読んでいない本について堂々と「差別本」扱いする方法

元タイトル:『むずかしい女性が変えてきた』 販売停止に賛同する人の、エリート意識がもたらす大きな反作用 を変更(2022/07/27)


はじめに

 大阪のtoi booksという書店が、ヘレン・ルイス著、田中恵理香 訳『むずかしい女性が変えてきた あたらしいフェミニズム史』(みすず書房 2022年5月16日)を「いったん販売停止」にした事が、Twitterで話題になっている。販売停止の理由は、ヘレン・ルイスが「トランスフォーブ」「トランスフォビック」(トランスジェンダーの人に対する不寛容、否定的な態度、言動、嫌悪)であるとの指摘を重く受け止めたためだと言う。

toi booksの判断を支持するリプライが過半数である。多くの人は書店の判断を好意的に受け止めている。理由は、書店が差別と闘う真摯な姿勢の現れであるから支持する旨のものが多い。

 しかし冷や水を浴びせかけるようなことを言うと、大部分の人は本書を読んでいないことだろう。そして「あの著者はトランスフォビアらしい」という「SNSのことば」とネットの断片的情報だけを信じて、「私も差別に反対する姿勢を示したい」ので販売停止に賛成している。しかし、もし「SNSで見た風評」が間違っていた場合、これは著者と出版社など関係者に対する「あの差別本を出版した」という風評被害へ加担することになる。

確かに、英語Wikipediaには、著者のヘレン・ルイスがある発言がきっかけで、トランスフォビアとしてオンランインで罵られたとの記述がある。Wikipediaによると、問題発言は次の通りだ(DeepL訳)。なおこの記述を読んで「トランスフォビアだと批判されているらしい」と判断するだけなら、5分もかからなかった。

トランスジェンダーの人々が嫌がらせや虐待から自由になる権利を支持する一方で、2017年7月、ルイスは、性別自認によって レイプシェルターが女性にとって安全でなくなり、女性更衣室での性的暴行が増加するだろうという懸念について、こう書きました。"このような状況で、女性更衣室でペニスを露出しているヒゲの人に誰が挑むのでしょうか?" これらのコメントに対する批判に対して、ルイスは「私は、トランス女性は女性であり、トランス男性は男性であるという信念にもかかわらず、自己IDとその単一性別空間への影響について懸念を表明したため、トランスフォビアや'TERF' あるいは' トランス排斥過激フェミニスト 'としてオンラインで罵られる退屈な2年間を過ごしました」、と述べている。(https://en.wikipedia.org/wiki/Helen_Lewis_(journalist)#Views_on_feminism_and_transgender_issues

上記記述を読む限り、ルイスは「トランスジェンダーの人々が嫌がらせや虐待から自由になる権利を支持」しており、「トランス女性は女性であり、トランス男性は男性であるという信念」を表明している。「それでもトランスフォビアであり許されない」という追求の仕方はあり得るだろうが、断片的情報で「何を言ってもトランスフォビアであると認定されている」状態と、著作というかたちで本人のまとまった言い分(世界観)が邦訳され、幅広い層に届く状態では、公正さが違い過ぎる。評価の分かれる問題で、本人のまとまった言い分ともいえる著作が即刻販売停止となったことに、喝采が寄せられる状況がフェアであるとは思えない。「私は魔女じゃない」と否定している人を「魔女だ」名指しして一方的に焼き殺すような状況だ。

 いまや書物は、かつて友人たちと古典的作品について話し合った時のように、「自由な議論が起こるなかで、賛意も批判も起こるのが自然な作品」であると悠長に構えるものではなくなってきているようだ。特定の書物は、大衆が読むべきでない書物を決定し「禁止」する権利が自分にはあると信じるエリート意識を持つ人の「大衆が道徳的穢れに感染しない/感染と危害を広げないために、疑わしきは即排除するべきだ」という考え方の下、潜在的病原菌であるかのようにして取り扱われる。

中には「販売を永久中止しろというのではない。書店主が読んで判断すると言ったその姿勢を支持しただけだ」という人もいるだろう。しかしこの人自身は、『むずかしい女性が変えてきた』を読むんだろうか?

