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自分のため?社会のため?


 電車の中はなぜあんなに暗く重苦しい空間なのかな、私を含め、ほとんどの人がスマホを片手に不幸せだというオーラを放っているような?だけど実は、3ヶ月に一度は電車内でマスク内に密かに涙がこぼれる瞬間があるのです。

私はある日、電車の端に座っていました。すると横に赤ちゃんを抱きかかえたお母さんが現れたので、席を譲ろうとすると
「次の駅で降りるから大丈夫ですよ〜」と言います。
私は素直に受け止め座り直してしまい、、
そんな次の瞬間女子高生がめまいをして倒れそうになったらしく、赤ちゃんを抱きかけたお母さんが1番に気づき、すぐに彼女を支えます。
その事態に気づいた花柄のワンピースを着た女性も同時に女子高生を支えます。
お母さんはその女子高生と一緒に次の駅で降りますが、赤ちゃんがいるので充分に支えられません。
するとそこにはまた別の女性が電車から降りてその子を支えました。

そのたった4分間の出来事に自然と涙がこぼれてしまいました。自分はその尊い時間に関わっていないというモヤモヤはありつつも
見ず知らずの人同士で助け合う瞬間ほど力強い感情がぐぅーーーーと押し寄せることはない気がしました。
この助け合い精神が今の日本社会に必要なのでは?と最近考えます。

でも人を気にかける、助けるを常に意識するのは難しいと思うのです。心にも時間にも余裕がない時、心が病んでしまう時は誰にでもあるはずです。人とできれば話したくないし、人のことを考えている余裕がない。そんなことより、自分にフォーカスしたい。誰だって絶対にそう思う時間が120000%あると断言できます。
自分が満足していないと、人の役に立つことなんてできない。それはあるのではないかと思います。

でもふとした瞬間から、なぜか人の役に立ちたいと思うのです。人はたった1分1行でもでも誰かの言葉や言動によって考えが変わります。
それはどんなきっかけかはわかりません。

私にとって、それは対話の時間でした。 それはある尊敬するプロダンサーの方が、

「自分が骨折して弱い立場になった時、ダンサー、女優として消費的に満足させる、満足するのではなく、苦しんでいる誰かの役に立てることをしたいと改めて思うようになった」

と言っていたこと。

以前の私は、とにかく今はやりたいこと、自分の夢を追いかけるのに必死になっていました。そして夢さえも少し自分勝手になっていました。それは、全く否定することではないと今でも思います。そして人の役に立ちたいという考えはエゴなのだとも考える時があります。
特に誰かに評価を求めてる時です。 
(それで誰かが救われるならWin-Winですけど!結果オーライですけど!)
そう思ってから、人に役に立つ事って本当にみんなしたいの?と思い始めるように、、

でも、その言葉に改めてハッと気付かされたんです。

私はその言葉に感化され、自然と私も「誰がの力になりたい」とそう思いました。
その時こそ1番のチャンスなのではないかと思うのです。
さっきの電車の中のように、、ふとした瞬間に自分がやらなくちゃ、自分ならできると思って自然と体が動く時。
人と対話をして、人の苦しみを知った時、どうにか改善したいと思う。それをきっかけに行動できればいい。自分にフォーカスする時も、人のために動く時もあっていい。その瞬間は移り変わっていくものだと思うのです。自分はこの境遇で生きてきたからこそ、その助けができる。人によって、力になりたいこと、なれることは違うと思います。だって経験が違うのだから。死にたいと考えたことある人は、その考えを持つ人の気持ちに寄り添うことができる。 お母さんやお父さんは子育ての大変さを知って、何か新しい教育の事業を始めるかもしれません。
社会の問題は複雑に絡み合っているので、自分がすぐにできそうな周りのことをまずはできたらいいなと、、そしたらきっと少しずつ輪が大きくなって伝染していく。そう思うんです。

対話をする事、そしてその言葉の力で誰かの考えが助け合い精神に変わるなら、私も共有したい。
そう思って久しぶりにnoteを更新しました。

読んでくれてありがとうございます。
明日も1ミリ、前でも後ろでも進めますように。

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