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おとうさんのグリーフケア


おとうさんのグリーフケア
              今秦 楽子


1月の月命日

今日は最初の月命日だ。
お父さんが逝って一ヶ月。

何もかも嫌だった一ヶ月だった。

衝動と鎮静とが激しかった。


在宅で緩和ケアしていたあの日
私は精神科病棟で身動きとれず、
孫を児童相談所から
出してあげることも叶わなかった。

なにもかもが悔やまれる。

ほんとうは最後まで辛かった
お父さんの足のむくみを
楽にしてあげたかった。
そのためにもむくみを取る講座も申し込んだ。
間に合わなかった。

お父さんが終わりに臨んだ時
私はシャワーを浴びていた。

お父さんの最期を台無しにしてはいけないと
ためらったから。
家族には会いたくなかった。
シャワーを浴びていた。

身支度も済ませ、
お父さんの元へ向かったとき。
幸いにも、母は看取った後
昼食へ出てってた。

臨時の安置病室で、ふたり対面した。
戦い終わった戦士にねぎらいをかけた。
丁寧にエンジェルケアが施され
半眼の顔はまるで仏だった。

まだぬくもりが伝わった。
それだけでも救い。

かなしいかな
組まれた手には私と娘の写っていない、
姉たちの家族写真が抱き抱えられていた。
喜寿の写真。
持った花が重たいと言ったらしい。

考えの相違。
姉たちは最後まで、動けるだろうと鞭打った。
わたしはゆっくりさせてあげたらと助言した。
そんな助言、介護しない余所者の戯言。

とにかく動いて、動かして、
世話しなくても良い環境を姉は作っていた。
お父さんも、鼓舞して動ける身体を
自覚したかったのかもしれない。

いまはそう思う。

お父さんは入院して4日で死んだ。
癌にしてはピンピンコロリだ。

もしかしたらわたしの提案で
在宅看取りをしていたら
トコに根付いていたかもしれない。

自宅から近くの式典場だったので
安置された部屋でサシで飲んだ。
めいいっぱい線香をあげた。

2日目は泊まりこんだ。
誰もいない大きな空間に
ひとり安置される
お父さんを見ていられなかった。

離れた部屋で丑三つ時に金縛りに遭う。
寂しかったのだろうか、
ろうそくを灯し線香を焚く。

ドアを開けてなんとか一眠りできた。

あけて通夜は賑やかな姉一家が
どさっとやってきた。

歯痒かった。


通夜前の納棺の際、お父さんの身体を洗った。
つらかった浮腫んだ下肢は
訪問で麻痺した下肢をあつかうごとく
とても重たかった。

丁寧に洗う

陰部も臀部もまあまあけがれていた。
シャボンでキレイにした。
これで旅立てる。

通夜も告別式も中途退席した。
それほどまで父が好きだった。
さいごまで滞りなく終われるためには
必要だった。
最後までいたら取り乱してただろう。


年末の流行病のほんの束の間の、
平穏な世の中でお父さんは旅立った。


そのまま、わたしは新幹線に乗った。
衝動的に。



2月の月命日

2回目の月命日。
お母さんと葬られた寺にまいる。
お母さんからはアドレナリンが出ていた。

2週前、
この寺に小さくなったお父さんを
母と納めにきた。
お父さんは小さな壷に入り、
簡素なバッグに入っていた。

この寺は宗派問わず納めた骨で練造し
仏像を造立、供養している。
そのため骨壷の大きさは直径9×11cm
お父さんは最小限になっていた。

お父さんはいろんな方々の骨と合わさって
仏像になるらしい。

骨拾いに参加しなかったわたしに
残った骨はちゃんと供養されたと
お母さんが呟いた。

そしてお母さんもここでいいと話した。
お父さんが好きだったものを食べよう。
たくさん食べ飲みして、
なんでもお母さんに打ち明けた。

それから2週間、
わたしは何もかもから放たれていた。
最低限、
食べる、寝る、清潔にする生活。

はじめ10日ほどは彼の元へ身を寄せた。
長崎では何もできなかった。
彼は「何もしない」をしているんだ
と言ってくれた。

長崎での春節で改めて新年を祝った。
それをしなくては何も始まらい気がした。
そんな気がした。

春節に触れ、
地元の神社を訪れても
年が明けたと言う実感はない。