まず、大部分の人は読まないだろう。結局、「トランスフォビアらしいと聞いたから読む価値なし」と判断し、『むずかしい女性が変えてきた』という著書にステレオタイプな「偏見」と敵意を抱いたまま、訂正せずに忘れ去る。これは差別と闘う姿勢というよりかは、人や集団を差別する時によくある光景そのものだ。下がった株を売る効率主義のトレーダーのようでもある。道徳的威信という株価が下がった人物や書物を非難し、いち早く距離を置いて損切りするのだ。著者の言い分を読み取ろうともせず、自分はその作品を排除すべきだと思ったとしても、他の人が著作に接する権利を認めるべきだとも考えない。

『むずかしい女性が変えてきた』を人々が「排除」した動機の一部が、差別する側に加担し非難される事への恐怖心であれ、反差別の善意から出た事であれ、外面的には確実に、「自分の道徳的な"格"やブランドを上げたり維持する皮相なゲーム」に陥っている。

 toi booksの人が読んで、どのような判断を下すかは一書店の自由だ。しかし私の判断では、人々がこの本の「永久販売停止」に賛同することは、大きな不正に加担してしまうことと考える。ご再考をお願いしたい。

2.『むずかしい女性が変えてきた』は憎悪や差別を扇動する本か?

 実際に通読した結果、この本を「差別本」「憎悪扇動本」と呼ぶほうが、むしろ不正であると私は判断した。

 この本からトランスジェンダーに関する否定的記述を探しても、非常に苦労する人が大多数だろう。またこの本を読んでトランス嫌悪な言動をする人は、ほぼ全員が読む前からトランス嫌悪な言動をしていることだろう。したがって、「『むずかしい女性が変えてきた』は、トランスへの加害言動を生むから、販売中止にするのは正しい」という意見は、「読んだ前提」のフェイズにおいては明確に間違っている。

 確かに、議論をしている誰もがまだ『むずかしい女性が変えてきた』を読んでおらず、A「私は『販売中止』に賛成です。」とB「私は『販売中止』に反対ですね。」という二者が言い争っていて、お互いに「でも、あなたは『むずかしい女性』を読んでいないんですよね」とツッコミを入れ合っているような低レベルな場面では、Aの意見・販売中止にも大きな正当性があるだろう。

 また社会には規制が必要な状況がある。食品や家屋の有害物質の濃度は、規制されなくてはならない。ならば読書だって規制されうる。戦争直後などで社会が混乱中であれば、ヘイト本を自由に流通させることは、マイノリティにとって非常に危険になるかもしれない。

 しかし、いつまでも一般論の水掛け論に留まる義務はない。『むずかしい女性』を読んだ前提で、内容を踏まえて「どの記述がトランスへの危害言動なのですか?」と問う議論の方が、より妥当な結論を下せるのは明らかだ。

 本書で最も問題になりうる箇所は下記だ。内容への是非を述べて世論誘導することは差し控えるが、どう見ても、他の本に比べて本書が「危害・憎悪を扇動するから出版停止」されるべき内容ではない。どうも、Twitterにおける喝采を見ていると、本書の販売停止は『嫌韓流』が販売停止されたかのように錯覚する。で、あなたは読んだの?

もし下記画像のようなヘレン・ルイスの抑制の効いた筆致に触れた後、SNSでトランス危害的な言動を行う者がいるとしても、そのほぼ全員は元々トランス危害的な言動をしている事だろう。したがって、「トランスへの加害言動を生むから、販売中止にするのは正しい」という意見は間違っていた。

画像1
画像2

また、自身の立場からヘレン・ルイスがトランスの権利を擁護する記述も存在する(377頁)。

画像3
画像4

もし通読した上で、それでもこの本が販売停止に値すると考える人がいるならば、Webサイトやブログで具体的に内容を挙げて主張して欲しい。

なお著書『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』で知られる批評家・倫理思想家のベンジャミン・クリッツァー(の別アカウント)も、本書におけるトランスジェンダーへの言及を、次のように裁定する。

よって、本書を差別本・憎悪扇動本と同一視し、販売停止を永久に続けるならば、またそれを支持し続けるならば、それは正当な行いではないと考える。

3.販売停止を支持する「エリート」は、大衆に強い不信感を持っているか、見下していると考えざるを得ない

 人文書の古典と呼ばれる本であっても、現在の基準では明白に差別的だとか、差別を疑われる記述がある。アーレントの著書には黒人差別、アリストテレスの著書には奴隷制擁護、ニーチェの著書には女性差別的な記述があることが知られている。ハイデガーならナチスへの加担問題だ。しかしこれらの本は、多くの書店で問題とされず流通している。

