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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その16 纒向遺跡と箸墓古墳

 機内説の中では、纒向遺跡(弥生時代末期~古墳時代前期)と箸墓古墳を、邪馬台国や卑弥呼と結びつけて考えられる事が多いです。実際に、これらの遺跡から何かしらの新しい出土品がでる度に、これで益々邪馬台国の機内説が有利になったとメディア等が騒ぐ構図があります。ここが本当かを考察したいと思います。

□纒向遺跡、箸墓古墳は魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の墓とは特徴が一致しない

 纏向遺跡は、弥生時代末期から古墳時代前期の集落遺跡で、その中にある箸墓古墳は、宮内庁により古墳時代前期の第7代孝霊天皇皇女の「倭迹迹日百襲姫命」(第7代考霊天皇の皇女で大物主神の妻)の墓に治定されています。そして、この百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが箸墓古墳の名前の由来であるとされています。

 この遺跡には、以下のような特徴があります。

 「人々が暮らしていた集落後はほとんど存在しない。戦乱に備えた城柵や楼観等は見つかっていない。絹製品は出土していない。農耕器具は見つかっていない。銅鏡、刀剣類、勾玉、鉄製品などが出土していない。魏や朝鮮半島や北部九州由来の物、土器等はほとんど出土していない。」

 「当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡。大型の建造物跡が見つかっている。高床式建物が建ち並んでいた。大規模な都市建設の土木工事が行われていた。集落内に古墳が点在している。多くの祭祀遺跡が見つかっている。祭事用と思われる桃の種が2,000個以上発見された。伊勢、東海、北陸、山陰、河内系等の全国から搬入土器が多数見つかっている。」

 上記の特徴からは、これまで読み解いてきた『魏志倭人伝』に記載されている邪馬台国を、直ぐに連想しないとは思います。一番の理由は、魏や九州北部との交流を示す痕跡、魏志倭人伝に記載されている倭の品々が見つかっていないからです。

 また、箸墓古墳の名前の由来についても、『魏志倭人伝』では、倭人の食事について、「飲食には高坏を用い、手づかみで食べる」という記載があり、まだ箸を用いていなかった事が分かります。墓のネーミングからしても、文化の異なる時代や異なる国を連想してしまう状況です。

 ではなぜこの纏向遺跡が邪馬台国であり、箸墓古墳か卑弥呼の墓と考えらるのか、一般的な理由をおさらいしておきます。

□纒向遺跡、箸墓古墳が邪馬台国と考えられる理由

 まず最初に、「卑弥呼は誰か?」という一大テーマがあります。また背景、前提には、大和政権が機内発なのは間違いない歴史上の事実なのだから、その少し前の時代である前身の倭の邪馬台国も近畿内にあるはずだという予想もあります。

 卑弥呼は、三世紀前半から半ばにかけて間違いなく実在した人物で、初期の倭国の女王です。つまり、これだけの人物ならば、『日本書紀』や『古事記』などの神話の国造りや歴史に登場する人物にいるはずだという考え方があります。(一方で、邪馬台国と大和政権とは異なる勢力だからそこには登場しないという考え方もあります。)

 もちろん、『日本書紀』や『古事記』には、「卑弥呼(ひみこ、ひめこ)」というような名称の人物は登場しません。

 実際には、卑弥呼は、天照大御神だ、倭姫命だ、倭迹迹日百襲媛命だ、宇那比姫だ、神功皇后だ、甕依姫(筑紫国造)だ、熊襲の女酋だ、九州の小国の首長だ、等々、様々な説がある状況です。女性で、太陽や巫女や強さや王を連想させる人物が選ばれています。(これらの候補者内には、神功皇后や倭迹迹日百襲媛命等、なぜか既婚者もいます。)

 これらを踏まえて、以下のような根拠が考えられています。

 卑弥呼だと思われる「倭迹迹日百襲媛命」は、纏向遺跡にある箸墓古墳の埋葬者とされている人物です。そして、畿内には今のところ邪馬台国、卑弥呼時代の弥生時代後半での大規模集落は、この纏向遺跡くらいしか見つかっていません。

 邪馬台国は後の近畿を中心とした大和政権に繋ったと考えられます。そのためこの畿内にはその二~三世紀の痕跡を示す遺跡があるはずです。この箸墓古墳は、三世紀半ばから後半の構築と思われ、ちょうど時期も一致します。纏向遺跡内にあるこの箸墓古墳は、日本最古の大規模な前方後円墳です。倭国初代女王の墓にふさわしい大きさです。

