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蛆虫の歌 10

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 こうして自らに修行として一人である時間を設けた。この目論見はどうやら上手くいったようで、音楽を聴いたり読書をしているうちに瞬く間に時間が過ぎ去っていった。
「瞬く間に時間が過ぎ去っていった」というのはどうやら本当にその通りのようで、一人の日々をただひたすら繰り返していたら気が付くと一週間経っていた。そのことに気が付かせてくれたのもアイリ先輩であり、土曜日に二回目のデートをするのにどこに行くかという連絡が木曜日に彼女から送られてきたからである。この連絡が無ければ、僕はこれ以降もずっと無我夢中で一人の時間を溶かし続け、いずれ曜日や時間の感覚すらなくなっていたであろう。
 今の僕の状態であまり人に会う気はしなかったが、そもそもしていた約束を無くしてしまうのはさすがに自分でもあり得ない行為だと思ったのと、曜日や時間の感覚や人との話し方を思い出すのには良い機会だと思い、返事を返すことにした。
「雪成くん土曜日どっか行きたいとこある~?」
「あんまりパッと具体的なところは思い浮かばないんですけど、ゆっくり出来るところがいいです!」
「じゃあ、自由が丘にこの前とは違うけどゆっくり出来るところあるからそこいこ!」
「時間とかどうします?僕は何時でも合わせられます!」
「私もいつでも大丈夫よ。この日は仕事もなんも無いし、お昼からでも夜からでも大丈夫!」
「じゃあ、お昼から出来る限りゆっくりしましょ!」
「この前と同じ一時からでどう?」
「大丈夫です!」
「じゃあまた同じ待ち合わせ場所で!」
たった十分間のうちに土曜日の予定が決まった。
 僕はもう十分な程に幸福をもらっているのに、それでもまだ幸福を強請ろうとしている。「幸せ」とはドラッグだ。どれだけ幸せになろうとその欲求は尽きることが無く、無尽蔵にそれを欲し続ける。もう僕は満たされているのだ。少し前までは砂漠で水を求めるが如く僕の心は渇き切っていたがもう既に潤っている。それなのにも関わらず幸せがまた目の前にのこのこと歩いて姿を現してきた。そして僕はまたその目の前に歩いてきた幸せを逃すまいと躍起になっているのだ。
 人間とは何故こうもがめついのか。僕からしたら念願とも言うべき幸福であったはずなのに、幸福があることに慣れてしまうと日常に潜む小さな不幸は目にすら入らなくなる。それとも世の中の多くの人間からしたらこれが普遍的な生活なのか。一ヶ月休職して限りなくストレスを排除した生活を送っている僕が悪いのだろうか。あれだけ不幸が身体に染みついた生活を送っていたのにも関わらず、皮肉なことに今ではそんな小さな不幸ですら愛おしく思えるほどに僕は今「幸せ」なのだ。
 僕はどうしていいか分からなくなってしまった。いや厳密に言えば、このまま幸福に向かう流れに身を任せていればいいのは分かっているが、こんなにも自堕落であるのにただ幸福になってしまってもいいのか分からなくなってしまったのだ。今までの人生を受動的に自堕落に生きてきた自分にとって、こんな生活は身に余るほど光栄なことであるのだが、同時に頭の中では能動的である人間こそ幸せになるべきだと分かっているのだ。
 この前までは身に余る不幸で悩んでいたというのに、今度は見に余る幸福に悩まされるとは思ってもいなかった。これまでの人生とここ一ヶ月間の生活のギャップに僕は踊らされているようだ。僕はなんて面倒臭い人間なのだろうか。もっと素直に生きることは叶わないのか。それとも既に歪んでしまって取り返しがつかないのか。

 数日間、勝者が味わっているであろう生活を体験したが全く以って慣れることは無かった。考えても栓のないことばかりが頭を巡っていたが、そうこうしているうちに土曜日を迎えていた。大学の頃の先輩によく「お前はもう少し素直になれ。うだうだ同じことばっか考えているだけじゃいつまで経ってもその問題は解決しないし、考えてることも案外大したことないぞ。」と言われていたのを思い出した。
 時刻は午前十一時、一切無駄な時間を過ごさずに済むであろう時間に起床した。普段早く起きすぎてしまう癖があるせいで起床した後によく無意味な時間を過ごしてしまうが、自分でも恐ろしいくらいスムーズに起床してしまった。
