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謎の古墳時代を読み解く その6 旧唐書にある倭国 前編 倭国最後の遣唐使

 ここでは中国の「唐」の時代の倭国について考察します。中国の歴史書では、唐の時代は、最初にまとめられていた『旧唐書』と、その後に改めてまとめ直された『新唐書』があります。まず今回は、最初の『旧唐書』の方に書かれている「倭国」についてです。

□旧唐書(くとうしょ)とは

 『旧唐書(くとうしょ)』は、中国の二十四史の1つであり、の成立した618年から滅亡の907年までについて書かれています。元々は『唐書』と呼ばれていましたが、次の北宋の時代に新たに『新唐書』が作成されたため、『旧唐書』と呼ばれるようになりました。唐滅亡後の混乱期の五代十国後晋の時代に、941年から945年のわずか4年間で、後普の宰相となった劉昫と、張昭遠、賈緯、趙瑩らによって編纂されたとされています。倭国については、漢文でわずか半頁ほどの短い内容です。

 唐が滅んでからすぐ後に当時の資料を元に編纂されているため、歴史的な資料の価値は高いようなのですが、後晋は、唐滅亡後の混乱期の国で、936年から946年に短命で滅んでおり、その影響で『旧唐書』の内容も、唐の時代の前半部分に偏っていて後半は駆け足になり、バランス良くまとめられていないため、内容に対する後世の評判はかなり悪かったようです。そのため、次の時代に改めて『新唐書』がまとめられました。

 唐は、618年から907年までの約300年間の長い間続いた超大国であり、近隣諸国への影響力も絶大で、日本も遣唐使を送り唐の文化や宗教や技術を沢山学んでいます。日本では、有名な聖徳太子蘇我馬子が亡くなる少し前の第33代の推古天皇飛鳥時代から、同じく有名な菅原道真が九州に左遷されたり、『古今和歌集』が編纂されたりした第60代の醍醐天皇平安時代に当たる時代です。

 唐は、当時の日本が目指して真似していた国でもあり、日本人にとっても大変馴染みが強い国です。次の時代になっても、引き続き中国のことを唐と呼んだり、中国大陸からやってきたものには、唐(トウや、カラ)の名前で呼んだりしていて、未だに影響を受けたものが残っています。

 例えば、唐揚げも、中国(唐または、昔唐だった中国)からやって来た料理方法だから、唐揚げという名前になったという説があります。唐芋(さつまいもの事)も、中国(昔唐だった中国)から来た芋だから唐芋(とういも、からいも)と呼んでいます。他にも、唐辛子トウキビ・トウモロコシなども同様です。原産地は関係なく、唐や中国から由来でやってきたや、ときには海外から入ってきたという意味でもトウやカラが用いられています。また、福岡県には、唐坊地(とうぼうち)や唐人町(とうじんちょう)など、中国からの渡来人・帰化人が居住していた地域などもあり、地名にも用いられています。このように馴染み深い事が分かります。

 現在の中国では、「漢・唐は日本に在り、宋・明は韓国に在り、民国(中華民国時代)は台湾に在り、清朝のものは中国大陸にある」という自虐的な言葉があるそうです。この言葉の意図は、「古き良き時代の文化や風習は各時代のものがそれぞれの諸外国に残っているのに(日本には漢や唐の文化や風習が)、中国にはたいしたものが残ってない」という意味です。確かに、日本には未だにその時代の文化の影響が色濃く残っていて、日本人は中国の中でも漢や唐の時代が好きだったりしている気がしたため、上手い表現だなと思いました。

 『旧唐書東夷伝』には、始めて「日本国」が登場します。そして、なんと引き続き「倭国」についての記載もあります。『旧唐書東夷伝』は、「高麗(高句麗のこと)、新羅、百済、倭国、日本」の順に5つの国々についての記載がされているのです。つまり、倭国と日本をそれぞれ別の国として扱っていて併記している形です。これは、『旧唐書』だけの特徴であり、次の『新唐書』からは、「日本国」だけになります。あたかも、倭から日本へと国の移行や国名変更に伴う過渡期や混乱期のようです。

