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コロナの時代の愛(2)


 目の前で貝が焼けるのを見ている。深夜である。蛤の汁がふつふつと煮えてくるのをじっと見つめる。
「ちょっと、見すぎ」
 肩をつつかれる。
「いや、こういうのは」シノハラは真面目ぶって応える。「火加減が大事なんで」
 ミヤに飲みなおそう、と誘われて、磯丸水産で貝を焼いている。平日の深夜に客がいるはずもなく、店内にはほとんど人がいない。「人そんないないからだいじょうぶだよね」と言ってミヤは店の真ん中のテーブルに陣取り、ビールを頼んでさっさと飲み始めた。
ミヤは飲みっぷりがいい。すごい勢いで琥珀色の炭酸がミヤの白い喉に消えていくのを、シノハラは茫然と眺める。シノハラは酒には強いけれど、飲むペースはそれほど早くはない。
 見とれているように思われるのが嫌で、ミヤが「貝焼食べたい」と言ったのをいいことに、貝が来てからは七輪の中の水色の固形燃料をずっと見ている。しかしそれも「焼けたんじゃない?」というミヤの声で中断せざるを得ない。
 もともとシノハラは人の顔を見るのが苦手だ。女性となるとなおさらで、それが可愛いとなれば、まず目が合うことが、ない。人の顔を見るのが苦手だということはとりもなおさず人の顔をちゃんと見ていないということで、よってシノハラは人の顔と名前が一致しないのである。
 証明終わり。
「ねえ」はふはふと貝をほおばりながらミヤが言った。「地元こっちなの?」
「秋田です」シノハラは応える。
もう長いこと秋田には帰っていない。
「私新潟」ミヤが目を輝かせる。「近いじゃん」
「いや、自分大館なんで、近くは、ないです」
「オオダテって?」
「ほとんど青森です。北のほう」
「あ、今少し訛った」ミヤが笑う。
「ナントカのほう、っていうときだけ少し訛る」というのが友人に指摘されたシノハラの癖だ。「北のほ」に近い発音になる。
「なんかすいません」
「なぜ謝る」ミヤが箸でシノハラを指す。「そしてなぜに敬語」
「いやなんとなく」
「いくつだシノハラ」
「二十一です」
「年下だよシノハラ」
「え?」
「あたしは二十歳だ」
 年下の癖に偉そうに言い放つ。
「あ、そう」シノハラは目を丸くする。「ですか」
「なに」ミヤが笑う。「老けて見える?」
「いや、そんなことはない」シノハラはまた頭を掻いた。「です」
「普段なにしてるの?」
「大学生です。一浪してるんで四月から三年なんですけど」
「そうなんだ」
「ミヤさんは?」
「私は働いてる。介護施設。こう見えても社会人」
 ミヤは胸を張る。
「まあ、福祉的就労だけど」
「フクシテキシュウロウ?」
「あ、今また訛ったね」
 シノハラは赤くなる。「なんすかそれ」
「あたし脳性麻痺だから」左足を叩いて見せる。
 シノハラはそのことを完全に忘れていた。
「完全に忘れてました」シノハラは正直に言う。「左足のこと」
「私は一番軽い部類だからね」ミヤは言った。「高校も普通高校だし」
「そうなんですね」
「姉と二人暮らし。親が離婚してこっちに。つうか」
 ミヤはシノハラを指さして宣言した。
「今度敬語使ったら殴る」
「なんでですか!」
 ミヤのパンチが飛んできた。
「痛い!痛い!本気じゃないですか!」
 もう一発、強めのパンチが肩にきた。
「なんで年下に敬語使う」
「こういうのは年齢じゃない、で」ですよ、と言いかけた言葉をのみこむ。「癖だわ」
「あ、訛った」うれしそうにミヤが言う。
「うるさいわ。めちゃくちゃなこど言うがら混乱してんだわ」
「でも嫌いじゃないでしょ」
 ミヤが顔を近づける。
 さっきの感触を思い出して顔が赤くなる。
「出よう」いきなりミヤがすっと引いた。「酔った」

 何度も固辞したが、「たいしたお金じゃないし働いてるし、誘ったのこっちだし」と押し切られ、シノハラは財布をひっこめた。
外はまだ寒い。
「まだ寒いね」
ひょこひょことミヤが歩いていく。
 高校のときに読んだ短歌を思い出す。寒い時に寒いねと言う人がいるのは幸せだ、というやつだ。誰の作品かも思い出せない。
「あ、そうだ、トイレットペーパー切れてるんだ」ミヤがコンビニに入った。
 シノハラも慌てて入る。
 コンビニも閑散としている。店員のやるきのない「いらっしゃいませ」を聞き流し、二人して店内をうろうろした。
 トイレットペーパーがあったはずの棚は空っぽになっていた。ティッシュペーパーもない。
「売り切れてる…」
 ミヤがつぶやいた。
「そうみたいですね」
 ミヤが店員に声をかけに行った。二言、三言交わした後、戻ってきて言う。
「なんか今日めちゃくちゃ売れたらしいよ。倉庫にもないって」
「へえ」
 間が抜けた返事をする。確か昔これと似たようなことがあった気がする。
 オイルショック、とか言ったか。教科書にトイレットペーパーを買い占める人の写真が載っていた。家庭科だったか、社会科だったか。
 いきなり肩にパンチをもらう。
「痛」
「敬語ぉ」
 わかってますよ、とシノハラは言い、またパンチをもらう。
「しかし困ったな」とミヤが言う。
「どれくらいあるんで…の?」あるんですか、と言いかけて、また殴られてはたまらない、と思い、言い直す。
「ない」
「ない?」
「全然ない」
「マジで?」
「どうしよう」酔っ払い特有のふわふわした顔でミヤが笑う。「ない」
「どうするんですか…あ痛」
パンチをシノハラの肩にめりこませて、懲りないねえ、とつぶやく。
「ねえ」
 パンチをめりこませたままミヤが言った。
「家にトイレットペーパーある?」
 実は、ある。
まだけっこうあるのに、この間ドラッグストアでうっかり間違って買ってしまったのだ。
「ありま…ある、けど」
「やった!借りてもいい?返すから!」
「いや、あげま…あげる、よ」
 あげるけど、これから家に来るのか。
 早春の冷たい空気の中で、シノハラの背中の汗腺が、開く。
ふわふわした高揚感と、困惑と、期待と、
 いや、期待しちゃいけないんじゃないのか、という気持ちが。

 そして、シノハラはこの時のことを後で何度も思い返すことになるのだ。

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