 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓を直径100歩との記載があり、当時のこの歩数表現を現在のメートルで表すとおよそ150メートルくらいだと考えることが出来ます。箸墓古墳の円部分がちょうど150メートルくらいでぴったりです。逆に九州には、150メートル規模の墓は数えるくらいしかありません。纏向遺跡では、西は九州から東は北陸まで日本全国各地から運ばれたと考えられる土器が多数見つかっています。

 このため、既にこの時代に、邪馬台国の全国統一が進んでいたことを示しており、その結果、全国の物が畿内に集まっていたと考えられています。逆に九州ではこのような特徴の遺跡は見つかっていません。

  もちろん他にも根拠や理由はあるかと思いますが、大筋は上記のような理由からだと思います。

□その根拠は正しいのか

 しかし、私は、この理由では、論理的な根拠が乏しいと思っています。疑問点として、主に以下のような理由からです。

◇なぜ?
銅鏡がない(三角縁神獣鏡も、他の銅鏡も)
矢じりや剣などの鉄器がない
勾玉、腕輪、ビーズなどがない(女王なのに)
戦乱に備えた城柵や楼観の跡がない
倭国大乱の戦士者の痕跡の人骨がない
朝鮮や九州由来の土器はほとんどない
住居がほとんどない
稲作を示す農耕具がない
一緒に埋葬の奴隷100人の骨は出土してない
(径100歩の方は根拠として重視してるのに)

→実際の出土品は、『魏志倭人伝』に記載されている内容とは大きく異なるようです。あれほど、中国、朝鮮半島、北部九州との深い交流があるはずの邪馬台国にその痕跡がないのは、明らかに不自然です。逆に、九州の遺跡では、墓から奴隷100人の骨以外は、各遺跡から出土しており、有名な吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡など、記述内容と一致する遺跡が複数存在しています。

◇本当に?
倭迹迹日百襲媛命=卑弥呼=箸墓古墳
箸墓古墳=三世紀半ばに作成された遺跡
卑弥呼の墓=直径100歩=後円部150メートル
卑弥呼の墓=前方後円墳
纏向遺跡=邪馬台国(かその一部)
日本各地からの土器=倭国の全国統一の結果
(全国との交流が盛んにあった事を示す証拠や、むしろ影響を受けていた方の国の証拠の可能性も?)

→いずれも諸説ある状況で、本当かどうかの確証がある根拠は1つもなく、あくまでもその可能性を示してるだけだと思います。今後の調査で、古墳の年代がより明らかになるのを待ちたいと思います。

 邪馬台国論争では、一般的には良く「遺跡からは畿内が有利、文献からは九州が有利」と言われています。この畿内が有利の一番の大きな理由が、この纏向遺跡や箸墓古墳であり、あるいは、畿内から出土する三角縁神獣鏡だと思います。

 しかし、私は個人的には、明らかに遺跡も九州の方が有利だと思っています。なぜならば、魏志倭人伝に書かれている文化、品物、痕跡を示す弥生時代の遺跡があるのは、実は明らかに九州地方の方だからです。重要なのは、後の古墳時代に大きな古墳が沢山ある事や、弥生時代に魏志倭人伝の記載内容とは異なるが、大きな遺跡や大きな墓がある事ではなく、弥生時代の後期に『魏志倭人伝』で説明されている倭国、邪馬台国と同じような痕跡を示す遺跡があるか、無いかだと思っています。

 邪馬台国も卑弥呼も、実は『魏志倭人伝』に代表される中国側の歴史書に書かれているだけで、日本側の資料には、一切登場しません。その唯一の手がかりに書かれていた国や人物を探しているのに、その記載内容をまるで無視して探し出すことも、記載された内容とは全く異なる国と特定することも不可能だと思います。

 (なお、補足ですが、古くから、箸墓古墳のことを三世期末や四世紀の墓と考えていて、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではなく、次の女王である台与(壱与)の墓だという説等もあります。)

 ご参考までに過去に読んだ本には、ベイズ統計学(確率計算法)を用いて、『魏志倭人伝』に記載されており、考古学的に実際に出土した品を全てデータ入力してコンピュータで計算すると、その結果、邪馬台国が福岡県にある確率が99.9%になり、奈良県にある確率は0.00%になるそうです。現時点においては、機内、奈良には『魏志倭人伝』の記載内容と一致するような遺跡、出土品がほとんどない以上、コンピュータの機械学習(AI)と統計学の確率計算の結果でも北部九州となるのが必然なのでしょう。

