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小説を書いて、人にやさしくありたいと思った。

小説を書いた。

初めて書いた。

数ヶ月後、数年後読み返したら、穴に入りたくなるような内容かもしれないが、今の自分にとって、そこそこな熱量を持って、そこそこ真剣に書いた。


初めて小説を書いて思ったのだが、他人の考えを想像するのは難しい。ましてやそれを他人に伝えようと文字にする行為など「世界ってどうやったら幸せになるんですかね」とかいう質問に答えるのよりも難しい。月並みではあるが、性別も、職業も、生まれも育ちも全く違う僕じゃない人間を頭の中で、行動させて、文字を読んでいる作者にこれを伝えることは、容易ではない。

逆に自分を投影したような主人公であればとても描きやすい。実際に僕が書いたそれは、半分くらいは実体験だし、実際に僕がその時思ったことであったり、僕がこの経験をしたらこう感じるであろうというものを書けばいいのだからとても書きやすかった。


試しに、完全に想像上の4名の男女がシェアハウスしている設定の文章を書いてみた。当然だが、『部屋の中に2人いる』時より、『部屋の中に4人いる』時の方が情報がその分多い。それに対する情報の取捨選択が難しく、各々の会話だけで文章が構成されてしまい、結果として、舞台の台本のような形になってしまった。



そもそも小説ってどのように書けばいいんでしょうか。

小説を書くにあたって、多少調べてみた。どうやらプロットというものを書くらしい。ほうほう。視点を決め、書き出すらしい。書い終わった後は推敲とやらをするらしい。なるほど。よくわからん。

物は試し、プロットを書いてみようということになったのだが、全くまとまらない。ここはこうすればいいんじゃないか、ここはこっちの方がいい。などと適当に修正していたものだから収束がつかなくなって結局大まかな本筋だけ決めて後は流れに任せてしまおうということになった。

書き始めて思ったのだが、案外僕はほかの人の気持ちを理解していないということだった。

自分は他人の気持ちを敏感に察する方だと思っていた。友達と遊んでいるときも、(この人めっちゃ携帯観てるやん。恋人からの連絡待ってるのかな)とかすごい気づいてしまう方だ。


そんな僕が小説を書いてみて気づいた。言われてみれば当たり前なのだが、他人の気持ちを察していない自分については気づいていない。つまり

「あ、いま他人の気持ち理解してるな」

ってときは自分で認知できるけど

「あ、いま他人の気持ち全く理解していないな」

ということを認知することって難しいんだなと言う結論に至った。その結論を、自分が小説を書き、『この人って今どんな感情なんだろうか』と考えたうえで初めて気づいた。ここでの「相手の気持ちを察する」というのと「この人の感情を考える」と言うのは全然意味が違う。そのことを、小説を書くことを通じて、初めて気づいた。

自分でいうのもあれだけど、非常に愚かな人間だなと思いました。反省してます。


でもこれって多分僕だけじゃなくて、この世界に70億人もいたら結構な割合の人間が以前の僕のように考えているんじゃないのかなと思う。人のすれ違いってこういうところで起きるのかなって思う。恋人間の「私がこんなにあなたのことを愛しているのに」みたいなものも、『自分が相手のためにやったことは100%理解できるけど、相手が自分のためにやったことは、100%理解できない』ってことなんだろうなって、

人にやさしくなりたいなって、

思いました。

はい。


つまり何が言いたいかというと、

読んでください。


十九、二十 『加藤』

https://note.com/ramenmenma/m/m6faf7f261b92


いいねされたら、小躍りします。感想くれたら発狂します。後半上げ終わりました。ぴえん。




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