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【短編小説】ランタンノアノ日

                                                              
             今秦 楽子




真っ赤な提灯がアーケードの天井となって

その幻想的なひかりたちが
         わたしたちを包みこむ。






何度目だろう。
こうして特急かもめに揺られることは。

もう新幹線の乗り場や乗り継ぎの通路にも
迷いなく足の向くままにわたしは身を移した。
まるですごろくの駒になって
地図の上を移動しているように。

ただただ身体を車両に委ねて。
車窓からは田畑が流れ飛び、
永遠の地平線となって海原が目の前を
碧く染める。
この碧の世界が何もかもの時空を変える。
もうあの街にわたしはいない。
トンネルを抜けると急にまちが溢れる。
斜面に不規則に並べられた家々、坂のまち、
長崎。
彼の待つ長崎に、今日も降り立った。

彼はふた月ぶりの挨拶を交わし
そのままわたしを抱きしめる。
そばにいられなかった日々を埋めるように。
抱擁が終わると駅前の駐車場で
チョコレート色をしたラパンに乗り込む。
道の狭いこの町には小回りの効くこの車が
よく似合う。

当たり前に助手席のシートベルトをかけ、
風を受けるのに窓を開ける。
いつもの家路を眺める。
いにしえに根付いた西洋建築も入り混じった
建物たちを抜け古いアパートへやってきた。
ここがわたしたちのアジト。

♢1

「乾杯!」

彼は塩コショウのかかった舌肉の薄切りを
世話しながら、絶妙な焼き加減で
レモン汁の待つ小皿へ置いた。
歯応えを感じながら
頬張った肉の塊とその脂を喉に送って、
ビールが追っかけた。

「長崎にきたらまずここよね」

「普通はちゃんぽんとか、
皿うどんとかいうんだけどな」

「わたしにとっては
ここのお肉が最高なんだから」

わたしたちのアジトの一階には
和牛を食べさせる、
庶民的な焼肉屋の軒先が佇んでいる。
いわゆる名店ではないけれど、
良心的な価格で、良質な肉を、
満足いくまで食べさせてくれるこの店。
わたしのベスト5に入る料理屋なのだ。

「明日は浜町でしょ、
それから帰るまでには美術館もマストね」

「わかった。わかった。まずは仕事の話から進めないと。観光はおいおいだよ。
今夜はとりあえず食べて飲もう」

次にロースやハラミを焼きにかかる彼は、
しっかりと肉の世話を始めた。
無制限に何の心配もなく飲み食いできる
この店は長崎に降り立ったことを感じさせる
発着所のような場所。束の間の安息地。
これから始まるドキドキワクワクを待って。

♢2

アジトには3人がけのソファーと
ワークスペース、
そして相棒のポメラニアンが鎮座している。人懐っこいキングはドアを開けた瞬間から
わたしに擦り寄る。
尻尾を左右に振り切って。
奥にはセミダブルのベッドとクローゼットと
本棚が。この部屋に荷物を広げわたしは
MacBookだけを
ワークスペースの隙間へ置いた。
ひとりと一匹で住むには
ちょうどいいこのアジトには
秘密の匂いが燻る。

「ごめんグラスと氷をお願い」

ウィスキーとウィルキンソンを
両手にした彼は、まだまだ酔い始めと
言ったところ、これからの作戦について
少しだけ話したいのだと、
渡したグラスに濃いめのハイボールを
作りはじめた。
ふたりの秘密会議は彼の大きな身振りを
久しぶりに眺めながら夜な夜なへと続く。

「ひとまずシャワー借りるね」
「相変わらず水圧高いから……気をつけて」

なぜかこのアジトの水栓は多量の水が
出てくる。その調整もまた懐いな、
とわたしは今日の汗と酒で火照った熱気を
かけ流した。
もうここまで来てしまったのだと
思いながら。

