見出し画像

お久しぶりです20200716

 お久しぶりです。雨野です。

 なんとか社会人生活にも慣れてきました。

 なんでそろそろnoteだとか、創作とかにも力を入れていきたいと思うのです。食いづらい皿にパスタ盛ってインスタにのせてそうな意識が高い人風に言うと、『人生を生産的に生きたい』というやつ。でもこの、『生産的』って単語、承認欲求とか選民意識とかが古い建物に使われてるアスベストみたいに塗りこめられている感じがしてあんま好きじゃない。そもそも『生産的』ってなんだ?僕は低空飛行しすぎてアメリカ人にカミカゼと呼ばれるレベルに意識が低いので、人間なんて二酸化炭素とうんこを生産しているだけで十分に生産的であると思っている。それに加えてこうも思う。音楽も文章も絵もなんかその他もろもろの創作物ってのは、人間が生きていく上で全く必要のないものだからこそ楽しいのだと。安い油を使ったカップラーメンは健康的な生活には死ぬほど必要がないからこそ美味いのだし、飲み会の締めのラーメンは、腹にこれ以上物を詰め込む必要がないからこそ美味いのだ。そういう意味ではラーメンはこれ以上なく立派な芸術品である。大英博物館に飾ったっていい。二郎系ラーメンはシュールレアリズムだ。その代わりにラーメン屋にモナ・リザを展示しておけばいいと思う。何が言いたいかというと、ラーメンは人類全員が主食とするべきものであるということと、創作というのは決して尊いとか、素晴らしいものではなくて、僕が生きていく上で『必要じゃない行動が必要だから』しているということ。多分僕が応援しているクリエイターさんたちと意見が合わないことがあるかもしれないけれど、僕はそう思っているし、これからもそう思うんだろう。

 この前Twitterでこんな内容の文章を見た。

『創作者には2種類いて、創作を通じて何か(承認欲求とか)を満たそうとしている人と、創作そのものが目的の人がいる。』

という文。アホか?という気持ちで読んだ。その後滅茶苦茶むかついた。誰が悪いとかではなく、理不尽な怒りである。日本で時々起こる大きな地震の様なものである。この理不尽憤怒の真相を探るべく僕は六畳の部屋で座禅を組み、酒を飲んだ。いつもアマゾンの奥地へ向かう訳では無いのだ。

 なんだろう、言ってしまえばこれは『ラーメンの中身には三種類あって、麺と具とスープだ』みたいな内容じゃないか?全身全霊であたりまえ体操を踊りだしたいほどに当たり前な、おおもとだけ語って自分が表現者たろうとしているくっそ薄っぺらい言葉じゃないか?そんでもって多分、こいつは後者の方を持ち上げたいんだろう?芸術家気取りでいたいんだろう?右脳左脳診断を何回もやり直して『あなたは…右脳タイプ!』って結果が出て喜んでるようなタイプの人なんだろう?なんでここまでくそみそに言うのかと言うと、僕自身がは創作が目的のタイプであるからだと思う。そんでもって、その理由が滅茶苦茶しょーもないと自分自身で知っているからなんだと思う。

 そもそも『生き物の生産性』から論ずるなら最大の生産ってのは子孫を残すことだろう。けど僕は子供が嫌いだ。心の底から嫌いだ。医者と教師の次くらいに嫌いだ。作るつもりは無い。というかできちゃったら自殺すると思う。どうして嫌いなのかはそのうちまとめようと思う。幸運にも、子孫を残すというのも、必ずしも必要なことじゃない。童貞のまま魔法使いの道を極めて死んだっていいし、遊びまくった末に独身で腹上死したっていい。必要ないものを作る、つまり人間は誰しもが誰かの作品であるのだ。そして、僕はその最大の作品を作ることを最初っから放棄している。燃えるゴミに出すどころか、家の庭に埋め立てている。その代わりに歌だったり、小節だったり、ゲームだったりを作っている。つまり代替品を頑張って作っている訳だ。モテないから自家製造のTENGAを作っている様なものだ。これはきっと立派な燃えるゴミだと思う。なんとしょーもない理由だと思う。けれどこれからもこうやって生きていくのだと思う。創作とは『人生には無駄なもの』を生産することが大切、そして大切ってことは、僕の人生には欠かせないことなのだ。ということは、創作は僕の人生に必要なものなのだ。必要のないものを作り上げることが必要。うーむ、矛盾だ。ほこたてだ。そういう矛盾を抱えて生きているのだ。それが論破され大破され大敗するのが怖いから、くそめそに貶すのだと思う。ごめんなさい、悪意は無いのです。でもその文章、とても嫌いです。

 (無駄に)長くなったが、これからも何かを作っていこうと思う。僕と、みんなの人生にまず間違いなく必要の無い、つまりは面白いものを作れるように。あとなんでこの文章、途中でですます口調やめたんだ?心の中のジェントルマンとお嬢様はどこ行った?帰ってこい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?