不可逆

「こんばんは、あなたがトワ子さんですね?」
 一人目の女は、明るい茶髪で見た感じ静かそうな女。プロフィールには顔の全体像が見えないような他撮りの写真に、趣味の欄に映画・音楽と意気揚々と記されている、どこにでも居そうな女だった。
「そ、そうです」
 いかにも男慣れしていない、今の「若い女」という武器が使えるうちに経験を積んでおこうという精神が透けて見えた。
「じゃあ、お店予約してるんで、そっち行きましょうか」
 空はもう太陽が隠れきっていて、死んだ顔のサラリーマンたちがスマートフォンに取り憑かれたような視線を向けつつ、駅の方からベルトコンベアのように運ばれていた。
 おそらく夜の方もセンスのないであろう、面白くなさそうな女とマッチングしているのには理由があった。
 二週間ほど前、この女と会うことになった「ダブル」というアプリを始めたのだが、奇妙な機能があった。それは「秘密の窓」という機能。メッセージをやりとりできるようになった後、課金額に合わせてお互いの初期状態のプロフィール欄には記載されていない、趣味趣向を開いていくことができるというもの。話題を呼びそうな代物だったので、運営している出会い系レビューサイト記事のネタになりそうだったのもあり、試すことにした。
 男たちは自らの社会的地位を誇示したいがためか、職業や自身の年収額、親の年収などの記載が多いようだった。対して女の方はスリーサイズやらバストの形(写真を載せているものもいた)の情報、性経験の有無等、所謂マッチングアプリを使うような男どもの「知りたい情報」を載せているものが多い。
 昨今はマッチングアプリが多くリリースされ、利用者のニーズによってアプリ側の特色が強く出てきている。この「ダブル」というマッチングアプリは、遊びたい若者に対してのニーズを埋めていた。
「何飲みます? 僕はビールにしようかな」
 六百円と何処にでもあるようなフォントで書かれたそれを頼む。店は何処にでもあるような、一般的なチェーン店程は安くないタイプの大衆居酒屋系。
「ええっと、私はカシ……」
 三秒ほどの沈黙。
「カシスオレンジかな」
 酒を頼むのすら慣れてない様子。カシス系の酒の種類にまごついているようだった。ため息が出そうになるのを抑え、店員を呼ぶ。アプリレビューとかいう案件がなければこんなこともしないのだが。脚色をつけて面白おかしく、少し下品な表現を交えて書けばマッチングアプリすら試せないような読者層には読まれるだろう。

 昨晩の面白くない記事の下書きを保存してから、マッチングアプリ上で「トワ子」と書かれたプロフィールのブロックボタンをタップする。
 惰性で流れてくる女の子のプロフィールを眺めていると、一人、気になる人物がいた。スラリと伸びた黒髪、大人っぽいバーのような場所で撮られた横顔の写真。趣味の欄にはお酒と旅行。こういう女の方がよっぽどいい。純粋無垢を演じる、又は自分の経験の無さを武器にする人間よりも、自分の強みを分かっている女の方が魅力的だ。知的そうな雰囲気と暗めのファッションに、下半身に熱が籠った。
 そしてもう一つ、他のプロフィールと異なる部分があった。その女は「秘密の窓」が最初から一つ空いた状態でプロフィールを載せていた。マッチングアプリでは女性利用者の方が優遇される傾向にあるからか、特別な仕様らしかった。
 少し期待感をもって、その窓の中身を覗く。
「母属性アリ」
 書かれていたのはその五文字。スマホから少し距離を取って、身構える。何か裏があるのではないか。この女、少しこのアプリを使っている年齢層からしてみれば、四、五歳ほど上の年齢が基本プロフィールに記載されている。あの五文字は、「大人っぽい雰囲気でリードしてくれます」とかいった、風俗店で見るような嬢の紹介文みたいなものだろう。
 もう一つ窓を開けてみたい。そう思った。先日の退屈な一晩の所為か、好奇心が湧き出ていた。すぐさまプロフィール欄にあるハートボタンをタップして、メッセージを送れるよう相手からの承認を待つことにした。
 ものの数分でその承認はやってきた。舞い上がりそうになる気持ちを抑え、当たり障りのない挨拶文と、直近で空いている日程の提案をする。そして新しく秘密の窓を開ける事ができるようになっていた。
「包容力比類ナシ」
 巨大クッションかぬいぐるみのキャッチコピーかと感じたが、あれらは包容力と言っても人の温かみがない。であれば。一つ前に開けた窓の文言と合わせれば、相当なものがあると期待していい。こういうのは飲食店の評価サイトと同じように、本人が言っているものと差があれば大きくバッシングされる。ここまで堂々と言い切れる、そしてこのアカウントの閲覧数を考えてみるに、嘘ではないらしい。
「メッセージ、ありがとうございます。来週の金曜日であれば夜、空いています」
 ポロン、とスマホが胸の高鳴りと受信の合図を放つ。
 少々形式ばった文章だったが、まあこんなものだろう。そんなことよりも、金曜の夜という提案に、奥歯に力が入った。
 すぐさま返信として、待ち合わせる駅と飲食店の情報、時間を送信する。相手の既読マークを待ってから、スマホをベッドに置いた。時計を見るとまだ午前中だった。身体を動かしたい気分になったので、なにか腹に入れるついでに散歩することにした。