この月命日までの時間はいたずらに
わたしを虚と無の世界においた。

まだ仕事ができるかわからない。
やれと言われればするのだが、
精神衛生上良くない気がする。

再開したたリンパの講座も2度出席した。
これもピンと来なかった。
何がしたくて何がしたくないのか
よくわからない。

そんな月命日。
お母さんはフィットネス帰りに
立ち寄ると言った。
それを咎めるでもなし受け入れた。
よくなかった。

アドレナリンが出ているお母さんとは
納骨の日にできたような話ができなかった。
全て否定的な返事しか返ってこず
正気もない上、話す気も失せた。

どんな状況でもなるべく月命日には
この寺に参るとお母さんは言う。
アドレナリンのある日とない日。

なるべくなら、ない日にお父さんの事を
集中して話せたら……ありがたいな、

この週末には娘がパパの元へ養育されにいく。
そんな辛さもお父さんやお母さんと
分かち合えたなら
この苦しみが減ることはあっただろうか。
儚さしかない。

もう新幹線に飛び乗るほどの衝動は
今の私にはない。



3月の月命日

あっという間に3ヶ月。
お父さんが逝って新しい季節を
迎えようとしている。

今日もおかあさんと骨仏堂に参る。

おかあさんはアドレナリンがありつつ
まだ穏やかだった。

先日ガンを見つけてくれた先生に
礼を言いに行ったらしい。

わたしは肯定していない話。

抗癌剤などの諦めきれなかった治療。
大きな病院での治療は甲斐があった、
と医者からの見解がもらえたよう。

これがなければ命は早かっただろうと。
母は判断が間違っていなかった
と言いたげだった。


そんな話は受け流した。

命の速さなんかどうでもいい。
当人が命の長きを受け入れ、
かつ安楽に最後を迎えられたかが
寿命の全うだと思う。

わたしはそれを重要視したいけれど。

これを言い始めると口論になりそうなので
受け流した。

母親の最後は携わらないと決めている。
だからこうして欲しい、ああして欲しい、
な話はすべて「知らん」と、受け流した。

今日は落ち着いた日本酒のお店で
お惣菜をアテにビールで乾杯した。


母はパパのもとに行った孫の行く末を
案じてくれていた。

ありがたいのだが、くどかった。

それ、あたしの方が我慢していること。
という一方的な考えの押し付けに辟易した。

とにかく会いたいらしい。
とにかく聞きたいらしい。

デリカシーのないその一方的な自己満足に
立腹した。

わたしも母も、
娘が一番助けて欲しい時に
助けきれなかったのだ。
そういう天命だった。としか今は思えない。

今、やっと娘はパパという船にありつけて、
これからの航海の後半戦を
どう渡って行くかもわからない時期なのに。

息を飲んでその行きつく先を
見守ることはできないのかと母に説いた。

ソメイヨシノじゃない桜が咲いていた。
春が来ている。

学校に去年から行けていなかった娘。
転校と言う形で
新しい学校に向かおうとしている。

誰も頼る友はいない。
前は友がいても頼れなかった、頼らなかった。

新しい親たちとの新生活に慣れることも
学校の校門をくぐることも
毎日登校できることも
遅れた勉強を取り戻すことも

彼女のこれからの課題は険しいものと思う。

そんな彼女を一緒に見守ろうと、
母と約束した。
わたしたちができることは明るい未来を
願うこと。
そして待ってあげること。

どう、転ぼうが、近い未来、頑張ったねと
ねぎらってあげることが
私たちに出来ることなんだと示し合わせた。

わたしはまた新幹線に向かう。
今度はわたしの新しい物語のために。


百か日

今日でお父さんが死んで100日。
「あっという間だった」と言う母。

うなずけなかったわたしがいた。

ここまで来たのか。
ここまで来れたのか。
そう考えていた。
何をしたでもなく苦しかった。そして苦しい。

日々、虚とたわむれ、
何かを蓄えしているわたし。
食事では摂れない、
具体的に何か分からない。
「時」を食いつぶしている。が適当だろうか。

お父さんが生き急いだ「時」を
たっぷり味わっている。
こうなった今、
こんな虚な「時」なんて
いくらでもお裾分けできる。
なんていうぐらいたっぷりすぎる。

働いてもいいし、走ってもいい。