 僕の中で何かが煮え切らなかった。今まで僕にとって「幸福、幸せ」とは僕の生活だけでなく人生の中のただのスパイスの様なものであったが、今ではそれが主食になってしまっている。僕の身体と心にとって、「不幸」も僕に欠かせない一つの栄養であったのだ。
 思考の堂々巡りを繰り返しながらも、朝の身支度を整えて今日も待ち合わせの少し前に着くことが出来るように家を出た。朝家を出る前に姿見を見たら髪がかなり伸びているのに気がついた。髪を切る時間などいくらでもあったのに、これも思考の堂々巡りを繰り返していたせいで気がつけば三ヶ月ほど美容院に行くことを忘れていた。先輩はきっと「考えるよりもやるべきことが沢山あるだろ」と言いたかったのだろう。ぐうの音も出ないほどその通りである。
 前回先輩と初めてデートに行った時に乗った電車の一本後の電車に乗り目的地へ向かう。前回大変新鮮に感じられたこのホームの眺めも今では陳腐なものに感じてしまう。一回目と二回目で何が違うのだろうか。見ている景色は同じだし、前回と5分ほどではあるが時間も違う。この電車の上を通る新幹線の高架下も、ビル以外何も邪魔をすることなく快晴の空を見せてくれるこの街も、何も僕の気をひかない。一回目あれほどに感銘を受けた自分が住む街がなぜこれほどにも陳腐に感じてしまうのだろうか。
 気がつくとすぐに考えてもしょうがないことを考えてしまう。一旦一回目の時と同じ気持ちになってみればいいだけのことではないか。五分ほどの電車の違いでは、車内に流れる暖かな時間も何も変わらないだろう。
 三分ほど待って電車が到着した。扉が開いて少し僕も身構えて乗車するものの、一見前回の車内の風景と変わったところは見受けられなかった。しかし、この時間の車内には本当に老人しかいない。きっとこの中には毎日このくらいの時間の電車に乗って、車内の緩やかに過ぎる時間に揺られている人もいるのだろう。毎日こんな日常を送って飽きないのだろうか。それとも日常に潜む刺激に疲れてしまったのだろうか。

 時間の感覚とは自分の受け取り方次第なのだ。今車内に流れている緩やかな暖かさが時間の流れを遅く感じさせるが、それらを退屈だと受け取ってしまえばたちまち時間軸は元いた世界のものに戻る。まるでそのことを表しているかのように、今回は車窓を眺めずにケータイをボーッと眺めていたら気がつけば自由が丘に着いていた。
 時刻は十二時五十分を目前にしていた。きっとまた先輩は電車の出口やバス降り場から来るのではなく繁華街の方から顔を出してくる。それならば今回は電車の出口やバスの降り口を見張る必要はない。
 自分でも感じつつあることではあったが、僕はアイリ先輩に恋をしているのかもしれない。今僕の脳内を占めるのは50%が佑介や康太郎をはじめとする友情のこと、もう半分はアイリ先輩と過ごす甘やかな時間の二つであるが、段々とこの周期的に用意される甘やかな時間のどこかに僕は期待を寄せ始めているようだった。
 僕はかつてないほどに浮かれていた。そんな浮かれている僕のもとにアイリ先輩がやってきた。
「今日も先越されちゃったか。雪成くんいつも来るの早いね~、私の方が先輩なんだから今日こそ先輩っぽく先に待ってようと思ったのに(笑)。」
そう微笑む先輩の顔が心底可愛く見えて仕方が無かった。これだけで僕は今日一日中ニコニコしていられる各省を持つことが出来る。
「いや僕も男として、女性を待たせてはならないくらいの気持ちはあるんですよ(笑)。」
と返すと
「あら(笑)じゃあ行こうか」
と言って僕の手を取った。こんなことをされて胸が高鳴らない男など存在するのだろうか。先輩はきっとモテるんだろうなと内心思いつつ、その手を引かれるがままに今日のデートは開始された。

 こうして手を繋いだまま、彼女の思うがままの方向へと向かった。前回は少し人気の少ない隠れ家的な趣のあるカフェに向かったが、どうやら今回向かっている場所は前回とは別の方角にあるらしく、前回とは全く違う方向へと歩を進めた。
 手を引かれた先は、繁華街から少し逸れた場所にある小さな洋食屋であった。二分も歩いてきて道を戻ればまた繁華街へと戻ることが出来る場所にあるこの洋食屋は、前回のデートで行ったカフェと同じような雰囲気を感じさせるような木造でアンティーク調で、どこか海外の古民家を思わせる様な店構えをしていた。
「ここしばらく行けてなかったんだけど、私がこの街で一番好きなお店なんだ。」