 もちろん、まだ畿内で遺跡が見つかっていないだけという可能性もあり、畿内も含め、日本全国での今後の新たな発見が待ち望まれます。

 最後に、例え邪馬台国や卑弥呼と関係があろうがなかろうが、纏向遺跡や箸墓古墳が弥生時代の終末期、古墳時代の創成期を学ぶことが出来る日本を代表するような貴重な素晴らしい遺跡であることになんら変わりはありません。

□卑弥呼の墓を考察すると

 『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓について「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人」とある。一番自然に解釈すると、直径が百歩くらいの盛り土をしたお墓を作ったようになると思う。わざわざ直径という表現なので、円形だろうとか、奴隷百人も一緒に埋めるなんて残酷だとか、これは本当だろうかや、百歩といえば、一歩が70cmや50cmぐらいとしたら、70メートルや50メートルくらいかなが一番自然だと思う。しかし、実際には、前方後円墳の円形について説明しているという解釈や、150メートルくらいの巨大な墓だと解釈する方々もいる。

 ここでの1歩は、足裏のサイズが1歩を表してる、きりの良い数字の百歩というのは中国の得意の誇張表現でせいぜい数十歩だ、韓・魏の当時の一歩の数え方は現在の数え方と異なり、いまだと二歩分になるから倍の二百歩を示す等の諸説がある。また、一歩も25センチくらいから、70センチくらいまで幅広い解釈があり、小さい説明だと、10数メートルや、20~30メートル、中くらいだと、40~70メートル、大きい説明だと、100、140、150、180メートル位まである。

 箸墓古墳は、先の14C炭素測定や考古学的な見識から、早ければ280~300年頃に作られた、あるいは4世紀以降に作られた墓だと考えられている。そう、実はそもそも卑弥呼が死んだ時(247、248年頃)とは年代が違うようだ。(何事にも諸説はあり、中には、250年頃という見解も存在する。)

 そして、形状は前方後円墳だ。全国最古級の前方後円墳とされている。全長は278メートル、円の直径は150メートル、高さ30メートルもある巨大な古墳だ。これは、全国でも11番目の大きさを誇る。果たしてこれが、『魏志倭人伝』に記載されている卑弥呼の墓なのだろか。記載内容とのイメージは合わない。近畿での墓古墳時代のスタートとされる時期に、いきなり前方後円墳の形状で、このような後の古墳時代を含め全国有数の規模の巨大な高度な墓が作られるものだろうか。仮にこの墓をみて記載するなら、100メートルの後円部分に注目した塚と書き残すより、278メートルの全長の巨大さや、丸(頭)と箱(体)の奇妙な人形の墓について書き残すと思う。
 
 通常、古墳は、年代により進化していく。エジプトのピラミッドと同様だ。スタート時にいきなり巨大な完成度の高いピラミッドが作成されたわけではない。長い年月をかけて徐々に製作の技術が進化して、その集大成として、ギザの三大ピラミッドが作成されている。日本の場合も、全く同じだと思う。最初は円墳だったり、四角だったり、小さかったり、形が不細工だったりして、徐々に形状が洗練されたり、大きくなったり、高さや強度が上がったりして、最後に大仙山古墳(五世紀以降)のような大きさと完成度になったはずだ。

 卑弥呼の墓の場合も同様で、初期の古墳時代のスタート時代にふさわしい規模や形状の墓だったと思う。箸墓古墳は、全長280メートル規模の全国的にみても大古墳であり、いきなりこのような大古墳からスタート出来るとは思えない。

 私には、『魏志倭人伝』に書かれている卑弥呼の墓の記載からは、長い間かけて事前準備していたや、死んでから長い期間をかけて作ったという印象は受けない。男王を立てて内乱が起きているくらいだ。おそらく、死んでから盛り土で作られた、大きな塚の墓を作った事を書いたのだと思う。大きさも、20~50メートルぐらいではないかと思う。というのも、わざわざ魏に使者を送るほど、狗奴国との戦争の真っ最中で、時間をかけて国家的な大事業となる100メートル以上(もし箸墓古墳だったならば、全長280メートル)の巨大な墓を作れるとは思えないからだ。

