スープとお菓子
「やっちゃったな」と、自転車を引いたおじさんは、私を見て同情するように笑っていた。私はその同情に、首を縦に動かして返した。
歩いて30分ほどの家路を急ぎたいけれど、からだを温めたい。
*
「いらっしゃい。」
家族へのあいさつかのようにさりげなく、やわらかな声がふわりと届いた。たったひとことの、私だけに向けられた「おかえり」のように。
私は、水を含んで冷たく重くなったコートを壁に預け、席に着く。
「高波をかぶってしまったんだ。私に向かって防波堤を越えてきて、頭からかぶってしまった。海を眺めていたんだ。波が防波堤の壁に打ちつけられて、花火みたいに散っていた。」
髪から零れる水滴が頬を伝う。
温かい麦茶がことんと置かれた。
「きょうはミネストローネです。」
メニューのようなものはなかった。『スープとお菓子』と書かれた紙が、置き手紙のようにそっと席に添えてある。
ガラス瓶の中には数種類のクッキー、クラッカー、ガラスのケースには果実を焼き込んだケーキとケークサレが並んでいる。
甘い香りの湯気とともに、具材をもりもりとさせたミネストローネが、どんぶり鉢で運ばれてきた。火を通した野菜はほんのりと透けて、明かりを艶っと照らし返している。
「お菓子はすきなものを」
私はガラス瓶のなかから、ローズマリーのクラッカーを選ぶ。
「防波堤脇の、歩道が濡れているのには気づいていたんだ。でも、油断していた。波の音を拾っていて。」
髪から滴る水滴が冷たくテーブルに落ちた。
席の後ろで、焚かれたストーブの炎が揺れる。
海水を被り、つめたい風に晒されたからだをゆらゆらと朱く暖めてくれた。
「明日は初日の出を見るんだ。晴れていても水平線にはいつも雲がかかっている。雲を抜けるところしか見たことがないんだ。水平線から昇る太陽を、明日は見れるかな。」
透き通る甘い香りを掬うごとに、冷たく固まった結晶のようなものが溶かされていく。
空になったどんぶり鉢に、最後のクラッカーの屑が零れた。
「見れるといいね。」
その声は、短い手紙を交わすように私に届く。
私は「うん」と、小さく応えた。波に撫でられた砂浜がきらりとひかりを返すように。