自分の過去

まるで「僕はここにいるぞ」と叫んでいる暴走族のような、そんな文章を書いてみようと思った。

()

noteを始める前、自分の文章に興味を持ってくれる人間なんていないと思っていた。本が好きな友達に出来がよさそうなものだけちょろっと見せてなんか感想を貰って、それでよかったのだが、何かの拍子にnoteに投稿してみて、驚いた。僕の文章を100人くらいの人間が興味を持って覗いてくれている。いいねを押してくれる人もいる。ほかのだれでもない自分が生み出したものが他人に少ないながらも影響を与えるかもしれない。正直震えてしまった。今まで経験したことがない何かが、月並みな表現で言うとするならば『体に電流が走った』とか『天啓にうたれた』とかその類のものを感じた。

これまでnoteでは、自身の日常で感じた些細な社会に対する不満やわだかまりをちょくちょく文章にしていたのだが、ここらでエゴむき出しのだれも得することのないような文章を書いてみたいと思った。

これはある種、実験である。自身の過去にどのくらい価値がないのかを改めて実感する場であり、自身の文章にどれほどの価値を試す場でもある。



僕からのお願いはただ一つ

この文章がちょっと面白いと思ったらいいねを押してほしい。


面白くないと思ったら、ブラウザの戻るボタンを押してもらって構わない。あるいはスマホで見ている人は、左下にある1ページ前に戻るボタンを押してほしい。こんなゴミみたいな文章で私の貴重な実感を奪いやがってという方はコメントで罵声してもらって構わない。甘んじて受け入れる。


じゃあ、始まります。よろしくどうぞ。




今まで、自分が何かを生み出すようなことは、したことがなかった。一人の消費者として、アニメを見て、漫画と小説を読んでいた。創作者が魂を込めて作った創作物を(金と時間を消費する行為)と交換していた。

小さい頃からそういったものに触れることが多かったため、創作者へのあこがれがないわけではなかった。小6のころ、親のおさがりのワープロを貰って意気揚々と(小説のようなもの)を書いた覚えがある。ちなみにその小説もどきは原稿用紙十枚もいかないうちに飽きてしまって、実家の物置には多分今もワープロが置いてある。

小中高は、それなりに忙しい生活を送っていた。

小学校のころ、地域の野球チームに入っていた。特別うまくもなければ、特別下手でもない、取り立ててなにか長所があるわけでもない、普通の子供で、試合に出れたり、出れなかったりと、微妙な立ち位置だったと記憶している。本を読み始めたのは3年生のころだった。学校で読んだ本のページ数を競う『読書マラソン』なるものが開催されているときだった。本好きの母親に連れられ地域の図書館へ行った。「ページ数が多くて、しかもなんとなく読みやすそうだな」という邪な考えのもと手に取ったのが、忘れもしない、児童書のレーベルとして非常に有名な「青い鳥文庫」の「いつも心に好奇心(ミステリー)」という本だった。

普段、青い鳥文庫で活躍されている「松原秀行」さんと「はやみねかおる」さんという作家の方が、それぞれが普段書いているシリーズのスピンオフを1話ずつ書き、2話をまとめて一冊にしたものであった。その本をきっかけに、僕は本を読む習慣ができた。とりわけ松原秀行さんが書かれている「パスワード」シリーズと、はやみねかおるさんがかかれている「夢水清志郎」シリーズにハマり、その時点で出ているシリーズのものは全部読み、本屋へ行ったときに新刊が出ていれば購入し、よんでいた。


そんな小学校の生活を過ぎた僕が中学時代はどうなったかと言うと、熱狂的に、ある種病的に、小説を読んでいた。そのころの僕は、多忙を極めていた。平日は、学校、その後バレーボール部で汗を流し、土日は親からの熱心な勧めにより入った、硬式のクラブチームで汗を流した。当時の僕に休日と言う概念はなく、土日は毎週野球をしていたので『休日』と言うより『球日』だなと皮肉を込めて言っていた。

ここまで毎日汗を流す体育会系の日常を過ごしながら、その頃の僕は空いた時間を使って『アニメ鑑賞』と『読書』に勤しんだ。特に読書に関しては先ほども書いたように病的で、ほんの少しでも時間があると本を読んだ。学生服のポケットには常時1冊、場合によっては2冊3冊の本が入っており、朝礼の前の空き時間に読み、授業の合間に読み、登下校中に読んでいた。毎日、文庫本をおおよそ1冊読んでいたと記憶している。特に頑張って読んでいたわけではなく、ただ本が好きで読んでいた。忙しい日常を過ごしている僕にとってはそんな合間の時間すらも貴重な時間であった。スマートフォンもパソコンも持たない僕にとっての一番の娯楽が『読書』であった。

