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【君死にたまふことなかれ】②

私のたったひとつの夢が叶わないと
悟った瞬間でした。

そして17歳の冬の日……
私は【絶望】したのでした。

確かに「脳みそが違う」のです。
思えば〇ぬ方法は沢山ありました。
もっとシンプルで確実に〇ねる方法が……
ですが「これは苦しいし汚いから嫌だな」とか
「事後にあまり迷惑かけたくないな」とか
なんだかんだと考えてしまって結局実行出来ずに
未遂を繰り返していたのです。
家族への手紙も何日もかけて考え書いたり 
自〇の段取りを確認し事後のシュミレーションを
したり、そんな事を考えている時点で違っているのでしょう。
亡くなられる方々は何も考えられない状態にあった
から実行出来たんだと思います。
「心神喪失」という状態に近いような気がします。

お医者様の言っている意味が自分の中ですんなりと
理解出来た途端、冷静に考えている自分がいました。
熱が冷めたというか「何をしても無駄だ!!」と腑に落ちたのでしょう。
〇ねないということは【生きてゆく】しかないと
いう事です。
私の中にその選択肢はありませんでしたし
夢を叶える為に毎日頑張っていましたから。
(今は馬鹿だったなと笑い話ですが💦)

何針も縫われた左手首が脈打つ度にとても痛くて
【お前は〇ねないんだ!!生きてゆくしかないんだ!!】
と繰り返し言われているように感じました。
その瞬間から私は感情を無くしてしまったようです。
何も考えられず感じられず【無】でした。
私が体験した【絶望】とは『自己の喪失』の状態だったんじゃないかなと思っています。

【絶望】した当人は【絶望】しているなんて夢にも
思っていません。
気づいていないのです。
私は今で言う引きこもりニート生活をしていました。
見た目には普通に日常生活を送っています。
いつも通りに朝起きてご飯を食べテレビも観るし
話しかけられれば返答もして夜になればまたご飯を食べお風呂に入って寝る。
何も変わらないありふれたいつもの1日。
自分では分かりませんでしたが明らかに違っていたようです。

私には11歳離れた妹がいるのですが【絶望】
していた期間怖くて仕方がなかったそうです。
自己の喪失で無感情の私の様子を敏感に感じ違和感や恐れをもっていたようです。
幼い妹だけが違いに気がついていました。

どれくらいの期間そうしていたのか私にはその時の
記憶が無いので分かりませんが【絶望】から抜け出せたのは幼い妹のおかげでした。

ある日妹の幼稚園の先生が家庭訪問にいらっしゃいました。
私は2階の自分の部屋に引きこもっていました。
妹は私の横にちょこんと座っていた記憶があります。
そんなに大きな家ではないし防音設備がある訳でも無いので母と先生の会話は筒抜けです。

先生が遠慮がちに
「〇〇ちゃんのお姉ちゃん大変な病気なんですか?」
「えっ」
母がびっくりして戸惑っている様子が分かります。
田舎の狭い世界の中でましてや今のように(引きこもり)や(ニート)なんて言葉は無く家に引きこもっている私の事は触れて欲しくない恥ずかしい存在でした。

「どうしてですか?」
「〇〇ちゃんが幼稚園で毎日泣いてるんです。
 ようちゃんが可哀想ようちゃんが可哀想だって
 泣いてるんです。聞いたらお姉ちゃんがずっとお家   にいらっしゃると言っていたので……お病気なのかと思いまして」
その言葉を聞いた後、私は何がなんだかよく分からなくなっていました。
2人の会話は続いていましたが耳に入らず、母は何とか取り繕って当たり障りのない返答をしたようです。
その後暫くして笑い声がしたので上手く誤魔化せたのでしょう。

2階で聞いていた私は隣の妹を見ました。
妹は私に叱られると思ったのかバツが悪そうに下を向いていました。
その姿を見て私は涙が止まらなくなりました。
【一体私はこんなに幼い妹を泣かせて何をやっているんだろう!!】
父は妹が産まれる前に亡くなりました。
私は当時小学校5年生でした。
父は父の日の朝方に心筋梗塞で突然亡くなりました。
妹は母のお腹の中にいて父の事を知らずに育ちました。
私は亡くなったお父ちゃんに「おれが守るからね」と誓っていました。
なのに……今の自分は。

