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二人の師のこと

私には、自らの拙い言葉遣いを顧みて憚りながら述べることであるけれど、文章の師と言ってよい人が二人いる。一人は1993年の1月に留学中のフランスの小都市でその訃報に接した。下宿の女将さんが新聞を片手に部屋をノックして、「コーボー・アベが亡くなったよ」と驚いた顔をして告げたのを今でもありありと思い出せる。部屋にじっと座しておられず冬の街を明け方近くまでただ歩き廻り、生前に受けた厚意、掛けて頂いた種々の言葉を噛みしめた。ナイフを収集されており、渡仏前に滞在したチベットから遊牧民の短刀を土産に持ち帰ったが、渡せず仕舞いとなった。「消しゴムで書く」と言う表現がよく伝えるところだが、妥協なき推敲を重ね、そうした苦心の跡すら「消しゴム」できれいに消し去った文章だけを活字とされた。

もう一人は、谷崎昭男さん。昨年の11月に76歳にして逝かれた。保田與重郎の最後の弟子であられ、日本浪漫派の正統を継ぐ文の人であった。伯父は潤一郎、父は英文学者で作家の精二という血統だが、そうしたことを匂わす気障な素振りは微塵もなかった。中学の終わり頃から北鎌倉の御宅に招いて下さるようになり、年少の私への便りも旧仮名旧漢字のままであったが、温かみと励まし、厳しさと高潔な志が一字一句に込められており、相応しいお返事を認めようと背伸びをしてそれこそ呻吟したのを覚えている。滋賀に源義仲を巴御前が供養したことに始まる義仲寺があり、そこの無名庵庵主は初代が松尾芭蕉、昭男さんはたしか第24代に連なる。高校生の時分、幾度もその寺に私を預けようと説得を試みられたが、煩悩まみれの私がこれを躱し続けたためだっただろう、実現には至らなかった。先週鎌倉の両親のところへ寄った折に、奥様から預けられた追悼の幾つかの文章と、主に学生へ向けられた昭男さんの挨拶を収めた小冊子を受け取り、移動の際も持ち歩き列車の中飛行機の中と幾度も読み返した。「東の谷崎昭男、西の杉本秀太郎」と称されたらしい、独特の緊迫感と静かなうねりを持つ文章を懐かしんだが、何より胸を打たれたのは、大学というもの、文学や思想、文化や教養というものへの、今となっては少し古風なくらいの純粋極まる思いが堂々と綴られていたことであった。東京の私学の学長を10年以上勤められただろうか、管理の職に就くと濃淡の差こそあれどこか役人風の貌に似る向きが多い中、最後まで雄々しくまた瑞々しい精神を保ち、まこと文人としての生を全うされたことは稀有であり貴ぶべきであろう。故人の遺志を継ぐ、などと私如きが肩を怒らせても始まらないが、私なりに受け取った言葉の種を実らせ小さな花を墓前に飾ることができないか、秘かに期すところがないわけではない。

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