「先輩、こういう雰囲気のお店好きなんですね。」
と言うと、先輩は僕からどんな返答が来るか分かっているような顔で
「雪成くんは(笑)?」
と少し僕の顔を覗き込むようにして微笑みながら訪ねた。それに対して
「僕も好きです。」
と言って返すと、アイリ先輩はまた微笑んだ。

 店員に「少々お待ちくださいませ」と言われ店の会計テーブルの前で二人で少し待っていると三十秒ほどで「お待たせ致しました。それではこちらへ。」と言って店の奥へと案内された。そこで僕らが案内された席は、対面で座ることの出来る木のテーブルとイスが拵えられた二人分の座席であった。
 二人で席について、僕は店内を見渡す。やはり先輩はどこか気持ちを落ち着かせられるような雰囲気の良いどこか懐かしさを思い出させるようなお店が趣味の様で、店員のカジュアルな服装や店内の内装の雰囲気などが、前回行ったカフェとどこか同じ様な雰囲気を感じさせる。
 店内の内装には黒板と思われるものに描かれているメニュー表があった。それを眺めていると手元にメニュー表とお冷が僕とアイリ先輩にそれぞれ配られたが、僕は一瞬そちらに目をやるも、インテリアとしての意味合いが強い店内に飾られてあるメニュー表を眺め続ける。
「雪成くん何にするの?」
と言われ再度メニューの方を注力して眺める。そのメニューの中にあるロールキャベツと「ファルシーサラダ」という文字に目を惹かれ、それらを注文することにした。
「じゃあ、私も同じのにしよ。」
と先輩が言うと、続けてお酒は飲むのかどうか尋ねられた。僕はその質問に
「ごめんなさい、この前健康診断したらあまりお酒を飲むなと言われてしまって…。」
と言葉を濁して返した。今なら飲酒をしても何も粗相をしでかすこともないのかもしれないが、やはり自殺未遂をしたあの経験というのは僕にとって一生頭から離れることのないトラウマなのだ。
「そっか、残念。ここのワイン美味しいからご一緒にと思ったんだけど…。」
とアイリ先輩は寂しそうな顔をしながら呟いた。僕はその表情をを見て、なんだか自分のペースに巻き込むのは少し可哀想だと思って
「いや、僕のこと気にかけなくていいですよ。自分の思うように頼んじゃってください。」
と先輩の顔を見てこう返した。すると、先輩は少し悩んでから店員を呼んで注文を始めた。
「すみません、ロールキャベツと湯剥きトマトのファルシーサラダをそれぞれ二つずつ…、雪成くん飲み物何にする?」
「僕オレンジジュースで。」
「ロールキャベツと湯剥きトマトのファルシーサラダをそれぞれ二つずつ、飲み物はオレンジジュースと白ワインのカイケンエステートソーヴィニヨンブランセミヨンのグラスを一つお願いします。」
どうやら白ワインを頼んだらしいが、緑茶ハイとビールとサワーしかこれまで飲んでこなかった僕にとって、まるで何かの呪文のようにも思えた。
店員が「畏まりました」と言ってメニュー表を下げて厨房の方へ向かった。僕はそれを確認して少し大きなため息をついた。その様子に先輩が「どうしたの?」と言うので
「いや、あんまりこういうおしゃれなお店来ないから緊張しちゃって…(笑)」
と照れながら返した。すると先輩は笑って
「あら意外。雪成くんモテそうだしもっと遊んでるのかと思ってた。」
と僕の顔を覗く様に微笑んでそう返してきた。その言葉に対して僕はこっちのセリフだと言ってやりたかったが、ぐっとその気持ちを堪えて自分の中に飲み込んだ。
 少し待っていると、一品目にサラダが運ばれてきた。僕は「ファンシーサラダ」というものを始めて注文したが、実際初めて食べるし初めて見る料理でもあった。どうやら湯剥きされた丸まる一個のトマトをくり抜いて、その中にサラダチキンを詰め込んだ料理らしい。僕はさもこの料理に慣れているかのように食しているが、注文する時は身の程を知らずにかなり背伸びをしてしまったかもしれないと内心焦っていた。いざ実食してみると、湯剥きされたトマトの口当たりの良さの感銘を受けた。中に詰まったサラダチキンとトマトの食感の差が絶妙に小気味よく、トマトの上に添えられたソースが完全な調和を取っていた。端的に言えば「美味しい」の一言に尽きるが、それだけの陳腐な感想を述べるのは少し恥ずかしく思われた。しかし、全ての感想を述べるのははしたないとも考えたため、
「上品でトマトが湯剥きされていてすごく食べやすくて美味しいです。」
と変な日本語の感想を述べてしまった。すると先輩はこれにも笑って