自分のイライラをぶつけたり虐めた事もありましたが妹は私にとって救いの存在でもあり、こんな自分でも頼り必要としてくれる唯一の存在でした。
感情が無くなった無表情の姉の姿は幼い妹には恐怖でしか無かったでしょう。
なのにこんな自分の為に知らない所で可哀想だと泣いてくれていたなんて。
自分の感情が動き出し蘇った瞬間でした。
【絶望】から抜け出せたのは妹のおかげだと感謝しています。

徐々に自分を取り戻していきましたが
だからといって急に全てが好転して行く訳もなく
何も変わりません。
行動しなければと分かってはいてもどうして良いか
分からないのです。
【生きる】という選択肢しかないから私は生き続けるしかなく、それなら『どう生きるのか?』
『どう生きたいのか?』を考えなければいけません。
それから数年掛かりましたが、私は東京に行きたいと思うようになり行動を始めました。

此処には私の居場所は無い。
必要とされていない
ずっと幼い頃から感じていた思いは変わる事は無く
問題を起こし続ける私は狭い社会の中では邪魔者でしかありません。
そういう空気や周りの眼をいつもひしひしと感じていました。
此処じゃない所に行きたい……誰も知らない遠くに。
東北の田舎に育ったので東京に憧れがありましたし
知らない人達の中でなら新しく人生を始められる気もしたのです。

引きこもり生活でなまった体は家の階段を登る事さえ困難でした。
東京に行くと決めて計画を立て始めました。
生きてゆく為。東京に行く為には仕事をしてお金を稼がなければ行けません。
その為には働ける身体が必要です。
私は幼少期から病弱で不眠症が大きな原因だと思いますが頻繁に熱を出し酷い頭痛と鼻血に悩まされていました。
てんかんに似た症状があり病院で脳波などの検査を定期的にしましたが特に異常は見つかりませんでした。
精神的な病気を疑われ血液検査や心理検査も受けた覚えがあります。
今思うと心の問題が体を蝕んでいたのだと思います。

でもそんな事を言っていたら何も変えられません。
体力を付ける為 毎日散歩を日課にしました。
対人恐怖症のような状態だった為最初の頃の
散歩は近くにある深夜の小学校の校庭をぐるぐると歩くというものでした。
誰も居ない校庭は不気味でしたが懐かしい気持ちもあり鼻歌など歌いながら楽しく歩いていました。

深夜の小学校に女の幽霊が出て歌を歌うと噂になっていると小学生になった妹から話を聞きました(笑)
確かに深夜小学校の校庭をぐるぐると歩きながら歌を歌っていた私は幽霊のように見えたのでしょう。

散歩で少しずつ体力が付いてきた後は対人恐怖症の
克服です。
人の眼が怖くて仕方がありませんでしたが昼間に近所を散歩することにしました。
幼い頃から周りの顔色を伺って生きて来たのですから平気なふりをするのには慣れっこです。
またそれをすれば良いだけ……
限界がやって来るのは分かっていましたが此処から離れるまでの辛抱だと思いましたし「 人と関わらずに生きてゆく事は出来ないんだから」と自分に言い聞かせていました。

何度も諦めようとしたし挫けそうにもなりました。
誰かに助けて欲しいと思っても誰も助けてくれません。
妹からきっかけを貰ったけれど生かすも〇すも結局は自分次第。
自分を救えるのは自分だけ……
【生きる】という選択肢しか無い。
【生きていかなきゃならない】
【 どうせなら幸せになりたい】

