シン・エヴァ見ました(1)

シン・エヴァ見ました


何を一番に伝えればいいのだろうか。うろ覚えで間違いがあっても勘弁してね。乱文御免。

(2)ゲンドウについて、はこちら

(3)アスカについて、はこちら

■全体
前半の第三村での生活はきつかった。黒波を赤ん坊に見立て、人形だった彼女が自分自身になっていく流れは論理的にわかるが、上ずった戯画的な演技がずっときつかった。何を見せられているんだろうと思った。しかし後半に行くほど納得感がまし、最低限の謎にも回答が与えられ、TV版、EoEも射程に入れた展開に興奮を禁じ得なかった。俺は素晴らしいと思わざるを得なかった。成仏したかどうかはわからない。けれど、否定しようにも否定しきれない説得力を感じた。

エヴァはシンジたち子供のレイヤー、ミサトたち若者のレイヤー、そしてゲンドウたち大人のレイヤーに三層からなる物語である。旧来は、ゲンドウたちのシナリオと、道具としての子供たちのはざまで、若者たちが翻弄されるという物語であった。

しかし新劇場版ではこの構造が変わった。具体的には若者のレイヤーがなくなった。謎に翻弄されるのではなく、シナリオを知る立場として振る舞うようになった。それが明確に具体的になったのがQである。Qでは、物語の現在時から大きく時が経ち、シンジやアスカ、レイ以外の人々は年を食った。この結果、若者たちは準・大人のレイヤーとして振る舞うことになり、ヴィレとネルフの対決は大人の対決となった。一方で、今回のシンで明らかになったのは、シンジたちの同級生であるトウジ、ケンスケ、ヒカリなども年を取り、そして子供を生むなどしているということで、準・若者のレイヤーとなっているということだ。ところが、シンジたちの時は止まっている。

この時の静止は古参エヴァファンの隠喩でもある。TV版当時14歳だった人はいま40くらいだろうか。にもかかわらず同じようにエヴァに触れているのであれば、その時は止まっている。こんなコンテンツいったい他にどこにあるのだろうか。とはいえ、かつてのエヴァがそうであったように、作品が外部である消費者を操作しようと思ったようには僕は思わない。ただ、その隠喩的要素をどうしようもなくもってしまった、作品の中で静止してしまったチルドレンたちの時間を、どうやってか動かそうとした、そういうテーマを持っていたように思う。シンジに年をとらせたからといって、ファンにも精神的に年を取らせようとしたわけではない。そもそもキャラクターに年をとらせるなんて本当は簡単なはずだ。年をとらない呪いがかかったのはエヴァのチルドレンだけと言ってもよいのではないか。

それは実は子供に限ったことではなく、むしろ大人レイヤーに属していたゲンドウと冬月、それからユイにこそ言えることだった(もっとも今回ユイはセリフがなかったと思うが)。静止してしまった大人と子供の時間を同時に動かすことが今回なされていたように思う。その過程で、年を食わない(虚構的)存在たちはみんな滅びてしまった。残ったのはシンジだけだ。それは作品の「けじめ」だったようにも思える。カヲルが死んですっかりーーいつもどおりにーーうちにこもってしまったシンジが、立ち上がって行おうとしたことは、父親のけじめを取ることだった。

シンジが急に大人びたのは、自分を好きでいてくれた黒波が死んだからである。とはいえ、突然大人びてしまったようにも思えたし、都合がいいような気もした。アスカが、なぜ自分がシンジを殴ろうとしたかの理由を考えろといって、最初はわからなかったのに、それにきちんと答えることができたのも、答えることができただけの決定的な理由はないように思えた。答えられるのだとすれば、本当は最初からわかっていたからではないのか。とはいえ、そうして人々からの不信を払拭し、最後のパイロットとしてシンジは立ち上がっていった。それからのシンジの活躍は憑き物落とし無双といったもので、ゲンドウと別れると、続いてアスカ、カヲル、レイと補完をしていく。もちろんミサトや加持の意志を背負っていたという後押しがあるにしても、今あらためて振り返ってみると、少し出来すぎといった感じがあるかもしれない。ただ、それくらいゲンドウとの決着が重要な意味を持っていたのだとも言える。

物議を醸すシーンとして、アスカがシンジに「かつて好きだった」と言い、補完の果てにEoEの海岸に打ち上げられたアスカと再会し、シンジが「僕もかつて好きだった」と述べるところがある。それは別れの挨拶であり、まるでシンジがアスカを振ったようにも思える。この物語ではアスカはなんとケンスケとくっついているようだから、シンジからすればアスカの現在を肯定しただけとも言えるが、シンジはさっぱりしすぎたとも思える。すでにシンジは子供時代と決別していたのである。シンジにとってチルドレンの補完は、子供時代との決別に他ならない。

それを証明するかのように、シン・エヴァのラストシーケンスは、成長し声がわりしたシンジとマリが連れ添っている描写である。まさかのマリエンドである。そんなことがあるのかと思わされる。けれど、出されてみるとそうでしかありえない。というのも、かつてよくアスカはシンジにとって他者だと言われたが、それから25年ほど経ち、アスカはもはや他者ではなくなっていた(そもそも惣流ではなく式波である…)。物語の外部にあるのは、明らかにマリである。だがマリはなんのために必要とされたのか?(イスカリオテのマリアとか作中で呼ばれていたがこの意味は全く考えていない。誰か謎解きして。)どうもユイと同年代の人物として、(マンガも含めて)謎に大人の一味であるような設定がなされていたのに、結局そこのところはよくわからなかった。わからなかったが、まるでユイやレイの代わりをするかのように、「どこにいても必ず見つけ出す」といって、補完の果てに記号に還元されそうになっていたシンジを救ったのはマリであった。多分あそこにマリがいなければ「おめでとう」ルートになっていたのだろう。

シンジとマリがくっついたのは、こうしてみると結果論に思える。けれど、物語の外にシンジを連れていき、物語の中で凍ったシンジの時間を動かすことができたのは、マリだけだったのだと思える。そう描かれたから、そうだ、と納得しているだけかもしれない。けれどそう描かれた今、僕には特にこれを批判する気になれない。25年経った今、アスカもレイもカヲルも、ただシンジを物語の中に閉じ込めるだけだ。というよりも、アスカたちを補完しきり、ミサトも死に、そしてユイの視線すらもを失ってしまえば、シンジを観測するものがいなくなってしまう。リビルドによっては描かれなかった外のチルドレンであるマリ(そもそも子供ではない)は、初めからこの結末のために用意されていた外部のように思えてならない。とはいえそれも終わったから言えることだ。物語が予定調和に終わったように見えるのも結果論に過ぎない。結果から見るとこれだけが正解だったように思える、としか言いようがない。それは批評的には敗北なのかもしれないが、僕は素朴に、究極の二次創作を見せられた、という気持ちになった。

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