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「死にたい」と言われて死にたくなった話。

友達に泣きながら「死にたい」と言うのは、あまりオススメしない。
その友達のことを大切に思っているなら尚更だ。

どうも、妄夢です。

わたしが「死にたい」と、泣きながらに相談されたのは、今まで生きててたった一度だけだ。
その一度を、わたしは忘れることはない。
その「死にたい」のせいで、わたしも死にたくなってしまったのだから。

わたしに「死にたい」と、訴えてきたのは母だった。
忘れもしないびくドンのあの席で、母は涙ながらにわたしに訴えてきた。
母は今も生きている、今はケロッと元気に。
あの時のわたしに吐いた「死にたい」のおかげで生きているのならば、今ならまあ良いのかなとも思う。
そのおかげでわたしも色々な経験が出来たしね。

母が病むだろうというのは、本当はわかっていた。
うちは4人家族で、わたしの下には弟がいる。
ざっくり家族紹介をすると


母にはモラハラ気味、わたしにゲロ甘、弟とは険悪


父からモラハラを受けてる、相談相手はわたしで2人で飲みに行ったりすることもある仲、弟ともまあ仲良し


父とは険悪、母をモラハラから少し守ろうとする(そのため父と対立)

と、いったメンバーだ。
父のモラハラは結構酷く、わたしが高校生の時から父と母の喧嘩はあまり絶えることがなかった。
わたしも多少なり救済しようとするが、それに疲れてしまったのだ。
弟は好き勝手するので、父の機嫌がさらに悪くなり、状況は悪くなる一方だった。
あの家ではわたしが、みんなの立ち振る舞いを気にしてムードメーカーを務めていた。
みんながぶつかり合わないように、慎重に慎重に生きていた。
口数はあまり多くなかったが、無理してでもよく喋り、よく笑うように心がけた。
母のことは好きだったので、そのくらいしか出来ないが、それで守ろうと、わたしなりに必死だったのだ。


ただ、疲れた。
もう疲れた。
そう思った時、一人暮らしをしようと言う発想がパッと浮かんだ。
高校3年生だったわたしは、家から車で3時間離れた大学へ行くことを決意する。

少し、母が気がかりだったけれど、わたしはもう、疲れていたのだ。
落ち着く家で、誰の怒鳴り声も聞くことなく、誰に気を使うこともなく生きていきたかったのだ。


家を出て、一人暮らしを始めた時、自分の家が城のように感じた。
家に比べたらたったこれだけの狭い部屋なのに、それでもわたしにとってはお城だった。
自分のペースで生きていけるのが、これほどまでにも幸せなものなのかと喜んだ。

喜んだのも束の間、家を出てから3ヶ月が経った頃、母からの電話が増えた。
毎週のように泣きながら電話が来て、家出がてらわたしの城へ泊まりに来ることもあった。
正直電話はきつかった。
泣いているのを電話越しにどう声をかけたら良いのかも分からないし、どんな時でも出なくてはいけないという気持ちになった。
家出で城へ泊まりに来た時は、美味しいご飯を作ってくれて、2人でテレビを見ながらくだらない話をした。

なんとなく限界なんだろうなと感じた、母はきっと限界だった。
まず泣きながら電話を毎週かけてくるのが異常だし、それを異常と思えていないのが異常だし、限界なんだろうなと思った。

だけど、見て見ぬ振りをした。
ここでその問題を見つめてしまったら、「わたしが家を出たせい?」という疑問が確信に変わってしまう、そんな気がした。
今はまだわからない、わたしのせいではないと、自分にひたすらに言い聞かせた。

忘れもしない秋、少し肌寒くなってきた頃、母の様子がおかしかった。
実感へ帰った時、母は涙を浮かべていた。
なんとなく、この家に今いてはいけないと思い、母を連れて家を出た。
田舎なわたしの地元は、気の利いた建物なんかなくて、それとどうしたら良いかわからなくて、気付けばびくドンに車を走らせていた。
学校行事とかで学校が早く終わったときに、親とびくドンにはよく来ていた、だからなのか、勝手にそこへ向かっていた。
「おなか、へってる?」
そう聞くと、んーん、と、元気のない返事が返ってきた。
「じゃあ甘いものでも食べて落ち着こう」
そう言い、びくドンの中へと向かった。

