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魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その9 邪馬台国への道のりの謎

 こここでは、邪馬台国への工程について、古代人になったつもりで、当時の状況から考察したいと思います。

□倭国へ、邪馬台国への行程

 この連載では、魏志倭人伝に記載されている倭国や邪馬台国への位置を示す距離や行程にはほとんど触れていない。通常の『魏志倭人伝』の解説だと、まず必ずと言って良いほど、邪馬台国への工程についての解説があり、「東だ南だ、水行だ陸行だ、何里だ何日だ」というようなくだりがあるのが一般的だ。なぜこの連載では工程の詳細な解説を書かないのか、その理由を述べたい。

 これまで多くの方々が、魏志倭人伝を読んで、その記載内容から邪馬台国の場所を探して来た。未だに決定番はなく、まさに多種多様な説が存在している。その理由は簡単で、だいたい記述内容通りに現在の地図をなぞっていくと、九州の南の沖の海上あたりになってしまうとされている。(最後には、九州の宮崎や鹿児島の南下先の何もない海上で、さらに陸行一月となり、邪馬台国に行くために海の上を歩かないといけなくなります。)

 そのため、読み方を工夫し、ここからは前の国からではなく最初の起点となる中国側帯方郡からの全体の工程を示している(漢文特有の主語の省略箇所による解釈から)や、ここは南と東の方向を、あるいは、陸行1月は陸行1日の書き間違えをしている(中国の古書では方位などの書き間違えがしばしばあるから)や、当時の人々は倭国は、朝鮮半島の下側に南に伸びている国だと思って書いている(当時はまだ正しい日本地図が分かってなかったから)など、様々な説が生まれている。

 このように、邪馬台国の九州説、機内説、その他の場所に行き着く多種多様な解釈が存在する。

□そもそも正しい情報なのか?

 当時の人々は、現代人よりはるかに方位感覚に優れていたはずた。しかし、それでも両国の使者は、そもそも正確な位置や行程を的確に説明したくても出来ないのではと思う。途中は、現地のガイド役に道案内をして貰ったはずだ。倭国内でも、普段は自分の国でしか生活していないのではないだろうか。倭国全体の地図像も正確には分かっていないと思う。

 きっと倭国の使者は、中国側に話すときに、オーバーに話しを盛って伝えると思う。中国という大陸をみて、広さや文明の違いに驚きながらも、自分たちの国も同じく大きな国だと、より広くなるように説明したり、我々は、海山川を超えて、はるか遠くからわざわざ苦労してやって来んだと、より遠くから来たように説明したりすると思う。

 そして、外交に選ばれるような政治的センスと頭脳を持つ使者ならば、絶対に中国側に自国までの最短なルートをバカ正直には話さないと思う。なんといっても、中国側は諸国が大戦乱の三国志の時代だ。中国での軍隊や戦いの話しも実際に何度も見聞きしたと思う。こんな戦好きな国の武装して訓練された大軍に攻めて来られたら、自分たちの国が滅んでしまうと大きな脅威にも感じたと思う。そのため、説明時には、途中で全く違う方向や、かなり遠回りする行き方など、なんらかの嘘(自国防衛策)が混ざっていると思う。

まとめると、以下の3つの理由となる。

①大陸、島々の正しい位置や大きさ、距離感、方向感覚など、そもそも地図を正確には分かっていない
②倭人は、自分たちの国や、自分たちの旅の道のりを凄いと思ってほしいため、かなり大げさにして伝える
③三国志時代の戦闘国家で大国の中国に攻めて来られる恐れから、嘘の説明や遠回りの行き方など、自国防衛が働いている

 このような結果、つまり、そもそも記載内容自体が正しくない可能性が高いと思う。実際に、場所がほぼ特定されている韓国側から対馬(対馬国)、対馬から壱岐(一大国)への距離感や島の大きさ等も、魏志倭人伝の記載内容と現在の地図とではズレがあり、正確な表現にはなっていない。

 実は、後の時代の『旧唐書』(945年完成)には、「日本人で唐に入朝した者の多くは、自分たちの国土が大きいと自慢するが、信用のおける事実を挙げて質問には応じようとしない。だから中国では、彼らの言うことがどこまで真実を伝えているのか、疑わしい、と思っている。」と、疑われている様までが記載されている。相手に小さな存在と軽視されたり、不当に扱われないためにも、当時の国防上、外交上は、それで正解だよとエールを送りたい気分になる。

 『旧唐書』については、謎の古墳時代を読み解く その6 旧唐書にある倭国 前篇および、その後編をご参照ください。

 どうやら、魏志倭人伝に書かれている道のりから読み解くアプローチには限界があるようだ。私はいくらこの考察をしてもキリがないと思う(実際に江戸時代から現在まで議論は続き未だ決着は出来ていない)。なぜならば、どんなに推測して論理的に考察や説明しても、その中に都合よく、そこは漢字の書き間違いとかの解釈の説明が出てくると、もはや、本当に間違えているのか、それともそうではないのが誰にも決して分からないからだ(別の当時の文献なり、実際の遺跡などが見つからない限りは)。なにより、方向や行程にばかり気をとらてしまうと、折角の魏志倭人伝が、読んでいても楽しくなくなってしまう。

 日本の正式な歴史書である『古事記』には、「八百万(やおろず)の神々がいる」と書かれているから、「日本には、八百万(はっぴゃくまん)の神がいる」という理解にはならないと思います。さあ、八百万神を並べて数を数えてみようともならないはずです。本来、やおの意味はたくさん、よろずの意味は、さまざま、のようでして、単に「日本には沢山の様々な種類の神様がいる」ことを表現しています。日本人の精神である神道の世界では、多神教であり、山にも木にも石にも何にでも神様が宿り、また人が死ねば人も神様になれるからです。
 例えば、古代中国にも、「方万里」という考えがあります。洛陽の都を中心に東西南北の四方一万里までが自分達の中華の管理対象範囲内で、それを超えたら、それ以上は、蛮族の住むはるか彼方遠くの世界とのことです。日本は、中国からみて方万里を超える一万里二千里以上先にある国です。日本は、洛陽から一万里や一万ニ千里ある帯方群の場所から、さらに1万ニ千里あるように書かれるような遠方の国です。例えば、中国には、有名な「万里の長城」があります。これは、各時代に少しづつ拡張されて段々長くなっていますが、最初の頃(実際の距離は一万里もありませんが)から万里の長城と呼ばれていたそうです。一万里の長さがある万里ではなく、とてつもなく長いから、万里の長城だと思います。このような背景がある中で、一万里や一万里二千里の距離を信じて、距離を図り邪馬台国の位置を探すべきでしょうか。それとも、はるか彼方先の国という意味の表現だったと捉えるべきでしょうか。


□隋書倭国伝での倭国への行程について

 中国史書では、この『魏志倭人伝』の他には、『隋書倭国伝』でも、中国の使者が倭国に来たときの記載があり、若干の行程についても記載されています。どちらも、中国からの使者が実際に倭国に来た記録まであるにも関わらず、残念ながら、その旅の道筋や邪馬台国(邪馬壱国)の場所の特定まで至らないのが面白いところです。

 以下にその『隋書』の行程に関する考察も記載していますので、ご参照ください。

 謎の古墳時代を読み解く その5 隋書の倭国 後編

⬛次回は、魏志倭人伝の世界 印象深い単語とその意味について

 次回に続く

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最終までお読み頂きありがとうございました。😊

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