30代半ば女がこれまでの人生を振り返ってみる(小学時代編①)


まえがき

人生の振り返り第二弾。幼少期編のお次は小学時代編です。
前回の記事はこちら

新しい刺激をたくさん受けて人格が形成されてくる大事な時期だなぁと思うのと未だに仲良くしている大切な友人たちと出会った時期でもあるので、それらを踏まえて今の自分に影響を及ぼしたであろう出来事をピックアップして書いてみようと思います。

思うままに書き始めたら長くなり始めたので小学時代編①として、まずは家族とのことを中心に書いていきたいと思います。

母子家庭のこと、母のこと

幼少期編で書いた通り小学校にあがる前に両親が離婚しました。母に引き取られたので小学校以降は母子家庭となり母と私と弟とで3人暮らしでした。
父が出ていくかたちで別居となったので引っ越しはしておらず、生まれたところから住んでいた公営住宅で暮らし続けることになりました。
マンモス団地と呼ばれるところで同じ小学校に通ってるのはほとんどの子が団地内に住んでいる感じでしたね。

公営住宅が収入が少ない人しか住めないということを知ったのは中学の頃だったかもしれませんが、外観や設備が古びていたので裕福ではないことはなんとなく自覚してました。
団地の周辺は田畑に囲まれていて少し出ると大きな幹線道路にでるような感じではあったのですが、近くにコンビニもないようなところで割と田舎でした。

母は若くして私を産んだので私が小学校に入学したころは26歳。
高校卒業してすぐに結婚したのもあって手に職があるわけでもなかったはずで、仕事を転々としていました。
ただ、私が小学生の頃はしばらく保険屋さんとして働いていた時期のことが印象深いです。
夜まで忙しく働いていたので、小学1年生とか2年生のころには炊飯の仕方を教えてもらっておかずまでは用意できないもののご飯を炊いておくという家事を任されてました。

この頃の母は鬼のように怖かったです(笑)
事ある毎に勉強しなさい、早くお風呂入りなさいとか叱られまくってました。
あと、理由は忘れてしまいましたが、一度家から出ていけと言われてランドセルを背負わされて弟と2人で外に締め出されたことがありました。
許しを請うて入れてもらったんだと思いますが、夜団地の下で途方に暮れてたときのことはなんとなく覚えています。
今になって振り返ると、片親だからしっかりしなきゃという気持ちもあったんだろうとか、仕事も大変で心に余裕はなかったんだろうなと想像しています。

怒ると怖かったですが、怒ってないときは一緒になってはしゃいで全力で遊んでくれる感じだったので楽しい思い出もたくさんあり母のことは大好きでした。
…そういえば下の階の人から「もう少し静かに」と、よく苦情が入っていたような笑

おでかけや旅行もよく連れて行ってくれていて、流星群を見に行ってものすごい数の流れ星が見れたときのことと日帰りで東京まで車で往復して初めてディズニーとお台場に行ったことが印象深いです。

親代わりのような存在だったおばあちゃん

どういう経緯があったのかはわかりませんが、母方の祖母・祖父も同じ団地内に住んでいて、自分達の住んでいるところから建物も近くて徒歩1分とかで行き来できるようなところに住んでいました。
母が遅くなってしまう日は祖母が家まで訪ねてきてくれて、ご飯を持ってきてくれていました。

母の仕事が本格的に忙しくなって毎日のように遅くまで帰ってこれないようになってしまってからは、祖母の家まで晩ご飯を食べに行くようになりました。お風呂も祖母のところで済ませてから帰る感じだったかな。
そこから小学生のころから高校ぐらいまでずっと夜は祖母の家に行ってご飯を食べるというスタイルでした。毎日ご飯を用意してくれた祖母には本当に感謝しかない。
ただ、口うるさい人ではあったので、思春期の頃はヤンヤン言われて面倒くさいなぁと反抗心を持ってる時期もありました。
直接、暴言を吐くような反抗期はなかったですけどね。

祖父も祖母と一緒に住んでいたのですが、足が悪かったのでテレビの前で椅子に座っているか、奥の部屋で寝ているかのどちらかの記憶しかないです。外に出ることあったのかな?
無口な人だったのでどう接していいか分からずちょっと怖かったです。
よく刺し身をつまみにワンカップ酒を飲んでいたことが印象的です。

祖父は働けなかったので、確か祖母が働きに出ていたはず。うちの家系は女が働きに出ているのが普通のことでした。
座ってるところしか見なかったぐらいですからあまり体力もなかったのだと思います。
祖父は70代前半という比較的まだ若いころに亡くなってしまいました。私が小学3年生ぐらいだったと思います。

