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今敏を追って #2

今敏監督の作品にあるテーマ。

それは「虚実」の交錯。
「虚」は視点により「実」となり意味を成す。
「実」は視点により「虚」となり意味を成さない。

複雑に絡み合う「虚実」が作品の終わりに向かい交錯し調和しながら進んでいく。

「現実と虚構の交錯」を大きなテーマあげている作品が多くあり、これは監督の人生のテーマでもあったのではと今では感じている。
監督の人生という視点で一つ一つの作品を見ると、また今まで見てきた作品に新たな意味が見出せる。


夢を見ること。

監督の作品をを見終わってから時間が経過した今でも、映画の内容を考え続けている。

「現実と虚構の交錯」
これは僕たち「現実」の人間が、作品という「虚構」を思い続ける構図にもよく似ている。


夢を見ている。
多くの映画の余韻は夢から覚めた余韻に似ているが、監督の作品はふとした時に作品の中に引き戻されるのだ。
そう。引き戻されるのである。

作品鑑賞後から、白昼夢よろしく自分の意識がどこかにいってしまう。
現実世界にいるのに、頭は監督の作品をを観ている。

監督は、虚実を、偽りの自分を、アイドルや女優、作品内の映像作品として表現をしていた。
けれど、晩年はどうか。
虚実の境目がより曖昧になり、「夢」として表現することが増えてきた。

演じることで「虚」を表現していた部分から、「夢」を使うことでより「虚実」の輪郭をぼやかしてきた。

絵画の手法に「マーブリング」というものがある。
水面に絵の具を垂らし、フヨフヨと広がる絵の具を映し取っていく技法である。
この絵の具を写し取らないと、そのうちゆっくりと色が混ざっていき輪郭がぼやけて曖昧な色味になっていく。
そしてそれは決して元に戻すことができず、水面上で新しい色となっていく。

監督の初期の作品は、「虚実」の真偽が分かりずらくはあったが、まだはっきりと輪郭があった。

晩年の作品はよりその輪郭すら曖昧となり、作品の途中ではもはや判別することが難しい。
「夢」となった「虚」の表現は演者であった登場人物たちの作品に比べより自分の中の「虚実」の境界線がなくなり、登場人物本人たちにとってそれは全て「実」となっていった。
作品の終わりに向かい新しい色となりまとまっていくその「夢」の色は最後にはひとつの新しい意味を持って収束していく。

今監督の原動力はなんだったのだろうか。
とある映画監督は今敏のことを「イリュージョニスト」と呼ぶ。

頭の中のイメージを書き出す。
二重人格、過去の回想、奇跡を願う、妄想、夢

全ては頭の中のイメージ。
現実には起きていない『虚』、しかし本人にとってそのイメージは『実』

頭の中のイメージを書き出す。

これが監督がアニメ作品を作り出す原動力となり、書き出している「虚」を他人に追体験させ「実」とする。

他人に夢を見せる。
だから「イリュージョニスト」と呼ばれたのではないか。

#3につづく?



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