 ここでは、『旧唐書』の「倭国」について考察します。

□倭国伝の最初の記載内容

 『旧唐書』の倭国伝には、以下のような出だしの記述がある。

 倭国は古の倭の奴国なり。長安の都を去ること1万4千里。新羅の東南、大海の中に在り。山島に寄りて居す。東西は5ヶ月、南北は三ヶ月の行なり。世々中国と通ず。その国、居には城郭無く、木を以って柵とし、草を以って屋根と為す。四面の小島五十余国は、皆倭国に付属する。その王の姓は阿毎氏。一大率を置き、諸国を検察する。皆之に畏怖する。官を設けるに十二等有り。

 今までの時代の中国正史の内容を抽出して、コンパクトにまとめたような内容だ。倭国が島国であり、四方が海であること、沢山の周辺の島々があることなど、正確に把握されていると思う。中には、例えば、一大率は3世紀の卑弥呼の邪馬台国(邪馬壱国)時代の話であり、その後も続いていたという記録や、日本史側には一大率というのは登場はしないため、誤認識も含まれているとは思う。しかし、当時の中国側では、倭国をこのように捉えていたという事が良く分かる記載内容である。

 冒頭では、「倭国はいにしえの倭の奴国」となっている。初めて読んだ方は驚かれるかもしれない。おそらく、中国側では最初の記録で漢の時代に倭の奴国が朝貢した記録が残っているからだと思う。

 個人的には、もしかすると、一番最初の北部九州の倭国の起こりの京や中心は、博多湾沿岸にある福岡平野部の奴国や伊都国であり、やがてどんどん南下していき、国土がより広い筑紫平野部に広がっていき、途中から倭国連合の中心国や京が一番人口が多く広い土地を持つ邪馬台国(邪馬壱国)に変わったのかも知れないと思っている。

 あるいは、もっと文脈通りにシンプルに、「倭国は昔は奴国と呼ばれていた国だ。九州北部の奴国が今の倭国だ。」という解釈も可能だと思う。また「倭国はいにしえの奴国だ」と書いていない点(倭国はいにしえの倭の奴国だと、わざわざ間に倭を足して書いてる)に注目し、「倭国はいにしえの倭奴国だ。」と読むと考える説も根強く存在する。この場合の倭奴国の読み方は、イナコクではなく、イトコクやイドコク(伊都国)と読むと考えられている。

(奴国についての記載は、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その3 金印の奴国と倭国の記録を参照のこと)

(倭国の読み方や伊都国については、魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その2 特別な伊都国を参照のこと)

 ここでは、以下のような解釈もあると思う。

・新羅の東南にあるのは、まさに九州で、機内だと東になる。だから、倭国(邪馬台国)は九州だ。

・南北は三ヶ月で東西は5ヶ月なら、東西の方が大きいことが分かっていて、日本列島の本州まで含み機内までを示している。だから、倭国(邪馬台国、ヤマト政権)は機内だ。

・長安から1万4千里だと丁度、九州北部に到着する距離だ。だから、倭国(邪馬台国)は九州だ。

・魏志倭人伝の時代に1万2千里で北部九州(倭国、邪馬台国)だったので、そこから2千里足されたから、今度は丁度、機内に到着する。だから、倭国(ヤマト政権)は機内だ。

・長安から1万4千里だと、距離的には、☓☓☓(邪馬台国の比定候補地などのどこか)の場所となる。だからそこが倭国(邪馬台国、当時の政権)だ。

 しかし、これらの説は、個人的にはほぼ意味が無い考察だと思っている。

 なぜならば、いくら我々現代人が正確な世界地図を見ながら方位や距離を言ったところで、当時の中国人や倭人が、その同じ世界地図、距離感の前提知識を元に記載しているわけではないからだ。そして、当時は倭国は、倭人の別種や倭に属するなどの捉え方をされており、それが即ち倭国の国境を表現しているわけでもないからだ。つまり、同じ常識、前提にたった上での考え方であるかどうかが分からない以上、合っているのかどうかは判断出来ないため、意味が無いと思っている。(ここは私がそう思うだけです。現実的には、上記のような解釈をして邪馬台国や倭国を論じている歴史の専門書籍等も多数あります。)

□倭国伝の最後の記載内容

 『旧唐書』の倭国伝の最後には、以下の記述がある。

 貞観五年(631年)、使いを遣わして、方物を献じる。中国皇帝の太宗は、その道の遠きを哀れみ、役人に命じて、毎年での朝貢を行わなくて良くし、また、新州(広東省新興県)の刺史(長官)の高表仁を遣わして、節を持して手なづけようとした。しかし、高表仁には外交の才覚が無く、王子と礼を争い朝命を述べることもなく帰国した。貞観二十二年(648年)になり、又、倭国は新羅にことずけて上表文を奉り、以って皇帝の機嫌を伺う挨拶を行った