♢3

少しダボつく彼のTシャツに袖を通し、
その一枚だけまとってベッドに潜り込む。「この匂いだ」 
彼の香りがシーツに残っている。

制汗剤にあるような爽やかな香りと
人の温もりを連想させるような
優しい甘い香り。
男にしては汗臭くもない不思議な匂いは、LINEやzoomでは感じられない。

そしてようやく近づけた達成感をそれが
わたしに運んでくる。

「先に寝てていいよ、俺もシャワー浴びてくるわ」

「うん」

強く打ち付けるシャワーの音を
微かに聞きながら、まぶたを閉じる。

あんなに遠くからやってきたのに、
あれだけ電車に揺られたのに
眠りにつけない。

彼の匂いがそうさせる。
眠れない香りに包まれながら、
髪を乾かす音が聞こえはじめた。
寝たふりをしながら気配を待つ。

音が止み彼はベッドに腰掛けた。
キングも足元で一緒に眠る気で
テクテクと短い歩幅を鳴らしている。

「今日は疲れたね」
と髪をひとなでし彼は囁いた。

「眠れそうになくて」

彼はうなずきながら、髪を、顔を、優しく撫でる。

「この人の胸で眠れる」 高鳴る鼓動を
鎮めつつ更けゆく夜に身をまかせた。
白い下弦の月あかりが窓の形を浮かべる中で。

♢4

「パンでいい?」

「あ、おはよう。うん、パン食べる」

キッチンから淹れたてのコーヒーの匂い
とともに朝食がやってた。
ベッドで食べる朝食はいつも早く起きる彼が
調える。
バターが塗られた厚めのトーストからも
小麦のかぐわしい湯気のかおり。
サラダやウィンナー、
サニーサイドと彼が呼ぶその目玉焼きは
黄身の半熟度がちょうどいい、
完璧なモーニングセット。

コーヒーの熱を息で逃してひと口味わう。

「今日は浜町ね、
あの鯨の民芸品店また見に行きたいな」

「なつかしいな、
また営業トークの餌食になるけど大丈夫?」

「あとは……」

「店主のいない骨董品屋!」 声が揃った。

サニーサイドのとろけた黄身を
トーストでぬぐいながら口へと運ぶ。
この朝の穏やかな時間が長崎に来て
一番安堵する時間なのかもしれない。
食事がすむと愛犬用のご飯を
キングの食器へ注ぐ。

キングはわたしの目を注視し「よし」 
の言葉を待っている。
キングが朝ご飯をはじめたので、
食器を片付け出かける支度をする。

アジトから約10分ほどで
路面電車の停留場に出る。
車を出すよ、と言ってくれた彼を
さえぎって、今日は荷物も少ないから、
と風情のある路面電車を
お出掛けの足にした。

♢5

「朝の眼鏡橋はきもちいね」

「この時間帯にはあまり来ないけれど
光がいいね」

曇天の多い長崎だけれど、めずらしく雲が
少ない。
青空の光を受けた水面には
ギョロリとしたメガネが出来上がっていた。その近くの護岸に埋め込まれた
ハートをわたしは指差す。

「ここからだと探すのが大変だけれど、
もうわかっちゃった。あそこだよ、あった」

「見つけるのが早いね、眼鏡橋には歴史が
あって江戸時代に造られたんだよ。
このアーチ型の石橋は、
日本で初めて造られたものなんだ」

「え、江戸時代にハート型の石を
埋め込んだのかな」

「あ、あれは違うよ、
ハートの石は最近になってから、
災害が何かがあった時に平和の祈りを込めて
埋め込んだんだとか聞いたな」

急な石段を降り、護岸に近づく。
そしていつものようにその石を撫でた。
あたりはまだ人影がちらほらあるほど、そして眼鏡橋にもハートの石にも
誰も近くにはいなかった。
彼はいつもの儀式を行った。

♢6

眼鏡橋から少し歩いたところに、
ガラクタともお宝ともとれる骨董品を
乱雑に並べた店がある。
浜町にくるたび何かしらないかと
漁りにくるのがわたしたちの習慣となった。
いつも通り店主は不在。
奥のほうで時々電話をしている声も
きかれる。

「この花瓶どう?」

「そうね、花を選びそう。なかなか花より華やかな花瓶ってむずかしいのよ」

「でも4500円だって」

「何? 投資目的なの?」

店内の骨董をみてはセンスがあるだの
ないだのといつものがはじまった。
ひとしきり堪能して、
彼は奥の店主を呼び出した。

「こんにちは。これなんですけど……」

「ああ、ちょっと待ってください」

彼が手渡した紙を
メガネを外して店主は確かめる。
いったん奥に引っ込んでからカラシ色した
風呂敷づつみを持ち出してきた。

彼と店主とわたしでヒソヒソ小声で約束事を
確認し、その店を後にした。

「ちょっと荷物になったけれど」

「それぐらい大丈夫よ」

大体A4ぐらいあろうかというその荷物は
さほど邪魔に思わなかった。

アーケードへ続く商店は、雑貨や趣味の店、
スウィーツ店なんかが並んでいる。
久しぶりに通るこの道は
あちこちに目が行くけれど、
彼だけはまっすぐ前を見据えて
凛と歩いていた。