「そうだね。」
と一言だけ返した。
 もうこの時点で既に僕の中から「不幸」や「不安」と言った感情は一つ残らず消え去っていた。甘美で緩やかな時間を素敵な女性と過ごす。ただそれだけがなんとも幸せな時間に思えてとろけてしまいそうなほどであった。この頃にはこの先どうなろうとどうでもいいという思いさえ芽生えていた。それほどに僕は現在幸福であった。
 一品目にサラダを食すと、テーブルにロールキャベツ二つと飲み物がそれぞれ置かれた。僕の手元にロールキャベツとオレンジジュースが運ばれてきたが、なんだか高級なお子様ランチのようにも見えてきて少し笑みがこぼれた。サラダのお陰でいい感じに腹も慣れ、そのタイミングで頂くロールキャベツはあまりに美味しくて脳内が幸せの分泌液で満たされた。先程のように脳内に感想を並べてみようと試みたが、こんなにも溶けてしまった脳みそでは言葉が浮かんでくるはずもなかった。僕はただアイリ先輩の顔を見て「美味しいです」と微笑むことしか出来なかったが、先輩はそのことすらも分かっているように満面の微笑みだけを返した。
 好きな女性と食事に行ったりして共に時間を過ごすことはこんなにも幸福指数が高いのかと僕はしみじみ感動していた。友人と限りなくバカな時間を過ごすのもこの飢えなく幸せな時間であるが、これはまた別の全く異なる幸せである。僕は現在その二つの異なる幸せを手にしてしまったのだ。自分でもなんとも信じ難いが僕は限りなく幸せなのだ。
 時刻は午後二時半を回った。食事も終わって僕はグラスに残ったオレンジジュースを飲み干した。するとその僕に合わせるようにして先輩もグラスに残ったワインを飲み干した。僕は今日をこれだけで終わらせたくは無かった。
「このあとどこか行きましょうよ。」
考えるよりも先にそう言葉が出た。すると先輩は
「じゃこの前行ったカフェにでも行こうか。あそこならもっとゆっくり出来るし。雪成くん明日は何してるの?」
と返した。現在休職中の僕としては何も断る理由は無いため「一日空いてます」と返した。
「じゃあ今日一日雪成のこと連れまわしちゃおうかな。」
とはにかんだ。この時僕は初めて呼び捨てにされた。なんだかその響きが凄く心地良く感じて僕の口角が自然と上がった。

 僕らは店を後にした。満腹になった満足感と素敵な女性が隣にいることにこれ以上ない幸福を覚えながら、初めてデートをしたカフェへと向かった。先輩は少し酒が回ったのか普段よりも上機嫌になっていて、一緒に歩く足取りもどこか先程よりかは軽く感じられた。
 皮肉にも僕は「こんな日がずっと続けばいいのに」と思ってしまった。アイリ先輩二人との時間だけではなく、佑介や康太郎も学生時代の時のようにずっと一緒にいられたらどれだけ幸せなのだろう。ビュッフェで好きなものだけを皿に取るように、僕の人生も好きなものだけで彩ることが出来たらどれだけ幸せなのだろう。カトリックにおける「七つの大罪」が実際に日本の法律として施行されたら、僕は「怠惰」と「傲慢」と「強欲」の罪で三回分は死ななければならない。それほどに僕が今感じている幸せは罪深い。
僕たち二人はカフェに行く前に少し街を散策した。これはどちらかが「しよう」と言って始まった散策ではなく、ただ天気が良かったとか街並みが綺麗であったとか少し物珍しいものを見つけたからと言った箇条書きの沢山の理由が僕らの足を逐一留めさせ、僕らがそれらの一喜一憂していただけに過ぎない。快晴の光が常緑樹を照らし、あたたかな木漏れ日が冬の冷え切ったアスファルトを温める。高級住宅街というだけあって立ち並ぶ家々も個性豊かであり大きい。少し小さな家であっても外観に住居者のこだわりが詰め込まれたような建物が両手で数えきれないほど建ち並んでいる。
恐らく道なりに最短距離を行けば十五分もあれば辿り着くことが出来る道を、四方八方枝分かれしている道に逸れながら散策していたら目的地のカフェに辿り着くまでに一時間もかかってしまった。時刻は午後三時半過ぎ、「昼下がりのティータイム」とはまさにこのことである。
僕らは再び自動式ではない旧式の開き戸を引いて店内を覗いた。前回と打って変わって店内は多くの人が入り賑わっていた。
「いらっしゃませ。二名様で宜しいでしょうか?」
多くの人で賑わっているからか、店員の声にも少し疲れが見える。僕らは「はい」と返事をすると、二人用の小さなテーブル席に案内された。二回目であることから僕は如何にも常連客の様な立ち居振る舞いで優雅に席に座る。僕らが一回目に来た時に案内された席は四人の主婦の井戸端会議の議場となっていた。