 この631年の遣唐使が、『日本書紀』にも記載があり、記念すべき第一回目の遣唐使となる。ここで1つだけ、中国側と日本側の記録上の大きな違いがある。高表仁が王子との礼を争ったことだ(後の『新唐書』では、王子との争いでは無く、国王との争いになっている)。日本側の記録では、高表仁を大歓迎をして迎えて、そして帰国した様しか記載が無い。やはり、このようなギャップがあると何かの理由や意図が働いているものと考えたい。

 例えば、以下のような状況だ。 

○倭国側に問題な対応があったケース

1、日本側では、謁見や祝宴の席上で礼節に関して問題があったと思ったが、その場で侘びて、既に話し合いで解決したことと思っていて、わざわざ書き残すほどの事では無いと捉えていた。

2、日本側の王子に粗相や失礼なことがあり、中国の使者を怒らせてしまったが、自分たちの接客力、外交力不足であり、そんな情けないことは後世に残せないから書かなかった。

○中国使者側に問題な対応があったケース

3、倭国王子の高表仁に対する些細な失礼なこと、接客において軽微な不備があった。しかし、それはとても本来問題にするようなレベルではなかった。高表仁が両国の外交を思えば不問にして受け流す、寛容な大人の対応をするべきだったが、高表仁にはそれが出来なかった。国益を考えずに、感情的になってしまった。

4、高表仁が尊大な態度や対応だったことにより、それに起因して倭国の王子との間で礼に関する争いが実際にあった。中国側では悪いこともよく記録する文化のため、そのまま正直に記録し、倭国側では、悪いことはさほど書き残さない文化のため、割愛された。

○両国の立場上、仕方がなく問題になったケース

5、日本は、遣隋使のときに引き続き、中国の天子と、日本の天子での対等な関係を求めていて、その国同士が対等な考えの上での使者に対する態度、扱いや接し方に対して高表仁が怒って、帰国した。

6、高表仁は本当は唐の皇帝からの国書の命令内容を伝えたが、倭国側は対等な立場の前提のため、その命令は受け入れなかった。高表仁は、自分の外交における交渉力の問題とならないように、中国に帰ってから、そもそもその国書の話しの前に、相手が無礼だったから中国皇帝の徳、尊厳を守るため、自分が怒って帰国した、だから国書への返事もない事にした。その結果、思惑が外れて想定外に悪く書き残された。

○高表仁の人物評価が悪かっただけのケース

7、中国側では、元々、人物評として高表仁が、尊大な人物、外交力が無い人物というような評判だった。使者として期待された倭国の返事を持ち帰れなかったから、やっぱり高表仁には外交は無理だったかと思い、そのように悪く書いた。

 両国のカルチャーも踏まえつつ、以上のような考察をしてみた。

 上記の中で日本側の歴史書の通説では、上記の5番のような解釈をされていると思う。推古天皇、聖徳太子、小野妹子の遣隋使での国書「日出処の天子〜」が、その根拠だ。確かに、そういう背景から礼に関する争いになった可能性も十分あるとは思う。

 ただし、このときの争いが5番のような状況だとしたら、「高表仁には外交の才覚が無く」という説明とが繋がらないと感じる。もしもそうだったならば、「倭国が礼節を知らず」や、「中国皇帝や使者の高表仁に対する無礼があり」とかの方がより適した自然な表現になると思う。わざわざ、自国の使者である高表仁が駄目だったように悪く書くということは、おそらく高表仁によほど何かの問題な対応があり、このときの同行していた副の立場や他の使者達からの報告も受けて、このように悪く書き残されたのだと思う。使者が自分勝手な振る舞いや、虚偽の報告をしないように、必ずお目付け役、監査役がいるのが当時の通常だ。だとすると、3番や4番が、一番ありそうな気がしていている。もちろん、真相は分からない。

 ここでも、もし、この王子の名前が誰なのか記録されていたらと思うと、残念でならない。本当に古代史は、謎が謎を呼ぶように、上手くミステリアスに出来ている。だからこそ、面白いのだか。