♢7

気になった雑貨店を覗いてみたり、
センスのいい本を並べている古書店で
ピンとくる本を探してみたり、
わたしだけがはしゃいでいた。

「ここまっすぐでよかったね」

「そうそう。まっすぐ行って」

「くじらの歯でできたイルカのピアス! 
やっぱり買っちゃおうかな」

「気に入ってるね、『くじらの歯でできた
イルカのピアス』 
ただ言いたいだけでしょ?」

そんな冗談を言いながら進んでゆくと
お目当ての民芸品店にたどり着いた。
古くから長崎は捕鯨の町だった。
今でも調査捕鯨を行なっており
鯨とは深い仲。商店街に急に現れる
鯨カツの店はテイクアウトで
竜田揚げなんかを販売している。

なんていう話はこの店に来ると
毎回聞かされる。
おしゃべり好きな店員は今日も笑顔で
擦り寄ってきた。

「いらっしゃいませ、これ全部、
鯨の歯で作っているんですよ。
長崎は捕鯨のまちで……」

一通り捕鯨の説明を受ける。
いつもここに来ては
初めて入った観光客のふりをして、
このお姉さんのお話を聞く。
快活でトーンが高い彼女の声は
同じ話でも聞き入ってしまうのだ。

「かわいい! 見て! イルカの形のピアス
あるよ。でもくじらの骨なんよね」

「面白いでしょ、
鯨は回遊するのでまた同じところへ
戻ってくると言われてるんですね、
それでこういった鯨の歯のモチーフは
『必ず戻ってくる』 
なんて言われていてお守りにされています。
キーホルダーに鍵をつけてもいいですよね」

わたしは今回こそと、
イルカの形をしたピアスを購入した。

「それとこれなんですけれど」

彼が店員に先ほどの骨董品屋で見せた
同じ紙を渡した。

「あ、はいはい……、
包装は一緒でいいですか」

「お願いします」

わたしがはしゃいで買ったピアスと一緒に名刺のようなカードが包装された。

「俺が預かっておくね」

それを大事に彼は自分の鞄へ押し込めた。


♢8

ゆっくり流れる軒先を目で追いつつ、
いつもと変わらない
その佇まいに安心しながら、
気がつくとアーケードが終わってしまった。

「お腹空かない? 
いつものチャンポンいく?」

彼の言葉に時計を見るとお昼時だった。
時が流れるのを早く感じる。
アーケードを出て
思案橋の方角に歩いていくと、
昔ながらの中華屋さんがオレンジ色の看板を
出していた。

ここのチャンポンは海鮮の香豊かなスープで
自宅では真似のできない逸品。
彼が長崎きたらここでしょ? 
と譲らない店だった。

「チャンポン2つ、それと瓶ビール、
コップ2つで」

店は昼どきとあって、満席に近かったが、
4人がけのテーブルに通される。
彼は大事そうに荷物を奥の席へおいた。
ビールを酌み交わしとりあえずの昼のみが
スタートした。

「家に帰るまでは酔っぱらえないからね」 

彼がいう。

さすが中華店、あっという間にチャンポンも
テーブルに並ぶ。
白濁したスープは濃厚な光沢をみせ、
鮮やかな桃色のナルトが散っている。
一口すすると海鮮のだしが鼻腔をくすぶる。長崎の味。
いつも食べてから
彼の譲れない理由を思い出すのだ。

具だくさんのその皿は平らげることが労働
のように、寡黙に食べ進める。
「温かいうち」 
を堪能した彼とわたしは完食した。
休憩もそこそこに、
大通りに出てタクシーを拾う。
そろそろキングも退屈したころ、
アジトに向かった。


♢9

「観光はおしまい、仕事を始めようか」

「はい。社長、わかりました」

アジトに戻ったわたしたちは
ワークスペースに身をおいた。
わたしたちはビジネスパートナーでもある。
その職種は……  カイトウ ウケオイギョウ。
怪盗請負業である。

ソファー前のローテーブルには
先ほどの風呂敷とピアスと同包したカードが
並んだ。

「いよいよ決行ね」

「今回は県美術館のピカソの静物画。
昨日の夜も話したとおり、
決行は明後日の日曜日」

「はい」

わたしたちはこの案件のために
6ヶ月前から準備をしてきた。
わたしは大阪で
大手警備会社に在籍している。
身元を偽って。
システム部門で情報管理に携わり
彼とは10年前から「怪盗」を組んできた。

彼は依頼があるごとに単身で潜入している。
今回はこの依頼のため長崎に潜伏していた。

♢10


思いおこせば2ヶ月前、
わたしたちは春節を迎えるこの長崎のまちで
ランタンからの光を見つめていた。
この計画が着々と進行していたとき。
願いのこもったピンクや、黄色、真っ赤な
ランタンたちを見上げながら彼と歩いた。
彼と肩を寄せる喜びとともに、
長崎で行われる計画を
ドキドキしながら想像していた。

