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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その13 壱与の誕生と卑弥呼の暗殺説

 今回は、壱与(台与)の誕生と、卑弥呼の暗殺説について考えてみます。

□壱与(台与)の誕生

卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与を立てて王と為し、国中が遂に安定した。

 壱与(台与)の名前は、『魏志倭人伝』では、「壹與(壱与)」と書かれ、後の『梁書』では、「臺與(台与)」と書かれている。現在は、前者だとイヨ、後者だとトヨという読み方が一般的だ。

 読み方は、邪馬壱国、邪馬台国のときの発音と同じく、「台」ならば古代の発音だと濁音になるようでドヨ、ダヨ、ダイヨとかになりそうだ。漢字的には、壱も、一なわけだから、邪馬壱国はヤマイチで、壱与はイチヨと読みそうなものだ。「邪馬壱国(ヤマイチ)なら壱与(イチヨ)」、「邪馬台国(ヤマタイ)なら台与(タイヨ)」、「邪馬台国(ヤマト)なら台与(トヨ)」と、同じ漢字なのでセットの組み合わせの読み方の方が整合性があり一番普通だと思う。しかし、国と人名で違うのだから、そこは切り離して分けて考えるべきとの解釈もある。実際に今の主流が、「邪馬台国(ヤマタイ)と台与(トヨ)または壱与(イヨ)」なので、違和感はあり、良く分からない。確実なのは、台与(壱与)も、卑弥呼と同様に実際の本人の名前(女性の下の名前等)ではなく、周囲に名乗り周囲が呼ぶための呼称(つまり、字(あざな))や称号だということだ。

 「元が男王で、戦乱になり(戦乱の長さは違うが)、それを治めるために、女王にした、すると安定した」、という点が卑弥呼のときと全く同じ状況だ。歴史は繰り返されるというが、それにしてもと感じてしまう。この同じ状況が生まれたのはなぜかについて考察したい。

 まず、男王は、卑弥呼の弟や卑弥呼に繋がる人物ではないと考える。古代では、王の血統はより重んじられる。全く繋がりが無いからこそ記載が無いと考えれる。実際に繋がりのあった壱与(台与)は卑弥呼との繋がりが書かれている。

 次に、この国が倭国、女王国を指すのか、それとも邪馬台国なのかの記載はない。しかし、特に国名が指定されていない場合は、『魏志倭人伝』の記載は、常に倭国、女王国についての記載と考えられるため、ここは、倭国についての記載だと思う。過去には「『魏志倭人伝』をよく読むと、実は、卑弥呼は邪馬台国の女王という記載はどこにも無く、女王(国)の都が邪馬台国という記載があるだけである」という問題提起もされている。女王国が倭国であり、倭国の王が卑弥呼である。
 
 壱与(台与)が、巫女なのかどうかも記載がない。ここも見解が別れるのかもしれない。例えば、壱与(台与)の父親が力を持った影の実力者で、自分の娘を王にして操り、子を生む事で代々自らの一族で王位継承をというような状況には見えない。私は、王誕生時の状況の類似性より、卑弥呼と同じ巫女であり、神の力を生かそうとしたと思う。

 ここでの一番の謎は、「男王を立てたが国中が不服で再び争いになったのはなぜだろう?」という事だ。この理由は多数考える事ができる。

①新男王が国のルール(祖税が上がった等)や、やり方(祭り事が減った等)を急に大きく変えたから周りがついていけずに反発した。→新国王の政治が問題

②新王になって、またしても天変地異や凶事が起きたので、この王ではダメと判断され反乱が起きた(中国の易姓革命のような状況)。→天変地異、不吉、神の声

③邪馬台国とは別の国から次の王が生まれたから、邪馬台国や新王国と仲の悪い国々が従うのが嫌で我慢できず、反乱した。→新国王や国の知名度、力不足

④卑弥呼のカリスマ性や卑弥呼の教えへの強い信仰の信者が多数おり、この宗教の信仰を受け継ぐ人物ではない男王に対して彼らが反発した。→信仰、宗教

⑤卑弥呼の遺言や意思があり、次の王に指名した人物やそう思われていた候補者がいたが、この流れや意思や遺言には従わなかったから、卑弥呼体制の人々が反乱した。→卑弥呼軽視、遺言無視