2人でパフェを注文した。
なにか、話をしてもいい雰囲気なのか、考えてもわからず、ただ水をゴクゴクと飲んだ。
朝ごはん何食べたかなんて、どうでもいい話を振ったりして、ようやくパフェが運ばれてきた。
母は小さめの、わたしは大きめのパフェ。
2人とも、静かにパフェを口にした。
何口か食べた後、母は涙を流しながら小さな声で

「もう、死にたい」

そう言った。

わたしはその後の記憶がトンと抜けて無くなっていた。
ただ、溢れそうな涙をグッと堪えていたのだけは覚えている。

今辛いのは母で、わたしではない、わたしが泣くのは絶対に違う、辛いのは母だ。

そう心に言い聞かせ、必死に涙を堪えた。
なんとなく、沼の中に沈んでいくような、そんな気がした。
ブクブクとどんどん沈んでいき、もがくこともできない、ただ、息苦しいまま沈んでいくような、そんな感じがした。


多分、わたしは何も言わずティッシュを渡し、パフェを途中まで食べ終え店を出た気がする。
そのあと、多分家に帰った。
何に対しても 多分 とか 思う とかつけてしまうくらいに、あの言葉を言われた後の記憶がどこにも見当たらなかった。

大好きな母に「死にたい」と言われる日がくるなんて、思ってもいなかった。

「わたしが家を出たせい?」という、心の中にずっとあったモヤモヤした疑問は、このときにはっきりと確信へと変わった。

それからわたしは、なぜか大人数のいる教室に長時間居られなくなってしまった。
とてつもない吐き気に襲われ、ドキドキと心臓がうるさくなって、どうしたらいいかわからないどうしよう、、、みたいな、そんな気持ちがザワザワするような感じになってしまい、退室してトイレへ駆け込む日々が続いた。
電車にも長時間乗っていられなくなり、何駅かごとに降りてしまう日々が続いた。
友達に心配されるのが嫌で、友達と電車に乗ることはなくなった。
1人でいるときには無性に死にたい気持ちになり、リストカットを繰り返すこともあった。
なぜか、血を見るとその気持ちは落ち着いた。
夜中になると涙が止まらなくなり、誰かが隣にいないと眠らない日々も続いた。


「大人数 吐き気」

とかをGoogleで検索をかけたりした、流石にこの体調の変化はおかしいのではないかと感じた。
検索結果には、「不安症、パニック障害」なんて言葉が並んでいた。
パニック障害に重きをおいて検索をかけたけれど、死ぬわけではないみたいだし、わたしよりも母の方が辛いだろうし、という気持ちから病院へは行かなかった。

本当に今だから思うけど、辛さを他人と比べるのは本当に良くないと思う。
誰がどのくらい辛いかなんて、誰にもわからないのだから。

なにより、 母のことを誰かに言う それが、あの時のわたしにはかなり辛いことだった。
話せば確実に涙が出るし辛い、それを掘り起こすメリットはどこかにあるんだろうか?病院へ行ったら根掘り葉掘り聞かれるんじゃないだろうか?そう思うと受診しようと言う気にはなれなかった。

友達にも相談はできなかった。
もし、わたしのように「死にたい」がうつってしまったら困るなぁ、と思った。
それと、心配をされるのが嫌だった、可哀想と哀れまれるような人間になりたくないという、ちっぽけなプライドのせいだった。


あの時は本当に、死ぬことばかり考えていた。
今はそんなことは全くない。
だから、そう思えたのは一つのいい経験になったなと思える。
リストカットの跡も、側から見たら良くないものなんだろうけれど、あの時の死にたがりのわたしが必死に生きようともがいた証だから、それを見て頑張ろうという気持ちにもなれている。

わたしが死ななくて済んだのは、母が少しずつ元気になったのと、別の投稿に書いた彼に出逢えたからだ(薬物のような幸せ参照)。


彼のくれた幸せが、わたしの生きる薬となったのだ。

今は生きていて良かったなと思える。
今の自分は、あの時の自分よりかは好きだしね。

死にたい人は相談相手をしっかり選ぶべきだと思う、道連れにしないようにね。

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