはお任せ、いや、エクアドルではなく、前回と同じブルーナイルで」
 と細かく伝えた。珍しく自己主張している私がいるな、とメタ認知していた。そして、その奥の席からマスターが珈琲を淹れていらっしゃるのを見てびっくりした。一昨日、私の横にお座りになった桃色と白が強い金髪の男性を素早くスケッチした時の角度が、昨日、そのままマスターを見る角度だったから。

7月3日に行ったカフェで何気に描いた天井と臨席の人だが、4日のランブルで全く同じ構図に遭遇

 ――あらま。
 朦朧としながら、私は目が点に。
 だからどうしたのだと言うわけではないが、ピータのなんらかの導きであることは間違いないだろう。
 マスターとお客さんがいろいろと世間話をされているが、私は
 ――あらま ・・
 の状態で固まってしまった。せっかく奥の席に座ったのだから何かエレガントに会話に参加した方がいいのだろうと思ったけれど、どうにも、変にくつろぎ過ぎて喋る気にならない。不愛想で申し訳ないが、黙ったまま珈琲を楽しみ、ノートにスケッチをし、もう一杯「ブルーナイルと反対方向のをシングルで」と注文し、いくつかの選択肢を上げてもらった中からグァテマラを頼んで、これまただらりと伸びてしまった私のまま楽しんだ。

 それから、御届け物として扇子を買いたいと思って扇子屋に行く予定だったけれど頭が朦朧とするのでやめて、いつも通り、三越前でパスタを食べて、タロー書房に立ち寄り、『因果推論の科学』ジューディア・パール著などを入手した。

 自宅に戻り、夕食の準備をした後、ベランダの水やりをするために外に出たら、なんとなく耳元でバサバサと何かが飛び出した気がした。
 ――虫か?
 見渡したけれどいない。その後、どこかからピーという声がする。
 ――ピータ、隠れて鳴いてるんだな。
 と思って、私はピーピピと口笛を吹きながら水やりをしようとすると、植木からバタバタッとピータが飛び出して上階のベランダ柵に行き、またピーピと鳴いた。
 ――ああ、ひょっとして、ピータ、私の中に入っていたのか! 
   それが、さっき、耳元でバサバサと飛び出してくる音だったのか!

 と、ここまで書き、さきほどとある人のツイートで「どうして〇〇はこんなにスピリチュアルで非科学的なのか」と言った嘆きを見たのを思い出した。スピリチュアルは「まともな」人からすると嘆きの対象なのだ。そして、こうした私の体験はそんな人から見たらジャンル☆スピリチュアルなんだろうなあ。ピータが珍しくベンチに止まって、その後ヒーヨヒーヨヒと鳴いたから銀座のカフェ・ド・ランブル(銀色の鳥がコーヒーヨヒーヨヒ)に行かねばなるまいなんてこじ付けに過ぎないし、そこで前日に慌ててスケッチした絵と同じ角度でマスターを見るなどというのも偶然でしかなく、そこに客観的な因果関係なんかないのだ。
 でも帰りに『因果推論の科学』を手にしたのはこれは偶然か? 科学が因果関係について考えることを放棄し続けてきたことを問題にしている本なのだ。たとえば、「Aの薬を飲んでいる人は〇病になりにくい」という統計結果があったとしても、その薬を飲んでいる人がそもそも富裕層であることが影響しているかもしれず、「相関関係は断定できても因果関係は断定できない」といったことについて、科学はそこで思考を放棄し過ぎていると指摘しているようだ(まだ冒頭しか読んでいない)。
 私も主観的には、スケッチ、ピータの奇妙なふるまい、カフェ・ド・ランブルにおける席の角度の関連は驚きに満ちながらもつながっていることを否定できないのだが、客観的にこれらが意味を持ってつながっていると証明はできない。証明できないなあで終わり、備忘録を書き留めている程度だ。
 しかし「客観的にみてそうだ(ではない)」という科学思考はそれはそれでいいと思うのだが、「主観的にみてそうである(ではない)」という思考をなぜにそこまで「スピリチュアルだ、非科学的だ」と残念そうに言われなくてはいけなくなったのだろうかと思い始めた。主観的なものが他者には当てはまらないから真に受ける価値がないとするのはわからないでもないが、では客観的なものが常に私にあてはまるのかというと常にあてはまらない。私に常にあてはまるのはむしろ主観的なものではないだろうか。客観的なものこそそれほどには真に受ける価値がないのではないか。
 客観的なものに合わせようとすること、あるいは客観的なものに合わせさせようとすることは、心の豊かさを奪うためのパワーゲームのトリックなのではないかとさえ思う。主観的に好きとか、主観的につながっていると思うと言っている人はたいてい根拠もなく幸せそうだ。それであまりにお金を払いすぎたり、人生を破滅させるのなら問題だが、客観的なものに合わせるだけを繰り返すのも、等しく人生を破滅へと導くのではないか。
 主観的なものを呼び戻す。それがこれからの時代ではないだろうか。鳥に個体としての意識はないと考える人は多いかもしれないが、ローカルな世界で生きていると互いに認識し合って個体としての意識もあることに気付く。人間だってローカルな世界で把握しなければ、流行に左右されているだけの没個性的なものに見えるものなので、人間様には個人の意識があり、鳥類などにはないと考えるのは緻密さが足りない。それを言うなら厳密には人間だって個人の意識など持っているつもりになっているだけだ。
 そこで、思うに、ローカルな場を持っている事、ローカルな付き合いの中で人間や野鳥、動物を主観的に観察する事が、ファンタジックと呼ばれる、あるいは奇譚と呼ばれる現象に遭遇するためのキーなのではないか。舞台があれば演劇があり、演劇があれば具体的な自己とのシンクロニシティが起きて深く考えるように、ローカルな場があってこそ証明できないが嘘ではないことに触れることができる。おそらく、浅く広く動き過ぎると具体を見落とすので、主観的真実としての魔法に出会うことがなく、人生が宇宙の神秘から遠ざかってしまうのかもしれない。

ランブルにて

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