彼からおもむろに白い手袋を渡される。
ローテブルに置かれた風呂敷包みを
そっと開く。
中から顔を出した額縁を覗き込む。
茶褐色をベースにした
暖色の彩りが施された絵画。

かつてピカソが描いた静物画の贋作が
横たわっている。
2ヶ月前の下見の時に
美術館で鑑賞したものと遜色ない。

それよりも「ピカソらしい」印象の
静物画が目の前にあった。

「これね」

「明後日、これをすり替える、
いつもと同じ手はずで着手するよ」

「わかりました。社長」

 わたしはいろんな角度からこの贋作を
上から、横から、斜めから
まじまじ見定める。

「本当によくできてるね」

「そりゃ、
あの骨董品屋の主人の手にかかれば
画家より画家らしい作品ができるんだよ」

今回も依頼者は匿名。
長崎での指示は
観光客が絶えない眼鏡橋の護岸の石垣で
やりとりしている。

そう、
ハートの石を目印に左下あたりの石と石の
隙間にいつも指示書が置かれていた。

♢11

「はい、コーヒー」

 キングがくつろぐワークスペース。
熱いコーヒを2つ両手に持った彼と
ソファーへ腰かけた。

「ありがとう、さっそく取り掛かるわ」

ローテーブルにマグカップを置くと、
わたしはMacBookにスキマーを接続した。

「はい、これ」

彼から手渡されたのはイルカのピアスと
スキミング用の磁気カード。
これで会社のネットワークに侵入する。
あらかじめ録画されている
画像をチェックした。

「この画像、使えるわね。
これでいきましょう」

MacBookを覗き込む彼の目には
県美術館に飾られたピカソの静止画と
それを見物する客が映り込んでいる。
指示書どおり、
今回の怪盗もこの画像データを
当日の決行日、
監視カメラ画像とすり替えながら
本物をもすり替えるという
いつもの手順だった。

日中堂々と怪盗を行う、
これがわたしと彼の犯行計画であった。


♢12

あっという間に時計は午後4時を指した。

「今日はわたしが作るわ、
スーパー行ってくるね。
お酒はなにがいい?」

「ん、ありがと。
ちょっとこっちの作業、
済ましておきたいからお願いしていいかな」

「わかった、
帰ったらちょっと歩こうね、キング」

玄関を出ると外はすこし肌寒く、
けれど傾いた陽は強くさしていた。

10分ほど歩くとそこにあるスーパーは
地元のものをたくさん並べていた。

春キャベツにアスパラガスは青々しく、
今日取れたばかりの広告が目立っていた。
新じゃがを手にとって
無造作にカゴに放り込む。

このスーパーに来ると
人の営みを感じることができる。
野菜の数だけ目に見える生産者が
存在していて。
均一ではない野菜たちはその生産者の個性を
称えている。
安くて新鮮で種類が豊富で。
お気に入りの空間でもあった。

「アスパラの肉巻きだな」

メインが決まったので、
付け合わせになるものを探しはじめた。
チーズやワインもカゴに入れて
バケットもさす。

玄関に買ってきたものを一旦、
置いてそのあしでキングを連れ出した。
小さな歩幅に合わせて、
彼のお気に入りの緑地へ歩んでいく。
もうこの地も明後日でサヨナラなんだ。と
かみしめながら。

川にかかる橋、見まもる山、
山にそうように建つ家々。
この景色を目一杯こころの中に写す。

「ただいま」

夕飯の支度にとりかかる。


♢13

アジトから歩いて橋を渡ると
そこには、
大きく鎮座する普賢山とわたしたちが呼ぶ、
「秘密の森」がある。

わたしたちは翌朝、
そこに足を向けて歩み出した。
歩幅の異なるキングには
幾分むずかしいけものみちなので、
ここでも
小さな番犬は家を守ることになった。

鳥居をくぐりすこし行くと、
普賢菩薩さまが象に乗って奉っている。
気持ちばかりの賽銭投げ、
備えつけのろうそくに火をともす。
無人販売されている線香を供える。

この旅の武運と、
今回のミッション達成を祈願する。
いつもこの地で祈願する。
菩薩は偶然にも彼の守神さまで。

祈念したわたしたちは、
ほこらを後にズンズンと歩みを進める。
この森に続く道、
途中までは墓所への参道となっている。
そのため、多少狭いものの、
小さな車も通りぬけることができ、
墓地周辺には4台ほどの駐車スペースが
設けられている。