なぜなら日本のような自由民主主義的な体制では、少なくとも大多数の個人に「良心と善悪の判断能力が備わっている」と想定されているからだ。「たとえ差別的な記述を含む本を読んでも、スポンジが汚れた水を吸収するようにはならない」、「本の記述をそのままコピーし自分の感性・考え方とし、誰かに危害を加える行動に出る人はまずいない」と想定されている。これがだれであっても個人を「一人前」扱いする社会だという事だ。

 確かに、誰もがつねに「一人前」の「自律した個人」であるというわけではない。ある人は問題含みの著作を読んでも批判的に吟味し、著者の考えに反対できる。他方で、ある本を読んだことがきっかけで他人への「加害性」が生まれるようになる人も、稀にいるかもしれない。ドイツでは長らく『マインカンプ(わが闘争)』を発売禁止としていた。そうした規制は正当化できる場合もある。免疫と細菌との関係と似たようなものだ。貧困や、ファシズム政権が倒れてまだ予断を許さない状況下で、社会の寛容度が悪化し過ぎた時は、病気に喩えればひとが弱っている時や、公衆衛生が崩壊した時だ。そんな状況では、『我が闘争』のような本を販売停止にする強権的禁止も必要になる可能性がある。

しかし今の日本のように成熟した社会では、「ある本を読んだことがきっかけで他人への『加害性』が生まれうる人」に対して、「書物」を販売禁止にすることで、その人を含む全国民を巻き添えにして書物を取り上げる強権を、国は発動するべきではない。そうではなく問題の「個人」の言動を自由な言論により批判したり、あるいは問題の個人の言動に対して侮辱罪や、名誉毀損罪、ヘイトスピーチ解消法などの立法で対応するべきだ。ここでいう「言論」には、個人への誹謗中傷や、「〇〇人は殺せ」と叫ぶような直接的危険の大きなヘイトスピーチを除外した、「ゆるい良識の範囲内」を想定している。今回の事件は、この「ゆるい良識の範囲内」の言論に向けられた弾圧であると言える。

クリッツァーの言葉で言えば、「「60」や「70」くらいの人と「30」や「40」くらいの人との議論に触れて、なにが問題になっているかを理解」することは有益で、そのために「ゆるい良識の範囲内」の書物が販売され続ける自由の確保が必要だ。あらかじめ特定の本を他人が読めないように制限して喜ぶ態度は、非民主的だ。野党の言論を弾圧・追放した上で選挙に勝ったところで、政権の正当性は得られない。

 研究者・著述家・活動家などの知的・社会的エリートを含む、多くの人が今回、『むずかしい女性が変えてきた』の販売停止にたやすく賛同したかのように見える。どんな丁寧な言葉で語られたものであっても、振る舞いが示すものは同じだ。「あなたたち一般大衆は善悪の判断能力がなく、本の差別主義にすぐ染まってしまうから、私のようなエリートが販売停止/出版停止を決めるべきだ」。このような感性と考え方は、どれだけ人を見下したものと受け止められることだろう。

 何より、『むずかしい女性が変えてきた』の内容が「危害をおよぼす可能性がある」といううわさは、結果的にウソだった。文筆家・活動家・学者といったエリートを含む、禁止したがる人々が間違ったのだ。こうした事が続けば、エリートの権威は失墜していくだろう。

 こんな人がいた。「『むずかしい女性が変えてきた』がヘイト本であるのか何なのか分からず、マイノリティに及ぼす加害可能性がある状況では、中身を調べるまでのあいだ販売停止にするという判断には、責を負うべきところはない」と主張する人だ。法か政治哲学研究者のようだった。この人は、toi booksが進歩的な本を自店の判断で選んで売る本屋であるという認識と、「ランダムに『嫌韓流』のような内容の本を売ってしまうリスクがある本屋で、なおかつ中身を読まずに本を売るいい加減な本屋である」という自分の主張が暗示する認識との間で、矛盾を起こしていると思う。(※ちなみにtoi booksの理念は、「店を始めるうえで目指したのは「問いを見つけることができる本を置き、本の見方/味方が増えるような本屋」」であるそうだ。今回の「販売中止」という措置では、むしろ読者が様々な観点から「問う」可能性を減らしているだろう。)