 席について店員がメニュー表とお冷やを運んできた。僕は前回と同じ「深煎りキリマンジャロのカフェモカ」を頼むつもりでいたため、メニュー表には目を通さなかった。しかし、アイリ先輩は違うものを注文するつもりの様でメニュー表をじっくりと眺めている。
「先輩が頼むもの決めたら店員呼びますね。」
「うーん。どれにしようか迷いますねえ。」
と先輩がわざとらしく返事した。何やらページを捲っては戻ってを繰り返している様で、普段注文しているものとは別のものを注文するつもりの様だ。
「決まったから店員さん呼んでくれない?」
僕が店員を呼ぶと少し遅れて席にやってきた。
「えーと、僕がこのカフェモカと…。先輩は?」
「私このカルーアミルクでお願いします。」
かなり意外なチョイスだった。確かにカルーアミルクは飲みやすいお酒で女性にも人気ではあるが僕が驚いたのは、アイリ先輩がこのお店でアルコールを注文することに驚いたのだ。
「なんか意外ですね。」
と僕がふっかけるように言うと「まあたまにはね」と一言だけ返した。
 「へえ~」と僕が興味のないふりをして呟いた。確かにこの言葉と共に先の小さな驚きは流れて行った。実際どうでもよかったのだ。僕とアイリ先輩がお互い幸せと思える時間を過ごせるのであれば。
 僕は男でも女でも好きな人といる時に流れる沈黙の時間が好きだ。お互いが煩わしい思いをせず、かといって無理に会話をしようともしないこの時間は、言葉を交わさずとも心が通っている気がしてなんとも愛おしい。今僕と先輩の間に緩やかな沈黙の時間が流れている。気が付けば今日タバコを吸うことも忘れていた。なんと上質な時間なのだろうか、永久にこの時間が続いてこのまま朽ちてしまっても僕は何も文句を言うことは無いだろう。
「こちらが深煎りキリマンジャロのカフェモカで、こちらがカルーアミルクになります。それではごゆっくりどうぞ。」
そう店員が言って僕と先輩の注文したものがそれぞれの手元に届けられた。その店員の一言が僕と先輩の間を流れていた暖かな沈黙の均衡を破った。
「それ気に入ったんだ。」
「またここ来たら同じの頼もうと思ってたんです。なんか他に冒険する気にもなれなくて。それにしても今日先輩おしゃれなお酒ばっか飲んでますね(笑)。」
僕が先輩を少しからかう様に言った。
「ダメ(笑)?だって飲みやすいし美味しいんだもん。」
と少し口をとんがらせた。すると先輩はカウンターのつもりなのか
「雪成くん、今までどんな女の子と付き合ってきたの?」
と尋ねてきた。本当にこの人の仕草や言動は男を惑わせる。
「どんな人って。別に普通の人ですよ。」
僕はこの駆け引きに応じた。暖かな沈黙が流れる時間も愛おしいが、こういった分かりやすい男と女の駆け引きもまた新鮮で心地が良い。
「つまんないなあ。じゃあ最後に彼女いたのはいつ?」
僕はここで虚勢を張ろうかと企んだが、その虚勢が捲られてしまった時に恥ずかしい思いをしないように胸を張って
「本当のこと言うと高校の頃に付き合った子と別れてからは誰とも付き合ってないんですよ。」
と堂々と言った。すると、流石に先輩もこう帰ってくるとは予想していなかった様で
「え!嘘だ!絶対嘘!」
と周りの席の人が振り向くほど大きな声で驚いた。先輩は自分でも大きな声が出てしまったことを周りの視線から察知した様で、口元を手で覆って先程話していた時よりも小さな声で
「絶対嘘だよ。だって顔かっこいいじゃん、背も低くないし。」
と言うと、先輩はしばらくこの様子で面食らっていた。
 するとまたしばらく沈黙の時間が続いた。この店にいる時間で話が盛り上がったのは先程の時間で最後であった。時々、お互いにケータイをいじりながら「ここ遊びに行こうよ」だとか「この服良くない?」などの素っ気ない会話などはあったが特段会話が盛り上がるような話題も出ては来なかった。
 何やら外から音楽が聞こえたので耳を澄ましてみた。どうやら五時のチャイムが街に鳴り響いた様で、僕も先輩もそれが聞こえてからお互いに目を合わせた。
「どこか行きますか?」
と僕が尋ねると
「うちに遊びに来てよ。」
とご機嫌ではありつつも、少し雰囲気を変えて先輩がそう言った。

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