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少しの修飾

 私は、noteを始めるとき、漠然とだが2つの決まり事を自分に課した。

1つ目は自分が読み返したい文章を書くこと。

2つ目は人に見られることを意識すること。

これらは重なる部分も多い。

 1つ目に関して、読み返したい文章を書くというのは、自分の考えや感情をつなぎとめて置ける場にするということだ。日々色んな事に触れて、様々なことを感じて、その感情は重要さに関係なく、自分の中で占める割合や、自分の中にとどまる期間が異なる。素敵な経験をして、素敵な人に出会って、素敵な言葉に触れて、私はその時のときめきをずっと忘れていたくないと思う。誰かに対する感謝も尊敬も愛情も忘れたくない。しかし、そういった感情は意外と自分の中に占める割合は小さく、すぐに他のものに場所を奪われる。一方で、悲しいこと、嫌なこと、自分の醜い感情などは、自分の感情をすぐに支配してなかなかいなくなってはくれない。

 書くことで、私はそれらの感情に正しい順位付けをしていく。これは忘れてはいけないこと、これはあの時には大事だったけれど、成長する中で忘れてもいいこと、これは今の自分にとっては重大で忘れられないことだけど、本当はもっと目を向けるべきことがあるということ。それらをしっかり見極めて、大切な感情をつなぎ留めておく。

 私たちは忘れる動物だ。どんなに大切なことも、ふとした瞬間に忘れて、忘れる期間が長くなって、いつか思い出せなくなる。それは仕方のないことだけれど、ちゃんと思い出したいことが、このnoteを読んで思い出せるように、そのための記録を残していきたい。


 2つ目に関して、これは全く逆の考えでnoteをしている人もいると思う。決してそれは否定していない、ということだけ最初に断っておく。私は、創作文を載せる予定はないし、自分の考えをつらつらと、たまに素敵な言葉を引用しながら書いている。だから、書いていることはある意味ありのままの私だ。だけど、本当の私の思考はもっと鬱屈としていて、面倒くさい。自分で自分の機嫌をとるのが難しいと感じることもある。同時に現実を生きる私は、真面目に見られて、幾分か明るい。noteの私は、人前の私の中では一番素の私に近い。でも、それでも、私は自分の感情を少し修飾して書く。

 この修飾は自分が読み返すためでもある。うじうじした考えも、恥ずかしくなるような大層な考えも、幼い考えも、どれも大切なときはあるし、残す価値のある時もある。でも、自分が辛くなる言葉だけは残したくない。その言葉を読んで、辛くても頑張った自分を感じられるのならいいが、その時の辛さに飲み込まれるような文章は残したくない。

 それと同時に、私はこのnoteが、もしも私がいなくなった時に、私のことを知りたいと思った誰かが手に取って私を感じられるものにしたいと思っている。私の思考が、価値観が、一番分かるものにしたい。だが、これを読んだ人を苦しめるようなことはしたくない。少し具体的に言うならば、親の前で言えない言葉は書かない、と決めている。どんなに苦しくて、感情が散乱してまとまらなくなっても、その理性だけはもっていたい。

 自分の考えを書いておくだけなら、自分のノートに書けばいい。でも、私はnoteに書くことで、誰かが読んでくれるおかげで、自分が残したい文章を書くことができる。本当の私より、少し理想の自分に近づいた自分で書くことができる。

 noteでは嘘をつかないと、ありのままの自分を書くと、そういった人の文章もとても素敵で魅力的だ。でも私は少し自分を飾りながら、後で読み返す自分のために、いつか読むかもしれない誰かのために、残したい言葉を書いていきたい。

#noteの書き方

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