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芸術とは何か考えた1日〜第8回横浜トリエンナーレに行ってきた〜【日記】

4月上旬、横浜トリエンナーレを鑑賞しに横浜美術館へ行ってきた。

広く「芸術」と呼ばれるものには疎くて、きちんとした展示美術に触れに行くのは、今回がはじめて。うまく言語化できるか微妙だけれど、日記として書き留めておく。

気軽な気持ちで美術館に行ってみようかな、でもどこへ?と探しているうちに、横浜美術館にたどり着き今回の訪問に至った。自分のような初見が鑑賞して意味わかるのだろうか・・と不安もあったけど、改修工事を終えたばかりの美術館に行ってみたいという安直な好奇心があった。

本格稼働はまだ先らしい。横浜トリエンナーレの開催とともにリニューアルオープンを開始したとのこと。

平日の昼間ということもあり、みなとみらいの街の様子はゆったりしていて、散歩日和の1日を過ごせた。

横浜トリエンナーレは、3年に一度開催される現代アートの祭典。国際的アーティスティック・ディレクターを招いて、世界のアーティストたちがいま何を考え、どんな作品をつくっているかを紹介するのが特徴だそうです。

今回の横浜トリエンナーレは、20世紀初頭以降の歴史や出来事、思想をアーティストの創作を通してたどるというもの。日頃から芸術に触れている人たちの中では賛否両論あるようだけれど、そういったことにも疎い私には深く考察することはできなくて、ただただ観ていた。(後でわかった。観たいようにみたらいい!)

触れた作品の中に、自分とつながるものがいくつかあった。まるで洗濯機で脳みそをゴーゴーかき回されているような感覚。横浜美術館を出たときには、不思議な安心感が生まれていた。「自分が感じていることが、たとえ誰の目にも留まらなくとも、受けいれられなくても、全然大丈夫なんだ」って。他人に理解されるかどうかわからなくても、ただただ表現している人たちが存在している、芸術の世界。

これまでの私は美術館に行く習慣は全くなかったし、芸術がなくても生きていけると思っていた。10代、20代とお金に苦労していたので、芸術鑑賞とか趣味にお金を使うことは優先順位が低かった。金は生活に即したことに優先して使う。そういう価値観だったのだ。

40代を過ぎ、これからの人生を考えたとき、何が足りないのだろうとずっと考えていた。その答えが美術館にあった。もっと芸術に触れる。自分のように内向的な世界で悩み考えて生きている人こそ、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動をすることが、生きることになるんだと思った。

そもそも芸術とは何か?考えたとき、表現する人(表現物)と、鑑賞する人が相互に作用しあうことなのだと思う。表現する人は一般人とかアーティストという概念はなく、鑑賞者に何かを伝えようと創ったものは、どんなものも芸術と言えるのではないか。たとえ鑑賞者が存在しなくても、あるいは鑑賞者が理解できない・美しいと思えなかったとしても良いのだと思った。乱暴に言うと、表現する側の自己満足の世界。

ビジネスの世界において相手に正しく伝える、結果(利益)を出すため活動するのは重要で、その行いには責任が伴う。芸術においては、相手に伝わるかどうかは責任の所在がないのかもしれない。表現者は勝手に表現して、鑑賞者が各々勝手に受け取る。これでいいんだなって。

では、若かりし私は芸術を全く必要としていなかったかというとそうでもなかった。音楽と、詩(ことば)は栄養にしてきた。敏感で日々生活しているだけでいろんなことを考えすぎてしまうので、対象を音楽にしぼっていたことに気づいた。今回、絵画や造形物を鑑賞してみて音楽とは違う栄養分を摂取できた。たとえるなら音楽がタンパク質で、美術館からビタミンや鉄分、ミネラルを摂取したような。

五感を使う。感動する。作品と心を通わせて、精神と感覚の変動を自発的に起こす。そんな毎日が過ごせたとしたら、人間社会の中でちょっと窮屈だなと感じることはあっても、生きてけるな、いや、生きていきたいなと思うようになった。

美術館訪問をきっかけに、芸術はなくてはならないものとなった。




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