墓地をぬけ、
アスファルトの道に分岐された
やま土からなるけものみちにさしかかった。
無造作に衣類を一枚脱ぎ、
彼のナップサックへ放り込んだ。

「いつも、ありがとうね、
やっぱり動くと暑いわ」

「はい、これ」

彼はナップザックの底から
ミネラルウォーターを探り出し
わたしに差し出した。
あまり冷えていない常温の水は
心地よく喉を通り過ぎる。
この先に小さくある、まだ見ぬ景色を隠した
蒼青しい緑葉のトンネルの穴が
ようやく見えた。

トンネルを抜けると
空のあおと海のあおの境界に白んだ遠くの島
が浮かぶ光景が目に入ってきた。
ここは誰も知らないわたしたちだけの世界。
ほとんど足を踏み入れられていない
道なき道をとおって、
奇跡的に到達した秘密の森。

「地平線までとおる陽の光は、
あさひのみちだね」

「ロマンティックなこと言って」

「ほんと、この景色にあうのも
最後だと思うと感慨深いよ」

「ここはお気に入りの場所だったものね」

鳥たちの声も、
羽ばたく羽音も、
海から運ばれる風の音も。
すべてこの地の思い出。
空をあおいで
新鮮な空気を胸いっぱい取り込んだ。

それからのわたしたちは夜ふけまで、
翌日に迫るミッションにむけた作業に
没頭した。


♢14

県美術館、晴天。
入り口に立つわたしと彼。

「じゃ、打ち合わせどおり」

「うん」

受付にふたり並んで進む。

「常設展、大人二枚で」

渡されたチケットとパンフレットを手に
二階の展示場へと階段をのぼった。
お目当てのピカソは
人気の企画展には並んでいない。

こちらの常設展に置かれている。
日曜日にかかわらず
人もまばらなその展示室には、
予想通りわたしたちと美術館スタッフひとり
という好条件が並んでいた。

迷路のように入り組んだ廊を飾る絵画たち。
ひとつひとつ味わいながら進んでいく。
あくまでも美術を鑑賞しにきた客として
わたしたちは振る舞っていた。

下見でわかっていながらも
近づくピカソの絵画に鼓動を大きくして。
次の展示室に行く前に彼と合図した。

「じゃ、俺は行ってくるよ」

彼は、
携帯を手に出口の方へ早足で歩き去った。

美術館に設置されたカフェで
彼は彼の仕事をする。
まず、
これから防犯カメラに録画される映像を、
差し替える。
アジトで決めたあの映像。
人の気配もさほど変わらなかった。
そしてあらかじめわたしが細工した、
警備システムへ進入してもらう。

時間にして、5分ほど。
この間の通信は緊急事態でない限り
使わない。

ということで
彼の移動と操作、合わせて10分後に
わたしは怪盗をやってのけるのだ。

時計を見計らいながらピカソに近づく。
遠目にわかるその絵画は、
今日も凛と佇んでいた。
全く見てまわってもらえない客をよそに。
今日もそこに凛と。

監視スタッフの目を伺う。
この展示室には
ピカソ以外にも多数展示されている。
そしてこの静物画は運良くスタッフからは
離れた場所に並べられていた。

いよいよ近づく、およそ彼と別れて
10分が経とうとしていた、
その時。

あらかじめ
薄手のゴム手袋をかけたわたしは、
トートバックから不意に差し替え用の絵画を
右手に、左手にはピカソの静止画を、
1秒もしない間に置きかえた。

その間、館内には無音が漂った。

彼がカフェで卒なく作業に徹していてくれていたようだ。

トートバッグにピカソを携え、
わたしはのこった任務を遂行する。
そのままなにもなかったように
残された絵画を堪能し出口へ向かった。


美術館を後に
路面電車の乗り場まで彼と歩く。

「ちょっと、停車場までは遠いけど、
この方が安全だから」

「ううん、仕事の終わった空気は最高、
こうやって歩けるのも最高よ」

出島の海が今日もなにもなかったように
潮風を運んでくる。


♢15

「とりあえず準備してまってるね」

「うん、こっちのことが片付いたら
連絡するよ」

わたしは見送りの彼と
長崎駅で特急かもめを待っていた。

「この坂の町も来ることない、さよなら」 

指定席に着席し、見送る彼に手を振りながら
心の中でつぶやく。
町並みが流れはじめる、
山の中の坂に埋もれる家々、
異国の情緒を残す町たち。
ゆっくり後ろへ後ろへ流れていく。
そして暗い長いトンネルに入った。

特急かもめはこの秋、新幹線になりかわる。
特急として走った車窓は
もう見ることはない。





               (了)

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