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落語は『マッチの炎』に似ている。


マッチ。

アウトドアの機会でさえ、最近は使うことが無いかもしれない。

わたしは花魁ではないけどもお香を焚くのが趣味なので、そんなときにはマッチで灯すほうが趣があって良いなぁと思う。


ところで、マッチを擦るときの黒い面。あれ、“側薬”って言うんですって。

マッチを側薬にグッと押し当てて勢いよく擦ると瞬時に発火する。
その様は、なんだか“人間がみせる本気の煌めき”に似ているような気がしている。


本当は人間ひとりびとりが“マッチ”なんじゃないかと思う。

自分の中に積み重ねてきたものと、新たに得た情報や学習とが擦り合って、化学反応を起こしたときに“バチっ!”と火花を放ち“新しいなにか”が顕在化する。

顕在化したそれは、世の中に“価値”として確立することで炎のように燃え続ける。


本気であればあるほど
思いが強ければ強いほど
そのマッチはきちんと“発火”して、“燃焼”し続けるのだと思う。


生の落語というのは、無形の瞬間芸術であり、二つとして同じ高座は存在しない。
同じ噺家が同じ演目を演ったとしても、あの日、あの時、あの場所の温度感というのは再現ができない。

ひとつひとつの高座がそのとき限りのものだから、そのたびに擦ったマッチから飛び散る火花の煌めきは刹那的でなんとも美しい。


一席一席が実に尊いのだ。


その“一席の尊さ”をよくわかって丁寧に扱っている噺家さんが、わたしは好きだ。

たった一枚の着物という鎧を纏って、高座という勝負の場にあがる。

着物なんてヤワな鎧だけでは、防御力も無いので誤魔化しもきかない。

マッチを擦って火花を放ったとしても、それが生半可な温度ならば、目の肥えた人生経験豊富な客にすぐに見透かされてしまう。

なんと、シビアな世界だろう。

練習量なんてものは、当たり前にこちらに漏れ伝わる。

だが伝わるのは、それだけではない。

声、視線、所作、、、など噺家さんから発せられるすべての“火花”から、その噺家さんを形づくる全ての要素をうかがい知ることができてしまう。

今日の身体的精神的コンディションから、その噺家さんの人生観まで。
そう、全て。


落語家さんの内から湧き出るものと“落語の演目”が、まるでマッチと側薬のように擦り合い、その化学反応から生じた何かがオーディエンスの心に響いたときに、顕在化したそれが初めて“価値”として認められる。

それはときに、

誰かの暗い足元を照らして道しるべとなったり、
誰かの凍えたハートを温めて溶かしてくれたりする。

人から発せられたエネルギーが人に届いて大きな作用を与える。

なんて尊いことだろう。



・・・って、ことを本能的にわかっていそうな噺家さんが好きです。

わたしは、いつも寄席から溢れんばかりのエネルギーをもらって元気になっています。

たまに“湿気ったマッチ”で高座にあがる噺家さんがいて、そんなときはパワーをもらえないだけでなく、こちらの生気まで吸いとられているような気分になります。笑


そんな噺家さんの高座はお金をもらっても聴きたくないなぁと思います。





>「この人の高座は聴きたくないなぁ」とお思いになる根拠はなんなのでしょう。

と以前、“でんぱ組inc.と『成金』は奇跡だった。”のブログで、きっかけ屋さんからいただいた“きっかけコメント”にアンサーさせていただきました♪







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