⑥女王(や巫女)が良かった。女性(や巫女)なら従うが、男性(や巫女ではない)に従うのが生理的、心理的に嫌だったので、反乱が起きた。→女性尊重性別重視、巫女重視

⑦本当は、話し合いの結果で、邪馬台国、卑弥呼の次の王を選ぶ次の国の順番や約束があったのに、邪馬台国がその約束を守らず、勝手に次の王を決めたので、話しが違うと周りが反乱した。→約束違反他国軽視

 卑弥呼のときの考察(その12 倭国大乱と卑弥呼の誕生 )と同様に、上記の奇数が現代人目線偶数が古代人目線で考えてみたアイディアだ。(皆様は、どちらの方がより納得感があるでしょうか?)実際にどれかを知ることは難しいが、私は上記のうちの複数が関与した結果だと思う。

 1つはっきりしているのは、この男王は、自身が持つ圧倒的な実力、軍事力で王になったわけではないという事だ。もし、そうならば、あっさりと王位を受け渡して次の王に交代するわけが無い。

 実行力、武力支配で強い軍事力を持つ王にとって変われるのは、同じく、それ以上の強い軍事力を持つ者だけだ。もし、武力がものをいう世界ならば、武力で前王を倒した男がいたとしても、次はその男が王になるだけだ。この場合、13歳の少女である壱与(台与)が、次の王になれる要素がない。

 実際には、倭国内での内乱があり、卑弥呼の宗女の壱与が王となり、国中が安定している。武力(だけ)ではない別の理由があったと判断するべきた。

□台与の出身地域

 九州の北東部で、現在の福岡県の東部と大分県のある場所は、律令制以前には、古くは「豊(とよ)の国」と呼ばれていました。その後、北部と南部で二分され、豊前(ぶぜん)国、豊後(ぶんご)国になっています。福岡からこの東部の豊前を除いた残りの全域が古くは「筑紫(ちくし)の国」であり、同様に、北部と南部で筑前(ちくぜん)国と筑後(ちくご)国に分かれています。

 余談ですが、おせち料理などにも入っている筑前煮は、この筑前国地域の郷土料理だったものが、全国域に広がったものです。がめ煮とも呼ばれています。色々な食材を煮込んで作るため、博多の方言である「がめりこむ(寄せ集める)」が短くなり「がめ煮」と呼ばれるようになったというような説などがあります。

 台与(トヨ)の名前から、トヨとは、豊であり、この豊の国が、台与(トヨ)の出身地域だという説が根強くあります。

 もう1つの理由としては、同じく大分県(古の豊の国)にあり、皇室とのゆかりも深い宇佐神宮」の主神である「比売大神(ひめおおかみ)」が卑弥呼であるという説があり、その卑弥呼の一族の娘である台与(トヨ→豊)も同じ大分出身という考え方です。

 九州北部の倭国連合とは、同じく九州北部域にある国々の関係であり、海側の北九州経由から行橋経由や、山側の飯塚経由あるいは日田経由などで、繋がりがあっても不思議ではありません。

 もちろん、現時点で、どこの出身かを断定することは出来ません。(将来、もし親魏倭王の金印がどこかの遺跡や古墳から出土したら、その場所が台与や卑弥呼に繋がる場所だと思います。)

□卑弥呼の暗殺説

こちらは卑弥呼が死んだ記載のある原文だ。

其八年太守王頎到官、倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和。
遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状、遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拝假難升米、為檄告喩之
卑弥呼以死。大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。

 実は昔から、卑弥呼は暗殺されたという解釈がある。そして新たに壱与(台与)が女王となったという考え方だ。ここでは、その説に触れたい。

①魏志倭人伝の解釈から生まれた説

 卑弥呼が帯方郡に使者を送り、狗奴国との争う様を説明した。その結果、帯方郡からの使者が日本に檄をもってきて告喩した。もって(以)、卑弥呼が死んだ。

 この文書を読むと、前後の文のつながりがおかしいと感じるだろう。狗奴国との争いについて訴えたら、中国側からの何らかの檄文が倭に届き、その内容により、卑弥呼が殺された、という解釈だ。狗奴国との争いとなった不仲の責任や、戦が負け続きなど劣勢な責任を取らされた、中国側が支援する条件が新しい王への交代だったなどが考えられる。

 一方で、「卑弥呼以死」は、使者が日本に来て「もって(よって)卑弥呼が死んだ」、という意味の文章ではなく、使者が日本に来たら「すでに卑弥呼が死んでいた。」というようか意味で訳すべき文だという解釈もある。この方が一般的だ。