ただ一日一日が経つために
本を読んだり、動画を見たり。
そうやって「時」を喰いつぶしている。

今日も骨仏堂に手を合わせにゆく。
まだ10日前には固かった蕾も
満開の花となり、春を彩った門構えだった。

知らぬ間に桜は蕾をほころばせ開花している。
春に桜を見ない年があっても良いが、
そんな年はなかった。
この14年はそうだった。

お参りの後、母が映画に誘った。
助演が精神疾患の母から虐待を受け育った、
映画。
前準備もないこの出会い。痛くささる。

先週、元夫と話し合った。
今日はその書簡が届き、私は書類を整える。
娘が夫と住む為に必要な書類。

娘がわたしの元からできなかった登校を、
新しい家からチャレンジするための
住所の移動。

新しい学校楽しみにしているよ。
昼間は部屋で勉強しているよ。

本当にありがたく感謝だ。
それがなぜ私じゃないんだっていう悔しさが
まだ勝つ。
穏やかに過ごしたい。
早く穏やかな日に戻りたい。

新幹線に乗るタイミングに入れなかった。
新幹線が出口なのかわからないけれど、
向かうしかない。

葬式で娘とは最後の会話を交わした。
娘とも100日ほど会っていなかった。

4月の月命日

春がすぎた。
満開だった桜の樹々は息吹いている。
4月。
はじまりの季節。

今日の月命日は骨仏堂には参らなかった。

長崎で手を合わせる。
ここに父の面影をみる。
優しくもあり厳しいひとがここに居る。

あれは
そう、彼に会った初夏。
父が癌とわかった初夏。
わたしの支えが変わった瞬間だった初夏。
巡り合せとは。

彼の発するコトバには、
何か言い残した
父のコトバが含まれている気がする。
そんな強さを感じるから。

この何週間か、文章に向き合う。
綴ってきたコトバたちを噛みしめた。
咀嚼して嚥下した。
もう振り返らない、すすもう。

コレカラはさぐり探りだけれど、
前進しかない。
飛びたつ鳥のようにただ羽を広げて。
もう怖くない。

さくらは過ぎた、はじまりの季節。



5月の月命日

今日は、5回目の月命日。

梅雨の前ぶれのないさらりとした風の中。
気持ち肌寒い空気が流れていた。
今日も母と骨仏堂に参る。

もう、亡き父は仏だ。
異空間に漂う御霊を、
そんなに身近に感じなくなってきていた。
過去の人である。

ムスメに対してもしかり。
過去の人である。

そういう風に考えなければ歩み出せなかった。
そして歩んでいる。

環境が変わり始めた。

以前、
母にはこの地を離れる事、
ムスメは帰ってこない事、を伝えていた。
きょうは心なしコトバを交わさなかった。

まるでムスメがわたしを拒むように、
わたしも母にそれをした。

わたしが
ムスメにありのままを出してもらえないのは
わたしが
母にありのままを出せないからなのだ。

照れ臭さでもなく面倒くささが勝つ。
母からの詮索に疲れた。
きっと、ムスメへの詮索に
彼女も面倒くさくなったのだろう。
そんな気づきの一日。

わたしはゆっくり歩み始める、
明日、これからの居場所が見つかるだろう。

合掌。




6月の月命日

昨日は雨の月命日だった。
夏至、日の長さが一番長いきのうは
その長さがわからない1日中雨。

骨仏堂は閑散としていた。

母親とは距離が遠くなった。
まだわたしは母を許せていないのだと思う。
これから許せるのかもわからない。

父の話も少なくなり、
娘の進捗も特になくなった母子は
何も話すことがない。

淡々とお参りを済ませる。
こんなことで父は喜ぶのだろうか。

冬至の頃に父は逝った。
あんな寒かったのに。
もう夏が来る。
わたしは何をすべきなのか。

合掌。

7月の月命日

昨日は7回目の月命日。
長崎から祈る。
もう母とは骨仏堂に行くことはやめた。
そこに意味を見出すことができなくなったから。
母との関係が崩れたからだ。

先月の月命日に感じた、母を許せない感情。
そこに向き合い昇華できると、
思いを母にぶつけてみたのが2週間前。
母は態度を硬化した。

わたしがおかしなことを言いはじめたと
思ったのだろう。
穏やかに話し合いたかった。
今まで穏やかに話せない時は
間に父が入ってことが成り立った。
もう父はいない。
父の役割をわたしは果たせなかった。