□倭国が新羅に唐への上表文をことづける

 上記の『旧唐書』の記載内容で、個人的には、とても驚いた記述があった。「倭国が中国への上表文、国書を、他国の新羅に託した」ことだ。これは、かなりの衝撃だ。

 ここを深く取り上げた本などはいまのところ見たことは無いが、比較すると『日本書紀』には、600年の記念すべき第1回目の遣隋使が記載されていない謎や、『隋書』には、女性である推古天皇の時代の倭国王の名前が「俀王姓阿毎字多利思北孤」と男性名で書かれている謎と同じくらいか、あるいはそれ以上のインパクトのあるエピソードだと思う。

 なぜかというと、高句麗によって国土の北半分を奪われた百済からの任那4県割譲要請を受けて、倭国が百済に朝鮮半島の土地を譲渡したのは、512年の出来事だ。「磐井の乱」が起きたのは、527年だ。磐井の乱は、『日本書紀』では、ヤマト政権が近江から6万人の兵を率いて、新羅に奪われた朝鮮半島南部の倭国地を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅が、九州北部の筑紫の有力者であった磐井へ贈賄を送り、ヤマト王権軍の進軍を妨害を要請し、磐井が反乱を起こしたとされる乱だ。『日本書紀』には、562年には、朝鮮半島南部の日本国府ともされている任那が新羅によって滅ぼされた記述がある。6世紀や7世紀に、新羅が繰り返し倭国領地の任那への侵攻を繰り返し行っている記載がある。その都度何度か朝鮮半島にも救援や奪回を目指して実際に出兵しており、推古天皇朝時代にも、600年や623年には、実際に朝鮮半島の新羅への出兵を行った記録が記載されている。百済の滅亡は、660年だ。百済復興のために、倭国と百済遺民の連合軍と、新羅と唐の連合軍とが戦った「白村江の戦い」は、663年だ。

 何が言いたいかというと、「倭国は、長らく百済とは仲がよく親密な関係性があり、新羅とは常に争いが多い関係性だった」という事だ。かつて、倭国が新羅を全面的に信頼したような信頼関係があった記録は無い。むしろ、朝鮮半島南部の倭国領地を奪われたばかり関係性だ。そんな中で、新羅に国書を委ねるだろうか。大事な国書を中国に渡す際に他国に頼むなら、それは間違いなく長年に渡る友好国である百済に頼むはずだと思う。少なくとも、本来ならば長年に渡り何度も戦を繰り広げている新羅には、絶対に上表文、国書は渡さないはずだ。

 それにも関わらず、新羅に国書を預けているという点に、簡単には思いつかないくらいのかなり複雑な特別な事情や理由あるいは、ちょっとあり得ないような理由があると思う。そもそも、国書(上表文)を他国に預ける行為を見聞きした例があるだろうか。いくら古代でも普通は、あり得ないケースだと思う。もし、相手国が悪意を持てば、中身を読んで知ることも、国印や記述様式や文字など倭国の国書のスタイルを真似して、いつでも新羅に都合の良い内容を偽造して中国に渡すことも出来るようになるからだ。

 そして何よりも、まず、なぜ倭国自ら遣唐使を出して行かないのか、という点もポイントだと思う。今までは、どんなに遠くても、中国側が驚くくらい遠い道のりでも、代々自ら朝貢していたのだ。過去に他国に国書を預けた記録は私の知る限りは無い。このときは、行ける状況では無くなったという解釈も出来ると思う。

 倭国自ら遣唐使を出さなかった理由や新羅に頼んだ理由の可能性については、非常に難しいが、以下のような状況が考えられると思う。

①648年は、乙巳の変、大火の改心の後になる。この混乱の収束のため、国外に遣唐使を送る余力が無かった。
 →自国の混乱内政で手一杯

②これまで外交を担っていた北部九州の倭国がいよいよ完全に機内勢力の支配下になった。だから、遣唐使を送れなくなった。だから、最後の連絡として国書を他国に預けるしかなかった。
 →九州北部の倭国連合が終焉し外交不能

③長引く国内外の混乱で、国力が低下。遣唐使を送るだけの余力が無くなった。
 →倭国の国力の低下

④648年は、乙巳の変、大火の改心の後になる。この政変により、対新羅の国政の方向性の大きな変更があった。
 →新羅との関係修復を目指した

⑤倭国内での百済派、新羅派の存在があり、外交に対してどちらの影響力が大きいかの違い。
 →たまたま親新羅派がそのときの外交を担当

⑥このときに百済が唐との関係が悪化しており、百済では唐との連携がうまく行かないという読みがあった。百済では無理だから、そのため、仕方なく新羅に頼んだ。
 →百済と唐の関係悪化、百済の遣唐使が停止

