脈動する小説ーー『推し、燃ゆ』について

『推し、燃ゆ』は優れた小説だが、その優越について語るのを難しく感じていた。僕にとって最も意味のある表現は「こんな小説を書きたいとずっと思っていた」だが、なかなかそれでは通じない。では人の感想がピンと来るかというとすぐにそういうものも見つからない。若者のリアルだとか「推し」という新概念の描写が凄いとか、そういう表面的なものは「そりゃそうだ」という感じである。しかもそれ以上に教科書的な得点を稼いでおり、アイドルと天皇や神格の関係、信仰と実存の関係をこれ以上なく見事に描き出している。でも、そういうことはやはり表層的な評言に過ぎないと感じてしまう。

高帯の表4側には各作家の称賛が記載されているが、それもほとんどはピンと来ない。敷いて言えば高橋源一郎の「すごかった。ほんとに」が一番実感と一致するが、とはいえこれは内容が皆無だ。その中でもっとも意味があるように思えたのは島本理生の「うわべでも理屈でもない命のようなもの」という表現である。この表現には少し共感を覚えた。というのは、この小説には命のようなものを感じたからである。

だが命とはなんだろうか? 島本氏がどう考えたかは知る由もないが、僕にはこう思われた。命と言っても、青春の煌めきとか、熱意とか、魂とかそういうことではなくてーーもちろんそういう要素がたいへん強くあるのだがーー命なのである。ではそういう迸りとは異なった意味での命とはいったい何なのか。それは"脈動"であり"律動"、あるいは"心拍"である。その延長線的な比喩で言えば、"鼓動"とも言えるかもしれない。

この小説には文体的にもイメージ的にも"脈動"が満ちている。いま述べたこれらの言葉が示すのは心臓の存在論だが、と同時に運動の存在論でもあり、不安や感情の存在論でもある。この作品には生と性の"脈動"が細部にまで行き渡っている。

わかりやすいところで言えば、感情の起伏はその一形態である。推しを匿名の一人として遠くから応援していたい(個人として愛されたいわけではない)が、接触イベントでハグされた話を聞いて「やっば」と意気込んでしまう。熱くなってしまうのだ。疾患があるので生活に困難があるが、推しについて考えると活力が湧き、すべての関連情報をリサーチしラジオの文字起こしをブログにまとめまくってしまう。推しが人気投票で敗北すると全力で買い支えねばならないという気持ちに駆られる。盛り上がりがある一方で、ダウナーな学校生活やバイト先、もしくは家庭でのやり取りがある。このようなアップダウンを繰り返すのが本書である。

とはいえ、事件と日常が交互に訪れるのはフィクションとして普通のことだし、上記のような話も所詮はある人物の性格設定に過ぎないと思われるかもしれない。パーツとして考えればその通りである。本作で重要なのは、このような主観的現象としての起伏が、主人公の一人称から描かれることで、主人公自身の生として再現されているところだと思う。

どういうことか。小説とは当然だが書かれたものである。書かれたものであるということにまつわるいくつかの条件がある。表面的な言い方だが、客観的に描かれたものは主観的ではない。一般に小説などの評価として「主観的」であることは悪評であることが多い。「客観的である」「客観視できている」ことが腕前の証明で、なぜかというと書かれた文章が読者を想定しているかどうかに関わるからだ。この場合「主観的」というのは他者に読まれることを想定していない文章ということになる。

だが、ここで述べたい主観と客観の弁別は別レベルのものである。客観的に描くというのはほぼ内的臨場感を棄却するということを意味する。逆に言えば、主観的に描くとは内的臨場感を再現するということを意味する。この小説は少なからず後者にコミットしていると思う。

問題は、単に一人称で描けば主観的に描くことが成功するわけではないということである。これは表現力の巧拙の問題でもあるが、それだけではなく、経験の形式が異なっているという事情に起因した問題である。我々はある出来事を経験するときに、ほとんどの場合、読書をするようにその出来事を文章で経験するわけではない。したがって文章による経験とは常に再現的になるのだが、その再現はもっぱら日記的な磁場を帯びる。回想的になるということだ。

これは表面的に思い出すように書いているからとか、過去形を用いて書いているからという意味ではない。そうではなく、言葉によって言葉でない出来事を描写すると、ほとんどの場合現実よりも速度が遅くなる、という事情を述べている。これは言語介入のポテンシャルを示唆しているものでもあるが、たとえば小説の中で出来事としては1秒に満たないようなシーンを描写したとして、そこに1000字も2000字も費やすことが可能である。そうなると読書のスピードとしても1秒にはならないだろう(逆に「そこには一万人の人々が詰めかけていた」などと書けば、一行よりも遥かに多くの時間的情報量を示すことも可能な場合もある。といってもこの場合時間を量に変換しているのだが)。