 加えて『むずかしい女性が変えてきた』は、toi booksが自分でチョイスする以前に、人文書に定評のあるみすず書房の編集者が、自分の「ゆるい良識」に基づき、出版の是非を既にチョイスしているはずだ。この本を読まず販売したtoi booksが安心して販売できたのは、あらかじめみすず書房が代わりに善悪・影響を総合判断し、出版すると意思決定を下していたからだ。そうした信頼できる会社・人の善悪判断を信頼して販売したのではなかったか。それに対して、toi booksが「通報があったので、今から読んで態度を決めます」と言えば真摯な姿勢であると高く評価され、現状でみすず書房が「ああ、差別本を出版した出版社ね」扱いされている評価の仕方は、ヘンだと思う。もちろん、実際読んで確かめること自体は、大きな称賛に値する行為なのだが。

 エリートが大衆の善悪の判断能力を信用せず、「半人前」として扱い、何かと書籍の販売を禁止したがり、しかしその書籍を読んでもいない。そのような状況で、名のある出版社の一般教養書の販売中止が、賞賛される。こんな価値観が広まっていくと、論理的に言ってより多くの書物が販売中止にされるべきことになる。またこうした事件が頻発すれば、エリートの権威は失墜する。したがって、エリートほど販売中止への賛同には慎重でなくてはいけなかったのだ。

2022/07/27 フェミニズムの問題点について追記

 私は、「もし通読した上で、それでもこの本が販売停止に値すると考える人がいるならば、Webサイトやブログで具体的に内容を挙げて主張して欲しい。」と書いたが、まだこれといった反応はないようだ。

 この記事に対し、「でも漫画やゲームや科学者に対する『キャンセルカルチャー』を推進してきたのは、フェミニストなんじゃないの。自分たち自身もターゲットにされたという話」という意見が多く見られた。確かにこの面はある。要は差別批判の内ゲバ化だ。「男性やマジョリティには『特権』がある」と批判するフェミニズムなどの諸理論は、マイノリティ同士・およびマイノリティの権利活動家同士の争いでは、しばしば機能不全に陥るようだ。「特権」を批判する諸理論は、マイノリティ[活動家]同士の権利調停に失敗し、うまく連帯できず、諍いが起こる場面が出ている。

卑近な例では、武蔵大学社会学部教授(社会学)・千田有紀は「キズナアイ」をフェミニズムの立場から批評し、オタクの恨みを買った。その千田は、今では「トランスフォビックだ」と非難されて研究・論壇業界から「キャンセル」されかけていると訴える。

 ここで「どちらがより妥当である」といった拙速な論評は控えるが、こうした諍いの種は、フェミニズムの考え方・理論に内在している。フェミニズムは、「女性であるという経験」を尊重する。しかし、「女性であるという経験」には、重なる部分と、ひとりひとり異なる部分がある。現在の主流派フェミニズムは、こうした「異なる部分」を超えて広く連帯をしようとする。トランス女性を包摂するのもこの実践の一例だ。この理念を「インターセクショナリティ」という。

 私にとっての「女性であるという経験」は、ほかの女性たちにとって同じだとは限りませんし、私にとっての利益が他の女性たちにとっての利益とも限りません。女性たちの間で利害が対立することだってある。けれども、フェミニズムは「あらゆる女性たちのもの」です。そして、だからこそフェミニズムは対立する声を抑えず、異なる経験を持ち、異なる立場にある異なる女性たちが、互いに互いの存在を知り、互いを尊重するよう、求めるのです。(清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文春新書 2022年16頁)

しかし、フェミニズムへの参入者が多様になるほど、様々な異なる価値観を持つ個人間で、折り合えなくなるリスクは高まる。ひとりひとりが社会生活において譲れないものを抱えているならば、なおさらだ。実際、高い理想と比べた実情はどうか。千田と清水の「対立する声」は、次のような状態に陥っている。

※ぽんたcafeは千田のアカウント。

このように「女性であるという経験」は主観的なものであるため、ある人と別の人が、常に同意や共感で連帯できるとは限らない。どうしても同意や共感できなかった人物や人びとは、悪玉や、正当化不能な異物であるとされて、敵視や排除される。ケアや共感の原理は、ある道徳共同体から敵視・排除された者に対しては、とても冷淡に見える。

【推奨記事】

フェミニズムの「むずかしさ」に向き合う(読書メモ:『むずかしい女性が変えてきた:あたらしいフェミニズム史』)/道徳的動物日記


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?