「本を買うのに電車で15分」と彼は不満気に言った
小学生の頃、夏休みの楽しみといえば、東京に住む一歳上の従兄が里帰りしてくることだった。
普段遊び相手がいない私の相手をしてくれるのがうれしかったのもあるが、彼が里帰りの度に持ってくる、田舎では見かけることのないマンガやおもちゃが楽しみだった。コカ・コーラのヨーヨーも、ルービックキューブも、ゲームウォッチも、彼がいち早く手に入れて我が家に持ってきた。
私が小学四年生の夏、彼が持ってきたのは手塚治虫の『ブッダ』の1〜13巻であった。当時、手塚治虫は『鉄腕アトム』で知ってはいたが、他にどんな作品を描いているのかも知らなかった。ましてや『ブッダ』の連載は1972年から。私も彼もまだ生まれていない。お釈迦様の生涯なんて何が面白いのだろうか?そんな思いの中、読みはじめた。
13巻読み切るまでに3日もかからなかった。なんていう漫画なんだ、面白い、面白すぎる。そして私は最終巻が何故ないのかと尋ねた。(刊行された単行本は1974年からはじまり、最終巻の14巻は1984年6月に刊行されている。)
「近所の古本屋で10巻まで買って、残りは新刊で買ったんだ。」
古本屋、なんて都会的な響きなんだろう。古い本どころか、近所に新刊本を扱う書店すらない環境で育った私には、彼の環境は羨ましくてたまらなかった。そしてそこで『ブッダ』を買う従兄のセンスも羨ましく思った。
彼は続けてこういった。
「最終巻は買いそびれたんだよ。だって、本を買うのに電車に15分も乗らなくちゃならないから。」
その不満気な顔に、都会と田舎に生まれ育つことの差を感じた。私の育った町は市街地からも遠く、町内にスーパーはなく、小さな八百屋と魚屋が一軒づつ、学校前に駄菓子屋兼雑貨屋があるだけ。書店は車で20分以上離れたところにあり、子どもが自転車でいける場所ではなかった。学校の図書館にも限界があり、欲しい本もなかなか手に入れられず悶々としていた私にとって、電車で15分でいける書店なんて、ドアを開けたら「すぐ目の前」ぐらいの感覚だった。
高校生になり、行動範囲も広くなると自由に書店にも行き来できるようになり、財布とは相談になるが好きなときに好きな本を買えるようになった。追いつかない部分は図書館で借りて、年間2〜300冊読み倒していた。それは従兄との差を埋めていく作業であり、本を読むことで追いつきたい、何処かでそんな思いもあったかもしれない。
その頃になると従兄は流石に夏休みの里帰りはせず、美術館や映画館、ライブなどに頻繁に出入りしたり、秋葉原の電気街に通って自作PCを作ったりしていた。興味に対して「機会」も「場所」も「時間」も「金銭」も、都会の優位性をフル活用して私などより広く、そして深い「経験値」を得ていた。彼との差は広がっていくばかりだった。
田舎には田舎の「経験値」があるが、文化的な「経験値」でいえば、都会に生まれ育った人の方がより広く、深いものを得ていると思っていた。その「経験値」の中から、自分の「好き」を早い段階で発見し、それをより深く突き詰めていけるか。特に幼い頃にどれだけの経験値を積めるかは、その後の人生の中で大きな差としてあらわれてくるのだろうと。
しかし長じて分かったことは、都会生まれの人、全てがそれに当てはまるわけではなく、優位性に気づかず「経験値」に変換できていなければ、田舎暮らしとさして変わらないということだった。今まで出会った人で「これは敵わないな」という人の多くが都会生まれで、早い段階で自らの「好き」に気付いて深堀りしていたから、都会に生まれれば、皆そうなるものだと思い込んでいた。よくよく考えてみれば、そんなことある訳がない。
ネットの普及で田舎であっても買い物は便利になった。でもネットでは補いきれない部分も多い。例えば本を買うにしても、都会にある大型書店へ行くのと、ネットで買うのは明らかに違う。目的の本を探すのに、大型書店なら売り場に見当をつけ、書棚を一つひとつ見て探すが、ネットなら入力して検索すればものの数秒で表示される。そこに寄り道があるかないかだ。それを「ムダ」とか「不便」と言う人もいるが、一方でその寄り道や脱線こそ、ワクワクの源になるし、経験値として積み重ねることが出来るのだ。
ここまで話すと、田舎が都会に劣るようにとられるかもしれないが、そうではない。田舎にいてもその状況の中で学ぶべきもの、面白いものを発見できるかで、経験値を積み上げることが出来る。要するに都会にいる優位性があるなら、田舎にいることの優位性だってあるはずなのだ。私はそれに気付かずに都会の方ばかりを見て、経験値に変えられなかった。それは民俗学的なものでもよかったし、自然に関する物事を探求してもよかったのだ。今となってみれば、やってみたかったことが次々と見つかって、なんと無為に過ごしてしまったことかと後悔している。
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