 金曜夜の池袋はいつも以上に人がごった返していた。人口のせいで温度が上がっており、扇子や小型扇風機でどうにか涼もうとしているものがちらほらと見える。
 五分前に到着したので、「ダブル」のメッセージ欄を開き、到着した旨を伝える。昼過ぎに美容院にも行ったし、クリーニングに出していたジャケットを下ろした。界隈で話題の香水もなんとなく匂いがする程度の量を吹きかけていた。
 それだけの準備をして少し緊張している自分に違和感があったが、今考えるべきことではなかった。
 来た。一目でわかった。あのプロフィール写真と寸分違わぬ女が現れた。黒髪も駅の電灯に反射しててらてらと艶めかしく、スタイルも周りの他の女と待ち合わせしているであろう男どもが眼で追ってしまう程だった。
「聖さんですね?」
 ひじり、それが彼女のアカウント名。
「どうも、今日はよろしくお願いしますね」
 高すぎず、低すぎない耳に心地よい声。女を選ぶ基準として声色というのは大事な要素の一つで、喋っていても苦にならず、放つ言葉の一つ一つが脳に刻まれる。そんな声色をしていた。
「じゃ、行きましょか」
 はい、彼女は微笑んだ。思わず口がひしゃげそうになるのを堪え、予約している店へ案内する。
 少し薄暗い店内に、耳に入ってくるかギリギリのラインの店内BGM。顎鬚を蓄えたバーテンダーが、こんばんは、と低くも通る声で出迎えた。予約している旨を伝え、席に通される。
「じゃあ、スパークリングワインを」
 メニューも見ずに彼女は店員に告げた。追うようにしてジントニックを注文する。
「カウンターになっちゃってごめんね」
 できればソファのようなゆったりとした椅子へ座らせるべきなのだが、カウンターで飲む姿を見たい欲が勝ったことへの詫びを伝える。
「大丈夫、私こういうお店すきだから」
 ふう、と胸をなでおろす。二度目の笑みには耐えることができた。黒のワンピースが店内に溶け込むように彼女を映す。どこのブランドか分からなかったが、彼女にしか着こなせないような雰囲気があった。
 チン、と二人のグラス同士が音を奏でる。スパークリングワインとジントニックの透き通った炭酸が、やけに幻想的に見えた。
 一時間程飲みながら他愛もない話をした。趣味、仕事、今ハマっているもの。毎回この相手を探る時間というのは、ため息が出るほどつまらないと感じていたが、彼女はやけに楽しそうに、しかも上手く話すのであっという間に良い雰囲気になった。三杯目のグラスがお互いに空になったころ、お手洗いに、と彼女は席を立った。トイレの扉が閉まったのを確認してから定員を呼び、カードを渡して会計を済ませる。そして口直しの水を頼んでおく。
「次のお店いきましょうか」
 お待たせしました、と告げる彼女にそう返答する。財布を出そうとしたので手で済ませてあることを伝えると、嬉しそうに軽くお辞儀をした。
 
 キャッチと騒がしい大学生の声にまみれながら、歩く。次の場所はどうしようかとあたりを睨みながら歩いていると、彼女にジャケットの裾を掴まれた。
「沢山しゃべって疲れちゃったので……」
 皆まで言わなくても分かる、それはそういうサイン。こういった誘い文句を言ってくる女は何度も見てきたが、彼女は自然で、綺麗に、そして興奮させる言い方だった。
 如何にも高そうな装飾のホテルではなく、綺麗でシンプルな物静かなデザインの所にした。ルームキーについているストラップもスタイリッシュなアレンジがしてあった。
 シャワーを浴びて、ベッドに入る。彼女はキスも愛撫も包み込むような優しさと独占力を持っていて、こちらも今までの経験を総動員して、彼女の弱い所を探る。店では聞くことのないであろう甘い声が漏れる。ふふっ、と照れ臭そうに彼女は笑った。もう初めてほしいようだった。
 邪魔のいない二人だけの空間で、欲望が奏でられる。呼吸が荒くなり、鼓動は血液の流れを早くした。彼女は耳元でささやいた。それは短くも男を堕とすには十分な言葉たちだった。しっかりと脳に刻まれ、その快楽の傷は体に伝播する。溶け合うように交わり、この時間を惜しむようにお互いは果てた。二人で入ったシャワールームは思ったよりスペースがあった。もう下手な言葉は必要なかった。外が青のグラデーションを掛けだした頃、ようやく眠りに入った。今までで一番気持ちのいい睡眠だった。人間の二大欲求を満たした後の睡眠は何ものにも代えがたい気持ちよさがあった。
 目を覚ますと、午前十時を過ぎる頃合いだった。横で寝ていた筈の彼女の姿は其処になかった。財布や持ち物を確認したが、この場から無くなっていたものは彼女だけだった。「ダブル」を起動し、メッセージ欄を開く。彼女のアカウントからブロックされている旨の情報を目で確認した。何故、如何して、もう一度、が頭の中を螺旋する。
 何もする気が起きなかった。そのホテルでもう一泊することにして、ルームサービスに食事を頼む。味がしなかった。無駄に広くなったベッドでもう一度彼女のアカウントを確認する。すると、最後の秘密の窓が開けるようになっていた。キャッシュカードから預金が引き落とされる通知が来て、その扉は開いた。
「——」
 
 私は今も、彼女の影を探し続けている。

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