 もう一度最後に強調して書いておくが、3世紀半ば頃から8世紀半ばくらいまでの古墳の造られた長い間の中で、箸墓古墳は、全国でも11番目に大きい280メートル規模の大古墳だ。古墳時代の幕開けのときで、中国側にも助けを求めるような狗奴国との激しい争いや、卑弥呼の死後に男王を共立による内乱などがある中で、3世紀半ばに短期間で卑弥呼の死後にすぐ造られた墓とはとうてい思えない。このように、冷静に状況を考察すると、箸墓古墳が卑弥呼の墓ではあり得ないことが論理的に分かるはずだ。少なくとも私はそう感じている。

 科学的に炭素14を測定し、暦年代を特定するための国際的なワーキンググループであるIntCal(イントカル)が、2020年に発表した最新のデータ分析結果では、箸墓古墳は「290年~340年頃」の築造となって発表されています。

 卑弥呼の死が247〜248年と考えられるため、これだと死後40年以上〜90年後に作られた墓となり、もはや年代が異なるため、卑弥呼の墓ではないことが分かります。

 従来より諸説はあるものの、箸墓古墳の形状や出土品などから、一般的には、箸墓古墳は4世紀前半に造られた墓と考えられていたようです。そこから、一部で、卑弥呼の墓説に紐づけてか、どんどん年代が遡るような解釈が生まれていたのが、また元に戻ったような状態かと感じます。少なくとも、箸墓古墳は、3世紀後半以降と考えるのが一般的な解釈のようです。卑弥呼の死亡時期とは時代が違います。

□箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない理由のまとめ

 これまで本歴史コラムで記載してきた内容や考察してきた結果を簡単にまとめると以下のような理由から、私は箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと考えている。ただし、私がそう思うだけなので、当然結論を断定出来るものではない。

  • 箸墓古墳の「箸」がある名前の由来からして、そもそも魏志倭人伝に記載されている「手で飲食する」姿と一致していない

  • 箸墓古墳の年代は形状、炭素14測定や出土品等から卑弥呼の時期より半世紀以上新しい墓

  • 箸墓古墳は全国でも11番目に大きな古墳で、弥生時代の終末期で、古墳時代の創世記にいきなり作られるような墓ではない

  • 邪馬台国は、狗奴国と戦争中で、魏にも使者を送って報告までしている、卑弥呼の没後に男王になり再び内乱が発生している、国が不安定な時期に国家的大事業であるこのような大古墳は作れない

  • 魏志倭人伝には、卑弥呼の死後に直径百余歩の大きな塚を作ったとあり、大きさの規模や形状が違う(全長約280メートル、円部の直径150メートル、一歩が2.8メートル、または1.5メートルは必要になってしまう)。

  • 箸墓古墳からは、魏や北部九州ゆかりの副葬品はほとんど見つかっていない。魏志倭人伝に記載されている特徴のある出土品がほとんどない。

  • 畿内に邪馬台国があり、武力で制圧や牽制して、一大卒を伊都国に派遣していた場合、畿内から当時の武力を示す大量の鉄器、矢じりなどの武器が発見されておかしくないが、実際は畿内に鉄器はほとんどなく、北部九州から大量に鉄器が出土している。

  • 箸墓古墳が倭国の都の邪馬台国ならば、南には争っている狗奴国が存在しているが、位置的にそのような規模の国の存在や遺跡等が見当たらない。

  • 近畿奈良が邪馬台国ならば、東に海を渡ると別の倭人が存在しているが、日本列島の本州には東には海がなく陸続きで倭人が住んでいるし、仮に海を渡り東に行くと海しかない。

  • ヤマト政権がまとめた日本の天皇家のルーツ、由緒正しさを伝える日本の正史である『日本書紀』には、「邪馬台国(邪馬壱国)」も「卑弥呼」も「壱与(台与)」も登場しない。

 そして、まだ確証がないにも関わらず、いま時点で箸墓古墳を卑弥呼の墓と完全に断定してるような人(かもしれない、その可能性がある、可能性が高い、まだ結論には至っていないが等と考えている方々は除き)は、論理的には、おそらく、ヤマト政権の発祥の地である近畿奈良に同じ名前の邪馬台(ヤマト)国があったのは疑いようのない事実なのだから、あるいは、魏志倭人伝に書かれている行程の距離感(一万二千里、水行十日、水行二十日、陸行一月)から邪馬台国が畿内にあったのは疑いようがない事実なのだから、その場所でそれらしき時代の大規模遺跡や古墳が見つかったのならば、それこそが邪馬台国であり、卑弥呼の墓で間違いはないと、結論ありき(邪馬台国=畿内=ヤマト政権)で判断しているように、少なくとも私は感じている。

⬛次回は、いよいよ邪馬台国の場所について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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