『「社会正義」はいつも正しい』の掲げた「リベラリズム」の空虚さ

私は、足を大股開きにする男を底の方では信用しない。

ジェームズ・リンゼイと極右問題

 『「社会正義」はいつも正しい』について最近、「共著者の一人ジェームズ・リンゼイは、反ユダヤ主義的・極右的な言動をする人物だ」と非難されている。

上記記事の「友達の友達がアルカイダ」型のルーズな論証に対する疑義に、文字数を費やすつもりはない。それを踏まえても私は、大まかには上記記事の著者の見方にかなり同調する。
リンゼイの発言が、私の基準で見れば「一線」越えているのは確かだ(「批判的人種理論で白人虐殺されかねない論」、「レインボーフラッグを『敵の旗』と呼ぶ」)。今年9月頃に「リンゼイってヤバくない?」と友達から話しかけられ、事態を知った。

書評に90点を付けた身として、著者についてろくに調べず注意書きを付記しなかった事は、自己批判が必要だと考える。申し訳ございません。
見苦しく言い訳すると、書評では次のような釘を刺した。

懸念すべき点を挙げるなら、第一にこの手の「左派」批判は、右寄りの人々やアンチ・リベラル派からも喝采を浴びることだ。[……]ちろん右派だからアンチ・リベラル派だからと、頭ごなしに拒絶するのは偏狭だ。とはいえそのなかには真正の差別主義やうっぷん晴らし、鏡合わせのような別種のアイデンティティ闘争も混じっている。
[……]同様にプラックローズとリンゼイが大義として掲げる「言論の自由」は、ヘイトスピーチやフェイクニュースの拡散にも悪用されてしまう。

ただし、この事と、本書をきっぱりと「極右の書いた差別的内容の著作である」と断じるのが適切なのかは、また別問題だ。後述する。答えを先に言うと、明らかに適切ではない。

本の内容に問題は無かったのか

 本の内容に問題はあったのか。確実に言えるが、本の掲げる理想が「極右」的である、という事はあり得ない。
証拠を二つ取り上げよう。
まず、「序章」でプラックローズとリンゼイは、リベラリズムとはどういうものなのかを語り、その歴史的な成果を誇っている。ここでのポイントは、「リベラリズム」の定義だ。

近代、とりわけここ二世紀の間に、ほとんどの西洋諸国は「リベラリズム」と呼ばれる政治哲学を支持する、幅広い総意を発達させてきた。政治民主主義、統治権力の制限、普遍的人権の発展、全成人国民の法的平等、表現の自由、多様な価値観と率直な議論の尊重、証拠と理性の尊重、政教分離、 そして信教の自由がリベラリズムの主な信条だ。

『「社会正義」はいつも正しい』
11頁

もしリンゼイとプラックローズの掲げるこの「リベラリズム」が、「反ユダヤ主義的」や「極右的」な理想であると主張するならば、その反対の、例えば「普遍的人権の破棄」「表現の自由の禁止」こそ、まともな理想である事になる。リンゼイに対する逆張りでこんなバカな主張を背負いたい人はまずいないと思いたい。(部分的禁止、例えば「ヘイトスピーチ対策に、危険な暴言の禁止が必要」という事なら理解できる)

次に、リンゼイとプラックローズは終章である第10章「社会正義イデオロギーに代わるもの アイデンティティ・ポリティクスなきリベラリズム」「結論と声明」で、人種差別・性差別・性的少数者差別に対しリベラリズムの原理の立場から、どのように差別是正できるのかを述べている。
長いので、「反ユダヤ主義」問題と関連する人種差別批判と一般論のみを引用する。他の「原理」も論理は同じだ。「人類」の普遍性・共通性と、「個人」の平等に訴えることで、差別を是正できるという発想。差別是正のための干渉は弱めだ。個人の自発性を重視する。

原理に基づく反対: 例1
・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める。
・批判的人種〈理論〉や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。
・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える
・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した遍在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない
・人種差別に対処する最もよい方法は、人種分類に社会的[原文ママ]に対する重要性を復活させて、その重要性を極端に高めることだ、などとは考えない
・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。そして人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える

