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世界一かわいいうちの子

私は猫と暮らしている。甘えん坊の男の子。世界一かわいいうちの子。

病気になってから誰しもが考えるだろう「何のために生きるのか」に私もぶつかった。何のために辛い治療に耐えて生きようとしているのか、今も考えている。自分のために生きる、と即答できればいいのだけど、私はそういう感じがしないし、世の中の多くの人が誰かや何かのために生きているのではないかと思う。

私が病気になった直後、長年愛好してきたバンドBUCK-TICKがフロントマンを失った。その時点で私はライブに行く頻度が減っていて、お茶の間(ライブ・コンサートに参加しないファン)でもいいかなと思い始めていた頃だった。そのくせに言うのは忍びないのだけど、病気がよくなったらライブに行こう!と思っていたのだ。バンドは存続するけども、私にとっても大きな柱を失ってしまった。

家族や友人、パートナーのために生きる。私もそうであれたらと思う。でもそれもしっくりこなかった。私には子供がいない。私の収入がなくなることにより経済的に困る人もいない。周りにいるのは死を理解できる大人だけだ。私が死んでしまったとき、原因や経緯を理解できるし、悲しいとか寂しいとか空虚な感情を理解し処理できるだろう。初めはうまく処理できなかったとしても時間がある程度解決してくれると思っている。

では、猫はどうだろう。

猫は私が死んだことを理解しないだろう。病院か自宅かどこで死んじゃうかわからないけど、病院の確率が高そうだ。となると、家を出ていったきり帰ってこない。くらいの理解じゃないだろうか。それって「見捨てられた」って思われるんじゃないだろうか。

それだけは避けたい。そう思われたくない。猫の気持ちはわからないけど。

私は猫を生涯養えるだけの資金と、猫と住める住居と、何があっても看取る覚悟を持って猫を迎えたのだ。なのに自分が健康を害して、猫を見捨てるような形になるのは自分が許せない。

許せないと思ったところで気力だけで病気はよくならない。もし猫より先に死ぬことになってしまったら自分と病気を許せないまま、申し訳ないと思いながら死ぬのだろう。やっぱりそれは嫌だなぁ。

「何のために生きるのか」と毎日考えているわけではないけど、何となくもういいかな、と思うことはある。今は辛い治療をしているわけでもないし、病状が悪化しているとは聞いていない。それでも死がとても近くに感じられて、生きるのかを問われているような気配がふいにやってくる。袋小路に入りそうになったときは、自分に「猫のため」と言い聞かせる。隣ですよすよ寝ている世界一かわいいうちの子のため。

うちの子

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