オリジナル版『ルックバック』のよさは、能力主義と格差の描写にあった。修正版は、敵が安っぽいネオリベ風に改変されて悪くなった。

はじめに

「『ルックバック』の描写は、精神疾患患者への差別である」。こうした批判をジャンプ+編集部が受け入れ、新たに修正版を公開しました。編集部としては、「作中の描写が偏見や差別の助長につながることは避けたいと考え」た結果であるとのことです。

私は修正版を読んで、率直に言って問題のシーンが「かなり気の抜けた表現になってしまったなぁ」と残念に思いました。どこがどう違うのかを「勝者と敗者」「格差」「能力主義」といったキーワードから語ります。

オリジナル版にあった犯人の創作コンプレックスが消えてしまった。

「オリジナル」版の殺人犯は、京本に対し、「自分の絵をパクりやがって」と非難を浴びせていました。また学内に飾られている絵画から、自分を罵倒する声が聞こえた、と新聞で凶行の動機を報じられていました。これらの情報から察するに、「犯人は創作を志し、挫折しコンプレックスを抱えてしまった人だ」と解釈することも可能でした。ちなみにこれは既に多くの人が指摘する解釈です。また周知の通り、このセリフは京アニ放火事件の犯人のものと酷似しています。京アニの社会的評価の高さと、犯人の憤りの強さは無関係ではなかったでしょう。

少なくともオリジナル版の『ルックバック』には、創作の世界における"勝者"に、"敗者"ないしは傍観者が逆恨みした、と解釈できる格差の構図がありました。創作者として成功すれば、富や名声を得る。成功できない凡人たちは、成功者を妬むかもしれないし、成功者を引き下ろそうと画策するかもしれない。

この現実にも通じる格差構造を欺かず描いたことが、オリジナル版『ルックバック』を冷たくも美しい作品にした、と私は考えています。京本と藤野は互いに切磋琢磨し表現力を高め、成功のステージを駆け上がっていきました。「私より絵、ウマい奴がいるなんて絶対に許せない」。藤野は叫びます。問題のシーンまでは、こうした能力主義による切磋琢磨の疾走と成功の快楽が心地よい漫画です。

能力主義とは次のようなものですが、この記事では能力主義に伴う切磋琢磨や友情、成功の快楽といったものもこれに含めたいと思います。

能力主義(のうりょくしゅぎ)とは、個々人の能力の査定結果を人物評価の基準とし、待遇として反映する主義。(Wikipedia

これに対し、犯人の描写は全体のボリュームと比して僅かに過ぎません。しかし少なくとも私には、勝者(藤野・京本)と敗者(殺人犯)の残酷な対比の鮮やかさが印象的でした。

ところが修正後の殺人犯の言動は、"強者"と見なせるものに仕上がっています。京本に対し、「絵を描いて馬鹿じゃねえのか!?社会の役に立てねえクセしてさあ!?」と罵り、絵を描くことの社会的価値を低く見積もっています。「社会の役に立たない ⇒ 殺す」は、「生産性がない人間はいらない」に近く、安っぽいネオリベや優生思想を悪役にし直したかのようです。読者は修正後、安っぽいネオリベや優生思想を安心して憎めばよくなったのでしょうか。

でもあれ?先ほどまで我々は、京本と藤野を介して能力主義の快楽を楽しんでいたはずでは……と違和感が出てきませんか。能力主義とは、生産性のある人間を讃え、生産性の低い人間を低く評価するものであるはずです。

加えて新聞記事で「誰でもよかった」と動機が報じられ、犯人の絵画(美大)への執着・因縁が絶ち切られています。

これらを犯人の「酸っぱい葡萄の心理」の現れと見做すことは可能でしょう。つまり犯人は本当は、京本をはじめとした美大の学生(創作者の卵)に、嫉妬のような感情を抱いていた。しかし外面的には嘘をついた。「社会の役に立てねえクセして」との京本への悪態は、本心を偽って発したものだ、と。

しかしそこまで意を汲むのは、かなりアクロバティックだと思います。いずれにせよオリジナル版が見せた鮮やかな対比の後では、どうしても無難な悪へと描き直された、散漫なセリフに見えてしまいます。

オリジナル版の犯人描写に、いいところは何もなかったのか?