ちなみに祖母は健在です。
母は同級生のご両親とかと比べると若いのですが、祖母が母を産んだとき高齢出産だったので、祖母は周りと比べて若いわけではないのです。
もう90歳を超えていまして、認知症が進んできていて私のことはあまり覚えてないようで、かろうじて小さかった頃の記憶が残ってるのかなという感じです。

経緯は省略しますが祖母は全く歩けなくなってしまったので介護施設に入っているのですが、母に声をかけてもらってたまに会いに行っています。
うーん、振り返ってみると私あまりおばあちゃん孝行出来てないかもしれません。。

父との面会、二度目の別れ

両親が離婚してからも父とはときどき会っていました。父の家に行って一緒にご飯を食べた記憶があります。
確か母抜きで会っていたような気がします。というのも父ともう1人母ではない女性が一緒にいたような記憶がうっすらとあるのです。
父もまだ30前後で若かったはずなので、離婚後に付き合っていた人がいて、その女性も同行してたのかなと。
特に嫌な気持ちになることはなかったので、良くしてもらっていたんだと思います。

ですが、父とはある時期を境に会うこともなくなりました。
会わなくなった正確な時期についてはもう記憶にないのですが、たぶん小3か小4の頃だったはず…
後に母に聞いた話によると父から再婚するからもう会えないと申し出があったそうで、母は「自分の子供に会えないとはどういうことだ!」等と怒鳴り散らしたそうです。
相手の女性から会わないでと言われたのか、父が決めたことなのかは分かりません。
母は途中から養育費も払ってもらってないと話していたので、父への信頼度は今でもあまり高くないです。

ただ、幼少期編で書いた離婚理由からすると、父から見れば母の勝手で私達と引き離されたような気持ちにもなったでしょうから、新しい家庭を持って前の家庭からは離れるのが父にとっては幸せだろうなと思いますし、もしかしたら父の中では幸せになれる唯一の方法だと考えたのかもしれません。
話を聞いたわけではないのでただの想像ですが。

当時どころか最近までそんな客観的な見方はできてなかったので、自分の子供ってそんなに簡単に手放せるもんなんだ、世間で聞くより親子って意外と軽薄な関係性なんだなと偏った価値観が自分の中に組み込まれてしまったなぁと思います。

両親の離婚後の生活の中で自分的には寂しさは感じてないと思っていたのですが、いつだったか父が夢に出てきたことがあって。
スーパーかどこかで知らない家族と一緒にいる父のことを目撃したんです、ただ父の方は私に気づかないままその家族と一緒に車に乗って去っていってしまうという内容で、目が覚めてからだいぶ辛かったんですよね。夢のわりに妙にリアルですし。
父に見捨てられたという気持ちが自分でも気づかないレベルで根付いていたことを夢を見ることで気付かされました。

…なんだか重い話になってしまいましたね。
まぁ、これが長きにわたって私の異性関係にも影響を与えたであろう出来事なので、詳しめに書いてみました。

どこかで聞いた受け売りのような話ですが、人というのは成長の過程でコミュニティを広げていくものなので、幼少期って親がすべてなんですよね。
子供の頃は良くも悪くも親からの言葉や行動をストレートに全て受け止めてしまうもんだよなぁと身を持って実感しました。

教訓的なことを言うと、親目線では子供だから難しいことは分からないだろうと事実を伏せるようなことはしない方が良いんじゃないかなぁと思います。
もし事実が辛いものだとしたら、認識してほしい内容を付け加えつつ価値観が歪まないようケアしてあげる必要があるのかもしれません。
まあ子供側で偏った価値観に自ら気付いて是正するような行動ができるパタンもあると思うけど、私はちょっと無自覚すぎたせいでまあまあ手遅れになったのが痛かったなぁ。

離婚自体は良いんですがその後のケアについては、親を責めたい気持ちも正直ありますけど、両親若かったししょうがなかったのかなーとも思ってしまいます。
今は価値観のズレに気づいた上で自分の人生を選択していっている状態になってるので今さら騒ぎ立てる気はないです。

小学時代編①の締め

家族絡みのことだけでだいぶ長くなってしまいました。
実は家族絡みの話はまだあるんですけど、一旦ここで区切りたいと思います。
父の再婚の話とともに母の恋人の話もあるんですよねー。ほんとはセットで書いたほうが良かったかもだけど、それは次回にします。

最後まで読んでくださった方はありがとうございました。
独り言のようなつたない文章ですが、何か少しでも感じてもらえたことがあると嬉しいなぁと思います。

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