 私には、中国からの何らかの指示があり、倭国が自分たちの女王を殺すとは思えない。なぜなら、このストーリーだと、中国側、日本側ともに、他国の女王(暗殺に関与)、自国の女王の暗殺という高いリスクに見合うだけの効果や対価や理由が思いつかないからだ。

 もしも、中国と陸続きで隣接していて、双方が内情に詳しかったり、関係性が深かったり、あるいは、中国に反抗してたりすれば少しは話しが別だと思うが、倭国のような特に中国に従順で無害な辺境の王を交代させても、中国には何の実利にもならない。

 また、日本側から見ると、もしも、卑弥呼という神に通じる偉大な女王を暗殺したとしたら、神の祟り、卑弥呼の祟りに呪われて、一族滅亡してもおかしく無い。あるいは、後で犯人や黒幕を探され、卑弥呼のシンパに復讐されて殺されてしまうかもしれない。そもそも、卑弥呼の館は、厳重に守衛に警備されていたはずだ。無事に成功するかも、怪しい。リスクが高過ぎる。

 暗殺されるには、それなりの事情、理由があるはずだ。例えば、他の力を持つ権力者が女王卑弥呼に変わって王になるために暗殺したや、卑弥呼が自国を外国に売り渡すような裏切り行為をしようとしたので、配下の人達が倭国を守るために暗殺したなどだ。卑弥呼の場合、記録されている当時の情報が少な過ぎて、歴史の結果からも、こういう動機、理由が見えてこないのも、推測や判断が難しいところだと思う。

②日本の神話と皆既日食から生まれた説

 こちらは、卑弥呼は、『日本書記』や『古事記』に書かれている「天照大御神」であり、有名な「天岩戸」の神話は、自然界の「皆既日食」をモデルに生まれた神話だと考えられる説から生まれた暗殺説です。天岩戸が皆既日食から生まれた神話なのは、まさにその通りだと思います。

 太陽神の巫女である卑弥呼の統治の時代に、皆既日食が発生して、人々が混乱、不安となり、これは卑弥呼の神の力が失われたため起きた不吉な出来事だとして、卑弥呼が殺されて新しい王に変えられたという説です。

 日本神話で太陽神といえば、天照大御神は女性、太陽神の巫女である日巫女(卑弥呼)も女性ということで、古来より日本での太陽神は女性を表しますが、これは世界的にみると少数派でかなり珍しいようです。世界の神話の神々的には、太陽神は力強い男性の神が一般的であり、女性は、偉大なる母なる大地の神や、美しい月の女神とかが多いようです。こういうところにも、日本人の特徴というか、個性、独自性がみてとれて興味深いです。

 『古事記』では、イザナギがイザナミの死後の黄泉の国から逃げて戻って来た際に、穢を払い禊祓をするために、筑紫の国の日向の海の河口で身を浄めたときに、最後に左の目を洗うと太陽神の女神である天照大御神(アマテラス)が生まれ、右の目を洗うと月の神の男神である月読命(ツクヨミ)が生まれ、鼻を洗うと荒々しい男神の建速須佐之男命(スサノオ)が生まれたと記載されています。古来日本では、右よりも左が先に書かれ、男性よりも女性が先に書かれており、より大切な位置づけになっていたのではないかと思っています。現代日本人の感覚では、月の方が女性を現す印象があり、右の方が上位の印象があるので(例えば、インド等では、文化的に右手は神聖で食べ物を食べる手で、左手は不浄な扱い等)、どこかの時代から他国の神話や文化などの影響を徐々に受けていき、やがて感覚が入れ替わったものだと思います。

 皆既日食は、天体の太陽、月、地球の位置関係と地球の自転により発生する規則性がある自然現象のため、天文学者やコンピューターでの計算により算出が可能で、過去も未来も予想が可能です。実際に皆既日食をシュミレーションするソフトウェアも一般に販売されています。

 皆既日食は、そんなに見れる自然事象ではありませんが、この皆既日食のシュミレーション計算によると、なんと「247年3月24日の日没時」、「248年9月5日の日出時」に日本列島にて、皆既日食が起きていたことが指摘されました。計算の精度、誤差や補正値等の関係と、位置と時間も重要で、私が知る限りでも、「北部九州(筑紫の国)からしか見えなかった。畿内(大和の国)でも見れた。北陸(越の国)からしか見えなった。248年は皆既日食ではなく247年だけの1回だけだった。248年は皆既日食だったが247年は日本では皆既日食ではなく、248年の前の皆既日食は「158年7月13日日没」の倭国大乱のときだった。」など、諸説はあります。どうやら、シュミレーションのソフトや計算をするための元情報等により差異があり、このように誤差の範囲なのか結果がばらついているようです。(もし、将来、技術の進化で、この見えた日や場所が確定すると、天文学という意外な分野から、邪馬台国の所在地が、科学的に特定されるかもしれません。夢が膨らみます。)