その頃の僕が読んでいたのはほとんどライトノベルであった。今となっては一般化したこの『ライトノベル』という言葉であったが、当時は『表紙が肌面積の割合が多い美少女が主ないかがわしいもの』といった反応が多く、エロ本と同じような反応をする方が大半であった。確かに、それまで読んでいた『青い鳥文庫』と比べるときわどい表現が多かったが、それ以上に描かれる社会の形、『勧善懲悪』の人間が出てきてそれをやっつける『青い鳥文庫』(すべての話がそうとは言っていないが、全体的に見たときにそういう話が多かった気がする。)に対して、悪役にも人生があって、何か理由があって、こんなことをしているんだろうなと想像させるライトノベルのそれは、僕にとって非常に共感が多いものであった。とりわけ時雨沢恵一さんの『キノの旅』は表紙が擦り切れるほど持ち歩いて、ずっと読んでいた。当時は、ライトノベルの特徴が『人間らしい悪役が出てくること』だと思っていたのだが、むしろ青い鳥文庫の特徴が『悪役らしい悪役が出てくること』だということを様々なジャンルの小説を読むようになって気づいた。 


高校に入ると、以前から続けていたという理由で野球部に入り、朝から晩まで白球を追い続ける完璧な体育会系の人間になった。これがもうなんていうか地獄で、「明日隕石が降って地球が滅亡しないかな」とか「今事故ったら部活行かなくてもいいのかな」とか思いながら登校していた。自転車通学だったのだが、もし電車通学だったら3年間のうち1回くらい線路に飛び込んでいたかもしれない。

いじめられていたわけでもないし、親から虐待を受けていたわけでもない。にもかかわらず、なぜか毎日、死にたかった。部活がある日は(と言っても365日のうち350日くらいは練習していたのでほぼ毎日)毎日消えたかったし、常にHPもMPもいつなくなるかわからない死にかけみたいな状態だった。朝から当時は理由が分からなかったが、今ならわかる。僕は根っからの陰キャで、彼らは根っからの陽キャだったのだ。僕にとって彼らは重かった。

陰キャと陽キャの違い、人によってこの定義は違うと思う。これを読んでいる方々は、『アニメを見ていたら陰キャで、運動部だったら陽キャ』とかなんとなく思ってるんじゃないだろうか。僕は、バリバリの運動部であり、アニメもめっちゃ見るしゲームもめっちゃする。本もめっちゃ読むし、テレビで日本代表のサッカーの試合とかやってたら普通に見ちゃう。そんで結構声を挙げて応援しちゃう。そういう人って結構いる。陰と陽できれいに分かれているわけじゃなくて、陰の極致と陽の極致との間には、曖昧などちらともとれる部分がある。陽キャの極致を+100、陰キャの極致を-100とする数直線のような、そんなイメージか。「私は∔15くらい」とか「僕は-50くらいかな」とか。多分僕は「-80」くらいかな。

じゃあその数値を決定づけるものって何だろうって、考えると多分他人との距離感なんだと思う。全く科学的な根拠はなく、経験則でそう思う。+の値が大きければ大きいほど他人との距離が近い。物理的にではなく心理的な距離。もっとわかりやすく言うと「他人をどの程度自分の人生に介在させるか」。自分以外の人間に対してどれほど自分を開示して、相手に近寄るか。多分そんな指標なんだと思う。

その観点から行くと、野球部のやつらはたまの休みの日に「みんなで遊ぼう」などと言い出してカラオケやボーリングへ行く。その当時はそれが普通だと思っていたし、行ったら楽しい。あいつらとわいわいするのは楽しいけど、ぼくにとってはそれと同等かそれ以上に喫茶店で本を読んだり、家でゲームをしている時間も楽しい。当時は気づかなかったが、彼らと365日過ごすことは、自分にとっては息苦しかった。それほど彼らとの距離が、近かったのだろう。

大学生になった。野球部だったため、部活は夏休みまであった。部活をやっていた頃はクラスでドベを取るような怠惰っぷりだったが、そこそこ地頭がよかったのか、それとも運が良かったのか、浪人などはせず、家からぎりぎり通える国立大学に現役で合格した。


別に何かを伝えたくてこの文章を書いているわけではないので、どう終わればいいかわからなくなってしまった。今日は疲れたのでこれでおしまい。

気が向いたら大学入ってからのこと書きます。

大学の大きな出来事としては

・友達いなくなった

・カードゲームにハマった

・一人暮らし始まった

・ああこれが運命の相手か、と思った。

とか結構たくさんあるので、もしよかったらまた機会と時間があれば。

それでは。

この記事が参加している募集

#自己紹介

230,124件

#スキしてみて

525,537件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?