『「社会正義」はいつも正しい』
344-345頁

このリベラリズムの反差別「原理」に関しても、先ほどと同じだ。仮に「人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える」というリンゼイとプラックローズの主張が、反ユダヤ主義的・人種差別的なものであるとしよう。そうすると、反対の「人種によって差別するという原理が普遍的に尊重されるべきだと考える」が、まともな主張という事になってしまう。言うまでもなくこれもバカバカしい。

もう一つ、プラックローズとリンゼイは、カッコ抜きの社会正義に貢献する研究の価値を肯定する。それどころか、実はカッコ付きの社会正義理論(批判的人種理論家由来のインターセクショナリティ[=交差性])の価値も、実はかなりの程度、その意義を認めているのだ。

原理に基づく反対:例4
・社会的な不公正はいまも存在するし、社会正義についての学術研究は必要かつ重要だというのは認める
・学際的な理論的アプローチの価値も認める。これは人文学内部での人種、ジェンダー、セクシュアリティ、文化、アイデンティティの研究などだ。
・〈社会正義〉研究の物象化ポストモダニズムが生み出した考えの多くですら――交差性の基本的な考え方、つまり「交差した」 アイデンティティには独特な不公正があり、特別に配慮が必要だという考えも含め――洞察があるし、思想の自由市場に提出して、評価、適応、深掘り、 洗練、果てはいずれ応用まで行う価値があるものだとは認める
・どんな考え、イデオロギー、政治運動も、どんなアイデンティティ集団についてであれ権威ある立場と見なされるとは考えない。そうした集団は多様な考えと、共通の人間性を持つ個人で構成されているからだ。
・客観的知識の可能性を否定したり、一貫性ある原則の重要性を否定したりする学術研究はすべて無価値だと考える。 そしてそんなものは学術研究ではなく、イデオロギー的な偏見だと考える
・自らを批判や反論にさらすのを拒絶する理論的アプローチすべての価値を認めない。 そんなものは詭弁であり学術研究ではないと考える
・問題が(例えば社会全体に蔓延した形で)あるものと決めてかかりその存在証明を「批判的に」 さがしまわるというアプローチは、一切の有意義な価値を持たないし、特に学術研究の形態としては無価値だと考える
・こうした手法を改革して厳密にすれば、莫大な学術価値を持ち、人類の大義を大いに促進できると考える――特に社会正義という大義は大いに促進されるはずなのだ。

『「社会正義」はいつも正しい』347-348頁

もはや繰り返さないが、リンゼイやプラックローズの掲げるこうした理想を「極右的」であると評するのは、無理がある。空虚だとか力が無いと論評することは可能だが(後述する)。
リンゼイはバラク・オバマのためにボランティア活動をするなど、民主党の候補者を支援し、新無神論運動の一翼を担っていた。2016年のアメリカ合衆国大統領選挙ではドナルド・トランプに反対したが、2020年11月の選挙ではトランプに投票する意向を表明したという。
段々おかしくなったのではと、とりあえず憶測する。本書の発売は2020年8月。プラックローズとの共著である点が、本書の内容に関してリンゼイに体裁上のブレーキをかけた可能性もある。

ある作家・思想家が反ユダヤ主義的ないしは極右的思想だとして、その作家・思想家について一部でも肯定的に解説したり出版するべきでないとすれば、深刻な問題が生じる。
例えば反ユダヤ陰謀論者であるハイデガーの哲学を、肯定的に解説した本を出しつつ現在、反差別活動でも有名な日本の先生もいる。(もちろん、反ユダヤ主義やナチズムを讃える思想について肯定的なのでは決してないのだが)

ハイデガーの場合、ナチス支持はもとより、反ユダヤ主義への関与もそれなりに知られている。この点をクリアした為、ハイデガー哲学のいずれかの部分への、否定的でない言及もまた容認されているものと推察する。リンゼイの場合は日本で無名だった事で「騙し討ち」のように思われた。
後知恵になるが、早川書房がもしリンゼイを「危険人物」といった注意喚起付きで売り出しておけば、それはそれで誠実さへの評価とマーケティング効果を両立できたものと思う。表紙も毒々しい色なのだから。