私は電気関係の工場の派遣社員として働く事が出来ました。
丁度バブルの時代で学歴が無くても働く所は沢山ありました。
工場なら流れ作業の為 話をする必要も最低限で済むので契約期間の半年間を勤める事が出来ました。
無遅刻無欠席 残業も1度も断らずに勤めたので金一封も頂けてとても嬉しかった思い出があります。
私は1度も休まずに仕事が出来たら東京に行けると願掛けをしていました。
私は元来負けず嫌いでこうと決めたら猪突猛進。
【絶対負けねぇーやってやる】と誰に向けているのか分かりませんが呪文のように唱えていました。
きっと自分に言い聞かせていたのだと思います。

契約期間満了の後 東京の就職先を探し始めました。
面接を受ける事が決まってから母に話しました。

すると私が問題ばかり起こしていた頃(中学生頃やんちゃしていた時💦)に「ネギ様」の所にどうしたら良いのか相談に行ったそうです。
(ネギ様とは霊能者のような方で田舎では困った時相談に行きます。40年前の話です)
「ネギ様」は亡くなった方々から助言を聞くスタイルらしく私の事は父に聞いたようです。
父は生前も口数が多い方ではありませんでしたが亡くなった後もそれは変わらないらしく殆ど話してくれなかったそうです。

「ようこは東京に行きたいと言うから……
   そしたら必ず行かせてやってくれ」とそれだけ。

「お父ちゃんに頼まれたから行かせてやる」

父のおかげで私は東京に行ける事になりました。

私の人生には時々不思議な事が起こります。
その度に「生かされているんだなぁ」と感じます。

私は21歳になっていました。

東京に来てからも色々な事がありました。
今でも人間関係の構築は苦手なままです。
4年前には糖尿病網膜症を発症して何度も〇にそうになりました。

「あれは【絶望】だったんだ!!」と気づいたのは
お医者様に「失明します。命も危険です」と家族の前で宣告された頃でした。

病気が完治した訳ではありませんが失明もせず命もありますしお仕事もさせて頂いています。
味覚障害や長年の不眠症も改善され夢も見ずにぐっすり眠れるようになりました。
(なんでも美味しくて食べ過ぎ太りました😅)

17歳の私は自分の夢が叶わないと知って【絶望】
しました。
でも今は叶わなくて本当に良かったと思っています。

あれから私は沢山の夢を描いてきました。
叶わない夢も沢山……
でも叶った夢も沢山あります。

それは【生きる】という選択を続けてきたからだと
思います。
まぁ私の場合それしか無いと思い込んでいましたから

【産まれてきて良かった】
【生きてて良かった】
【脳みそが違ってて良かった(ꉂ🤣𐤔)】
  と思えるようになりました。

私達は毎日 沢山の選択をして生きています。
生きていれば良いことも悪いことも起こります。
奇跡さえ起こせるかも知れません。

でも〇んでしまったら何も起こりません。
そこで終わってしまいます。

かつて〇を願っていた私から伝えたいことは
【可能性を無くさないで欲しい】と云うことです。

選択肢はいつだって自由です。
急がなくても人は必ず〇にます。

ほんの少しの時間だけでも良いから
【生きる】という選択を選んで欲しいです。
【欲】を持って。
  美味しいもの食べて下さい。
  推しの顔を思い浮かべて下さい。
【感情】を無くさないで泣いて怒って笑って下さい。

苦しいと辛いと感じるならまだ大丈夫……
【絶望】していません。

貴方も【しあわせ】だと思える可能性があります。
【生きてて良かった】と思える可能性があります。

【生きる】という選択を続ける限り
  可能性は無限にあります。

私は今とても幸せです。
人間関係上手く出来なくても失敗ばかりで凹んでも
食欲が暴走して太っちゃっても(ダイエット必死(笑))
自分に正直に自由に生きています。

これからも私の人生には色々な事が起きるでしょう。
なんてったって【おれの人生まじオモロい】ので……

歳を取ったせいでしょうか?
過去を笑い話に出来るようになりました。
まだまだ楽しいこといっぱいしたいです☺️
家族から自立してもっと自由になるのが今の夢です。

しょ~もない過去話を長々と失礼致しました。


【君死にたまふことなかれ】

【可能性は無限です】


2024年7月26日(金) 
                                青依叶子





































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