慟哭の中、
もう月命日参りは行けないと告げたわたし。
後悔はない。
これでいいのかはわからないけれど
わたしなりの親離れ。

そしてわたしも娘から拒絶を味わい過ごしている。
許してもらえないみたいだ。
時間がそれを許すのだろうか。
道のりは長い。

セミが鳴いている。
朝はアブラゼミ、夕方にはひぐらしが。
父を亡くしたあの冬にこれから向かおうとしている。
するべきことは見つかりつつある。

今日も合掌。

 

8月の月命日


大阪にもどり初盆なのだと思いながら
供養にも参らず考えていた。
もう、骨仏堂へのお参りはなくていいのか。
ひとりででも参ろうか。

そんな考えを巡らせていると
昨日になって拒絶した母から誘いがあった。
後ろめたさもあったけれど、
やはり母との関係と父を偲ぶ心は別だという
結論に至った。

参道も、
お参りの後の食事の時も会話はない。
特段話すこともないからそれでいい。
父を偲べれば。
蒸し暑さの中、
骨仏堂への道のりは汗が溢れた。

父は今日もそこに眠る。
仏像になるべく練造されるのを
今日も眠って待っている。

母親からはやはり謝るといった行為は
なかった。
自分が正しかったのだと。
平行線だから話し合う事はないらしい。

もうすぐ娘の誕生日を迎える。
思い切って思いを綴ってみた。
娘には素直に謝ろうと思った。
直接ではないけれど、カードにしたためる。
思いが届くように。

今日も合掌。 

9月の月命日


今日は彼岸。涼しい中、
先祖の宗派の大本山、妙心寺へ参った。
いつもは
せわしなくお参りが済んでしまうけれど、
今日は、父親と先祖の供養に
写経を納経して、石庭を愛でる、
参道をあちこち歩く、
としっかりと堪能した。

石庭には陰陽の庭がある。
父と来たときに感動した庭だった。
物事には相反する二面があるけれども、
「どちらとも、ある」
と認めるだけなのだという理。
白黒はっきりしたがる性分は
無為であるのかもしれない。

こころ落ち着けた時間が余裕を生んで、
今日は母を許せる自分がいた。
私がしたいお参りだったのかもしれない。

さかのぼれば1月にもこの石庭に来ていた。
ここの庭を見て、
ムスメの養育を譲る決心をした事を
思い出す。

・あの時は揺れていた。
・今は落ち着いている。

その二つを今日は認めている。

合掌。


10月の月命日

昨日は月命日だった。
母親と骨仏堂へ参る。

けれど、もうわかっている。
この骨仏堂には父はいないことを。

さかのぼること1週間前、
友人を妙心寺に案内した。
その友人は不思議な力があるらしい。
父親からの言葉を伝えてくれた。

過去のことは気にしなくていいのだと。
庭に面する座敷に鎮座した父は
大黒さまや恵比寿さまのような顔を
しているらしい。
もう、父は自由にあちこち行ける立場。
そして
わたしの近くでいつも見ている。

死後の世界がどうなのかは
あまりよくわからないけれど、
もう父は
骨仏堂の地に縛られている存在ではないこと
を知った。

けれど母とは骨仏堂にまいる。
母は、そこに父がいると信じているから。

合掌。



11月の月命日


今日も骨仏堂に母と参る。
ろうそくの炎はあいかわらずよく燃えて。
もうここに来るのも残りわずか。

まだ父は骨仏にはなってはいない。
改めて建立された先人の骨仏を眺めてみる。
骨でできているのかよくわからなかった。

いつ父がこの骨仏になるのか
母に尋ねても呆れたことに即答できず、
父の存在はそんなものなんだろうと思った。
けれどその折には一緒に参ろうとも話した。

今日はそこに父がいる気がした。
それは空を埋めていた厚い雲が
参る時になった途端に晴れ渡ったからだ。

最近、父か先祖のおかげでわたしは晴れ女。
広がる青空が冬の兆しを遠のける。
けれど、
街はクリスマスムードで浮かれはじめてる。

わたしは来年、この街をはなれる。

骨仏堂まいりと同じくこのコラムも
今回で最終としよう。

合唱

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