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賞状が貰えない子だった

わたしは人を褒めることが好きです。
たぶん、得意だと思います。


正直人に興味関心はあまりないのだけど…
なんていうか、詮索とか監視とかしたがる人もいるみたいだけどそういうのはいいかなって思う。
干渉するのもされるのも苦手かも。

でも、わりと見ていると思います。

良いところとか頑張ってるところ、優しくしてもらったとか、みんなに教えたくなってしまいます。

これはきっと自己満足です。
相手が喜ぶかどうかはあんまり考えてない。
でも褒めたいし、他の人にも良いって思ってほしい気持ちなんだ。


わたしは褒められないこどもだった。
「すごいね。でも……」
何をしたって、運動神経の悪さを引き合いに出されて貶されてばかりだった。

「でも、足遅いから嫌い」「でも、運動神経悪いから意味ないよね」「それくらいできて当たり前だよね」あちこちから心無い幼稚な言葉。
でも 殺傷能力も呪いも強い言葉。



実際、なかなか賞状が貰えない子だった。

小さい頃から絵を描くのが好きだ。
でも、市の展覧会ではなくて市民会館に飾ってもらう程度だった。

ほとんどの教科で「5」(小学校は3段階評価だった気がする)は貰えるけど、それ以上でもそれ以下でもないだけというか。

何かの大会で賞を貰って校長先生に呼ばれて登壇する同級生の背中を見て、いつもふんわりとした劣等感を感じていた。


5年生だかの時、初めて市の展覧会に出す図工作品に選んでもらって、
初めて〝全員が貰えない〟賞状を貰った。

教室で手を挙げることもクラスの人と話すのも苦手だったから、一瞬でも全校生徒の前に立つのはすごく恥ずかしかった。返事をするのも不安だったくらい。


それから「賞状」が貰えるようになっても、
例えばテストで学年1位を取っても、わたしの劣等感は消えなかったし、「でも……」という声は消えなかった。

しかしながらです。
それと同時に、わたしの家族はなぜかわたしとちがって自信に満ち溢れていまして、
「お前が可愛いからみんな僻んで意地悪言うんだよ!」と言うだけでした。
私の娘が孫が可愛くないわけがない!という姿勢だけは変わらない……

もちろん、それもそれで、そんなことねぇだろ……と思うわけですが。

だから何を言われても半信半疑で、心無い言葉にこんなにひねくれてしまったのは事実だけど、
まあ嫉妬されてるのかもな☆という自分も心の中に居なくはないかなという状態で育ちました。

同級生に肯定してもらった記憶はあんまりないけど、家族から否定されたことはないかもなあ。

父親は随分と変な人だったと思うけど、誰よりもわたしの絵を褒めてくれたし、こどもの落書きを喜んでなんだか良さげな額に入れて高いところに飾ってくれた。恥ずかしいけど嬉しかった。


わたしは率先して人を褒めたいと思う。
自信を持ってほしいし、みんなに共感してほしい。こんなに素敵な人なんだって知ってほしい。

いつだか、
ギターがすごく上手なサークルの級友にライブの感想とともにスマホで撮った写真を送った時に、
感謝の言葉とともに、もう弾けるのが当たり前だと思われて最近は誰からも褒められなくなってモチベーションが下がっている…(こんなこと言うの変だよな、ごめん、みたいな文章だった)
と心境を吐露されたことがあって、

上手な人には上手な人なりの悩みがあるのだなあと思ったし、やっぱりみんな褒められたいんだなあと思ったことも印象に残っている。
そりゃそうだよね。

当たり前のことなんて何もないし、
なんでもいちいち褒められるべきだと思った。

思ったことはちゃんと口にして伝えようと思った。

植物も結晶も綺麗な言葉を掛けられた方が綺麗に育つって聞くし。

他の人に寂しい思いってさせたくないし、
ひとりぼっちにもさせたくないんだよ。
これはエゴです。
自分が頑張っても貶されて、悔しいけど言えなくて、ひとりで過ごしてきたからだと思います。


わたしは他人にモチベーション?を左右されることはあまりないし、承認欲求とかあんまりない方だと思うのですが、貰った言葉は大切にしたいです。

嫌な言葉も、忘れられないし、自分の中に残って積み重なっていっちゃうんだけどね。

思ったことをそのまま、綺麗に整えてラッピングして届けたい人に贈れたらいいなって思います。

「贈る」って漢字かわいい。プレゼントみたい。🎁


來世

参加賞/それでも世界が続くなら

ちょっとびっくりサムネかも。ごめんなさい。笑

小学校の運動会で4位以下の人にくれる
「かんとう賞(敢闘賞)」のシールが憎かった。
嬉しくなかった。
それ以外貰ったことないんだもの。笑

1回だけ3位のシール貰えたような……?


さっきnoteに褒められた。ありがとう。

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