付言すると、「誰が言ったか」で物事を判断するのは大事だが、それにかまけて「書籍内で何が言われているか」を無視し過ぎる事もまた、別種の不誠実さだ。最近はこういう軽薄な風潮が強いので、反抗心を出して「じゃあ、著者の風評を伏せて本を売らせてやりたいな。内容で勝負」と思う事が多い。まあ、私のこういう反抗心が判断を誤らせている可能性も高い。
毛沢東やスターリンや山上徹也が言っても、「1+1」は「2」であり、毛沢東やスターリンや山上徹也が言ったからという理由でその反対「1+1」は「2ではない」が正しくなるわけではないのだから。

空虚な「リベラリズム」

 リンゼイの元相方プラックローズは、この問題で今のところ空気である。今スキャンダルがあれば見逃さない批判者が探せないのだから、これといった問題言動は多分無いのだろう。あったらみんなに教えてやってください。なおプラックローズは、2018~2021年までリベラル系のAreo Magazineのチーフエディターを務めていた。という事は、この本に対する「極右の著者が書いた本」との非難は現状、事実の半面ではあるが全部ではないわけだ。

というわけで、非常に座りが悪い総論になる。著者の一人は明らかに言動に問題がある。本自体の理想は穏健で、もう一人の著者はたぶんセーフだ。(今のところ)

ここで問題提起というか、最近考えていた事を述べる。「リベラリズム」とは、語る本人たちのスタンスさえバラつくほど、拘束力の弱い、空虚な理念ではなかろうか。言い換えると、この理念に尊敬を覚えさせ、道徳的に鼓舞し、信念を引き留める力がない。
先ほどの「原理:」のスローガンは、退屈で、言うなれば気の抜けた炭酸飲料のようなものだ。これと比べ、アイデンティティポリティクスに基づく言葉には、ひとを義憤に駆り立てたり、心理的な解放感へ導く力のあるものが多い。(他罰性やバイアスによる冤罪等々を生むマイナス面もありますもちろん)

#MeTooやブラックライブズマター運動では、「女性」「Black」というカテゴリが人々を鼓舞する力となっていた。これらは、本書でリンゼイとプラックローズが批判的に見る、「アイデンティティ」の力だ。
「女性」や「黒人」というカテゴリは、「人類」より小さく、「個人」より大きい。自分がその一部であると感じる中間集団と共になら、人は頑張れる。

アイデンティティ・ポリティクスではないという意味での、本書の「リベラリズム」に魅力を感じ、自身をリベラリズムで規律するモチベーションを持つ事は難しそうだ。あらゆる「個人を平等に尊重」するよう自分を律するのは簡単ではないし、理性や証拠に固く従うことも、あらゆる政治的立場の「言論の自由」を公平に守ることも難しい。そのようなモチベーションを強く保てる人物は、稀だろう。
女性のアイデンティティポリティクスを過度に嫌うアンフェの人たちも、「性表現・性享受を抑圧する女性、女性に抑圧された男性」というアイデンティティのための闘争という面が大きいだろう。
「著者たちの掲げるリベラリズムとは、弱々しい理想ではないのか」といった事は、前回書評時にも述べた。

プラックローズとリンゼイ自身は、「自由」と「普遍性」、「理性」と「進歩」の側に立つことを、「第十章 「社会正義」イデオロギーの代わりとなるものーーアイデンティティ・ポリティクス抜きのリベラリズム」で雄弁に語っている。私にはこれが理想主義的に感じてしまった。問題含みの古典的啓蒙思想への回帰にも思える。

https://liberalartsblog.hatenablog.com/entry/2021/10/29/215004#%E8%A9%95%E4%BE%A1%E8%A9%95%E8%80%85%E7%94%B0%E6%A5%BD%E5%BF%83

人を鼓舞し規律する力として空虚な「リベラリズム」をどう建て直せるのか、分からない。私の懸念と挑発を、リベラリズムの研究者や信奉者は下らない素人の妄言にすぎないと否定し、リベラリズムの価値を魅力的に擁護してくださるものと期待したい。

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