 もし、247年や248年に起きたのであれば、卑弥呼が死亡した年が247年か248年と考えられており、年代はまさにぴったりです。また、二度も連続で起きてしまったからこそ、二度目に卑弥呼が殺されてしまった、天岩戸神話での一度目(岩戸に隠れる)が卑弥呼の死を表し、二度目(岩戸から出てくる)が台与の誕生を表すというような解釈もあるようです。

 私自身は、魏の介入により暗殺された説よりは、かなり説得力があり、その可能性もなくはないと思います。

 しかしながら、以下の2つの理由から、現時点では、卑弥呼は、暗殺されてはいないと思っています。(もしかしたら、何かの新発見や、自身の『日本書記』や『古事記』等への理解度アップなどにより、将来見識が変わるかもしれませんが。)

①卑弥呼への畏れ、呪い、祟りが怖くて殺せない

 いくら太陽の神の力が失われたとしても、もしかしたら、まだ力が残っているかも、代わりに黄泉の神など別の闇夜の力を新たに得ているかもしれない。卑弥呼自身に呪われる、祟られるかもしれない。災いが、殺害した自分達だけでなく、家族、一族、子孫にまで代々にまでおよぶかもしれない。そう考えると、とても恐ろしくて、そんな行動は起こせないと思う。

②卑弥呼の魂、霊を鎮めるための神話や施設がない

 卑弥呼クラスの神の巫女、大女王を暗殺したならば、必ず、「出雲の大国主の国譲り」と「出雲大社」のような、その恨み、霊を鎮めるため、神話に記録して崇めたり、鎮魂のための神社などの施設が生まれると思う。実際には、明らかに、天照大御神を殺してしまった神話や、今に残るような卑弥呼所縁の施設は存在しない。

 ただし、天岩戸の神話の前後で、天照大御神の立ち位置や活躍度がかなり目立たなくなったのは、実はその死を暗示しているという解釈や、卑弥呼の墓自体がその施設だったという解釈もある。あるいは、卑弥呼を殺したのはヤマト政権とは別の勢力だったから、後の時代に日本書紀などの記録を残したヤマト政権側は、そもそも暗殺を知らなかったか、知ってはいたが自分達が犯人ではないから直接祟られるわけではないからたてまつる配慮が不要だったという可能性も考えられる。

 それでも、倭国の女王である卑弥呼クラスの人物ならば、もっとはっきりと分かりやすい神話としてや、特徴のある遺跡や施設として残るはずだと思うので、今のところは、卑弥呼は暗殺されてはおらず、高齢故の自然死か病死だと思っている。また、もう1つの高い可能性としては、皆既日食が現れ、太陽の巫女である自分の神通力が衰えたこと、周りが卑弥呼の神通力を信用しなくなったことなどから、自ら生きる気力を失い失意の内に自殺した、または生きる気力が無くなり食事も喉を通らなくなりそのまま衰弱死してしまったような可能性もあると思う。(病は気からという言葉がありますが、衛生面も栄養面も医療面も現代人より遥かに恵まれない古代人にとっては、生きるという気力、活力はとても重要だったのではないかと感じています。)

 この時代にはまだ、畏れ、祟り、呪いや、魂を鎮める、祓う、鎮魂の概念が無かったのではという考え方もあるとは思います。しかし、古事記や日本書紀の神話時代のイザナギ、イザナミの黄泉の国のエピソードから穢れや禊による国産みの話があり、少し後の時代と思われる出雲の国譲り神話の際にも、明らかに鎮魂の概念が存在しており、このような民族としての文化、風習は、急には人々の心に根付かないため、かなり前のこの時代から既にこのような概念があったと思います。
 実際に、既にこの時代には、身分の上下、高貴な存在と奴婢、穢れと御祓の概念、呪いや占い、信仰はあることがうかがえるため、これらと同じく、当時の人々には、怨みや祟りや祓いや鎮魂など怨霊信仰のような概念が既にあったと思っています。

⬛次回は、中国への朝貢と年代について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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