また一人称であるということは内省的であることを示唆してもいる。自分が考えていることを読者にも伝わるような形式に解凍して文章化すると、それだけで文章が冗長化する可能性が高い。そうすると、そのままの表現を取るだけで小説内時間が鈍化する。これは小説の例ではないが、『SLAM DUNK』における山王戦や、『アカギ』における鷲巣麻雀を思い出すとよい。前者においては応戦の機微を繊細に書いた結果、数十分の試合に一年以上が費やされることになったし、後者においては牌を一個捨てる(捨てない)のに一話をかけるようなことをした結果、一夜の試合を描写するのに二十年をかけることになった。

回想的という言葉には必ずしもそういう意味合いはないのだが、ここで僕は、回想的に再現される表象は時間が鈍化している、というようなニュアンスで使いたいと思っている。

さて、しかし、本書を読んでいると感じるのは主観時間と小説内時間の一致とも呼べるような感覚である。これは優れて文体の問題と言える。そのため、まるで同じ生を共有しているかのような気持ちになる。これは文章表現であるにもかかわらず映画的と言い換えることができるかもしれない。それを成立させている文体上の特徴は、短文を連打することによるビート感の維持と、内省と情景描写の絶妙な混合、そして切れ味のある看板的表現の意図的な設定である。

たとえばこういう表現がある。取り上げたのはたまたま見当たったからに過ぎない。


 人生で一番最初の記憶は真下から見上げた緑色の姿で、十二歳だった推しはそのときピーターパンを演じていた。あたしは四歳だった。ワイヤーにつるされた推しが頭の上を飛んで行った瞬間から人生が始まったと言ってもいい。(9)


この表現自体すぐに三島由紀夫を想起するし、上を見上げる・上を推しが飛ぶという落差の表現が例のアップダウンの比喩の一例でもあり、かつ『ボヴァリー夫人』の有名な帽子の描写をこれまた彷彿とさせるし、もしかしたら「あたしは四歳〜」からの描写は、『アデンアラビア』の「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生のいちばん美しい年齢だなだとだれにも言わせまい」という冒頭の文章を念頭に置いているのかもしれないーーなど、どうにも文学的ポケットを教科書的に刺激していくるという印象が強い。はっきり言ってこの一節から小説が始まってもいいくらいの極まりがあるが、周知の通りこの小説の始まりは「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」である。この表現も、カミュの「今日、ママンが死んだ」という冒頭を思い出させられる。

上記の引用について取り急ぎ説明を付け加えると、回想的に綴られている文章だが、中間に「あたしは四歳だった」という短文が入り、それがリズムを調整し、自分の主観認識が説明される信号となり、その「瞬間から人生が始まった」という判断について語る文章が繋がることとなる。こういう内省と描写のバランスが作品全体にわたって統制されているというのが、この小説のもっとも素晴らしい美徳だと思う。それから、柄谷行人を彷彿とさせる「と言ってもいい」という文末には批評的断言もしくは「カマシ」を感じる。このような看板的決めゼリフが要所要所に登場するのであった。

こういう文章的な律動をたとえば町田康などの作家に思い出すことは容易いが、こちらが言語の快楽みたいなものを前傾的に体現しているように感じられることを思うと遺伝子が異なっているように思われた。最初に僕が彷彿としたのは舞城王太郎の『阿修羅ガール』だった。そこから三島賞的な雰囲気を嗅ぐことは容易いのだが、村上龍に強い影響を受けているらしいこの著者のことを思うと、類似を感じるのは構造的な結果だと思われた。むしろ村上龍は描写によって時間を吹き飛ばし、カメラアイの安定性を破壊する作家のように思われるゆえ(そしてこの小説の村上龍的な部分は、これまで説明してきたことと同等程度に重要な核心だと思っているのだが、今回はそれについて触れる余裕がない)。

もちろんこの小説が読書の時間と作品内時間を完全に一致させているということは当然ない。なぜならばそうであるとすれば、高校在学中からその中退までを描いた本作を読み切るまでに一年以上の月日を費やす必要があるはずだからだ。だから、内的臨場感を再現するとは必ずしも時間を常時一致させるということではない。そうではなく、言うなればときめきが起こる瞬間に強制的に同期させられるような文体の力が、本書の主観的臨場感を過不足なく読者に与える結果につながっていると思う。その流れが、作品に「命」を感じるという結果に接続する。

これは思いつきに過ぎないが、もしかしたらこの臨場感の感覚は、主人公であるあかりが推しに対して感じている時間的距離感覚と同じ構造のものなのかもしれない。推しが強くその命を燃やすとき、我々もまたそこに臨場感の共有を行うことになる。実際、読者のほとんどはあかりの信仰の対象である推しに対して感情移入するということはないだろう。我々は推しの神聖に対してあかりを通じてしか肉薄することができない。

(と、ここまで書いていて気づいたことだが、主人公の脈動は二段階になっている。すなわち、推しに出会う以前の地下の生から、推しに出会ってからの地上の生、そして推しの事件によって否応なく惹起される空の生である。だから、この作品では単にオンとオフの脈動があるわけではない。それはもしかしたら重要な問題なのかもしれないが、また今度考えるときにまで問題をとっておくことにする。)


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