他にもオリジナル版の犯人描写は、「犯人の言動は統合失調症患者のようだ」「狂人・狂気をステレオタイプに描いている」と見なされ、「統合失調症患者は殺人を犯しやすい」「意思疎通不可能な殺人鬼」との偏見を広めてしまう恐れがあると批判されました。

作中で殺人のきっかけとなったのは、絵画に罵倒されたとか、アイデアをパクられたといった「妄想」です。しかしオリジナル版の犯人の妄想=思考には、加害に至る暴力性と、現実を過剰に感知する能力が混在しているように見えます。なぜならオリジナル版では、創作の世界とは、剽窃(パクり)に憤って人を殺すほど、そこに賭ける価値があるものであること。また絵画には、人の感情を逆撫でする力があること。少なくともこうしたことを、犯人はよく感受していたからです。それは暴力と同じく過剰すぎたのかもしれません。そうであっても犯人の心情は、ある程度理解できるものだと私には思えます。

これに対し修正後の犯人は、創作が持つ社会的影響力への感度を、ほとんど失ってしまったかのようです。「絵描いて馬鹿じゃねえのか」「社会の役に立てねえクセしてさあ」・・・。こんな老害っぽい人、今そんなにいないでしょう? ジャンプ漫画が世間の流行をたびたび作り出し、エンタメ産業が人々を魅了しているこの社会を、犯人は知らないないのでしょうか。

つまり修正後の犯人は、より「鈍感」で化石的、読者から「共感困難」なものへと改悪されてしまっています。私には、修正後の犯人が"狂人っぽくない"という理由で読者との心理的距離が近づいたようには、とても思えません。

付け加えるなら、オリジナル版で統合失調症患者への差別を懸念した人びとも、オリジナル版の犯人が持つごく普通の人々との共通性、共感できる面には、あまり関心を払わなかったように思います。

総括すると、精神疾患者への偏見を助長する表現を「修正版」で改めたのは良かった。しかし差別表現の是正に配慮しすぎるあまり、残すべき「犯人の帯びる共感性」や、「能力主義の残酷さ」「対立が匂わせる格差」の表現まで薄めてしまったのはダメだった。これが私の不満となります。

(※追記:現実の力学を想像すると、作者の意向や編集部の決定を強く責められはしません。その上で仮に、私に決定権があってどうしても不満足な改変版とオリジナル版で選ばざるを得ないのなら、「差別的な」オリジナル版を守るでしょう。)

"修正"により、読者は「やましさ」から免除された。

オリジナル版の犯人の感情の一部は、コンプレックスや嫉妬やルサンチマンと呼びうるものです。それは通常の文脈では、ポジティブに評価されません。読者は、「犯人に共感できる」などと積極的に表明したくはないでしょう。修正によって、読者はこうした負の感情に共感する「やましさ」を免除されたと言えます。

冒頭で述べたように、『ルックバック』の切磋琢磨と成功のドラマは、能力主義の快楽です。ところでマイケル・サンデルの『実力も運のうち』が語るように、能力主義なるものは現実には、貧富や権力の格差を温存する不公平なイデオロギーにすぎない事がしばしばです。

それでも、少なくともフィクションにおいては部分的な真理があると思います。『ルックバック』のように優れたフィクションを読むと、生まれつきであれ努力の成果であれ、卓越した能力を持つ人々しか到達できない世界、開示することができない世界があるように感じられます。例えば『ブルーピリオド』は面白かったです。フィクションにしかあり得ない、「盛った」表現なのかもしれませんが。

能力主義のドラマには、どこかの地点で、凡庸な読者と能力主義的な人物との間に、壁や断絶が生じているはずです。しかし自己啓発本が売れ、シバキ気質の政治家や経営者といったエリートに人気が集まるように、凡人たる我々は、うまく調子を合わせて能力主義の快楽を享受します。これは一種の誤魔化しです。この心理を発動し、京本と自分を「社会の役に立たない存在」と同じ側にくくることも、できるかもしれません。

しかし本当は、キャラクターの特質に着目して共感困難な壁や高度差を感じてこそ、描かれる人物とドラマがより魅力的に映るのではないでしょうか。

"創作世界の強者"である京本を、修正後の『ルックバック』は問題のシーンで「社会の役に立たない存在」として、凡人・弱者の側に寄り添う正反対なものに描き直してしまった。これは欺瞞的で、不整合な改変だったというのが、この記事の結論になります。

「ハイレベルな者たちの世界」を描く作品は、能力主義の加速によって大抵は凡人である読者を時に突き放すものですが、同時に壁を感じてなお追体験する価値のあるものです。どうか凡人・弱者に配慮するあまり、「一緒にネオリベと戦おう」のような、紋切り型に収まらないでほしいなと思います。

「生れのよい人々」は自分たち自身をまさに「幸福な者」と感じた。彼らはまず敵の様子を見てから自分たち自身の幸福を人為的に組み立てたり、場合によっては説きつけたり、瞞しつけたりする(<<反感>>をもつすべての人々のいつもするように)必要がなかった。同様にまた彼らは、充ち足りた、有り余る力をもった、従って必然に能動的な人間として、幸福から行動を分離するすべをも知らなかった。――彼らにあっては、活動しているということは必然に幸福の一部なのだ(「うまく行く」という言葉はここから来ている)……(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫  38-39頁)


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