⑦たまたま新羅の使者が倭国に来ていて、次に唐に行く予定を聞いたので、ついでにと頼んだ。
 →偶然でついでに依頼

⑧巫女による占いの結果、新羅に唐への国書を預けた方が良いという結果になった。
 →神のお告げ

➈磐井の乱で書かれているように(これが本当だったという仮定において)、九州北部勢力の磐井は新羅と仲がよく、九州勢力側から新羅に国書を頼んだ。
 →九州北部勢力からの依頼だから新羅

 ※古くから代々、倭国は新羅とは争いの関係だから、こんな単純な話は無いはず。

⑩百済とは蘇我宗家との強いパイプがあった。その蘇我氏が滅亡したため、一時的に百済への強いパスが無くなり、依頼が出来無かった。
 →親百済の蘇我氏滅亡の影響

⑪天智天皇朝は、新羅との関係が深かった。信頼していた。
 →天智天皇の人脈は新羅側

 ※百済復興のために、天智天皇が新羅と戦っているため、通常ではこれはないはず。

⑫機内ヤマト政権の天智天皇朝は、外交に弱かった。国書の重要性すら、他国に預けるリスクすら、何も分かって無かった。
 →外交知識や経験の欠如

⑬新羅が、倭国の国書を偽造して、勝手に中国に持って行った。その偽の国書がバレ無かった。
 →新羅が勝手に偽造していた。倭国からではなかった

⑭実は新羅の遣唐使に倭国の使者も随行していた。国書も同行した倭の使者から、中国の役人に渡していた。中国側が新羅からの使者一行だから、気付かずに、新羅からだと記録しただけだった。
 →倭国使者も同行していた

⑮倭国が唐をかなり怒らせていた。国交断絶や戦争になってもおかしくないレベルで。そのため、唐に急接近して仲の良い新羅にあえて間を取り持って貰った。
 →唐の怒りを鎮めるための仲介役が必要だった

⑯中国側の記録の間違いで、新羅では無く、正しくは百済の遣唐使に頼んだだった。
 →中国側資料の国名の記載間違い

 ここは、本当に色々な事が考えられると思うし、簡単に結論は出せないと思う。なんといっても、現代人の常識では、考えられない事が起きているのだ。おそらく、上記以外にも論理的には、色々な可能性の案があるのだと思う。ここで、一方的にどれという結論までは出せないが、日本側の歴史書を読み解いていく際などにて、また詳しく考察したいと思う。

 ここで、6世紀、7世紀の新羅について少し触れておきます。新羅は、6世紀になると台頭し、北の高句麗、南は倭国領地の任那、伽耶などに侵攻して領地を拡大し、朝鮮半島から倭国領地を無くしました。その後、唐と連合して、百済、高句麗を滅ぼし、さらに朝鮮半島を支配下にしようとした唐を朝鮮半島から追い出して、朝鮮半島の統一国家を構築します。この時代に、最終的に朝鮮半島を統一した勝者は、新羅です。そして、倭国とは、朝鮮半島南部の地域の支配領地や親倭国であった百済の領地を守るため、新羅とは基本は争っていた関係性でした。

□旧唐書に倭国と日本国のある不思議さ

 ここまで、『旧唐書』に書かれている「倭国」の記載を読み解いて来ました。次回は、いよいよ「日本国」についてです。

 『旧唐書』に、倭国と日本国が、それぞれの独立した国として書かれています。これは、非常に興味深い事です。

 なぜ2つの国として扱われているかは、九州北部の倭国連合と、機内勢力のヤマト政権の日本国があり、日本国が倭国を支配下に置く過渡期だったからこそ、2つの国が並んで記載されている可能性があると思います。

 また他にも、倭国が国名を日本国に変えたことで、この国名変更の過渡期による混乱で、中国側で正しく認識や理解が追い付けずに、2つの別の国として併記された可能性もあると思います。この後者の方が今の日本史での通説だと思います。

 この点も踏まえて、次回にて『旧唐書』の「日本国」を読み解いていきたいと思います。

■次回は、旧唐書の日本国 日本人の活躍について

 次回に続く

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最後までお読み頂きありがとうございました。😊

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