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もっと自由であっていいんじゃないか(吉田拓郎を聴きながら②)

ルカ 4:18 「主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、 虐げられている人を自由の身とし、19 主の恵みの年を告げるために。」
 
ガラテヤ 5:1 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
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先週の続きから、お話ししたいと思います。
教会が伝統的に教えてきたことから離れ、その束縛から離れ、自由に愛やあわれみ、誠実さ、社会正義を訴える時、あなたが表現した自由は、あなたを悲しませるかもしれません。自由のために失うものも大きいのです。
世間の常識が外れても、教会の伝統から外れても、愛に生きる生き方がある。イエス・キリストは、そういうお方だった。だから、十字架にかかって殺された。しかし、復活した。それは神がイエスの生き方こそが本当に死と罪と敵意を滅ぼす生き方、十字架だと宣言したからです。天満レインボーチャーチもそのような生き方がしたいという話をしました。
今回も吉田拓郎さんの歌からインスピレーションをいただきました。拓郎さんの歌に『ビートルズが教えてくれた』という曲があります。ビートルズといっていますが、実際にはジョン・レノンのことだと思います。私は60年代70年代の洋楽が好きなんですが、この時代の洋楽が好きな人は、「ビートルズのこの曲のこの歌詞は、一体何を意味しているんだろう」とかいう話が好きです。当時はベトナム戦争の最中です。若者たちが立ち上がり、ベトナム戦争反対を訴えました。自由、平和、愛がキーワードになりました。自由とは何か、平和とは何か、愛とは何か、大学や高校の教室で、公園で、電車の駅で、飲み屋でそんなことが語られていた時代です。それは、世界にいろいろ考え方や生き方を生み出しました。ビートルズは1969年に解散します。そして、拓郎さんは1973年に『ビートルズが教えてくれた』という曲を発表します。因みにこの歌の詞を書いたのは、吉田拓郎さんではありません。盟友の岡本おさみさんという方なんですが。
歌はこのように始まります。
「髪と髭をのばして ボロを着ることは簡単だ・・・
日陰ばかりを好んでいてはいじけてしまうんだぜ
もっと陽気であっていいんじゃないか
もっと陽気でもいいんじゃないか」
拓郎さんは岡本おさみさんとの対談で、こう言っています。「初期のビートルズは好きだ。君が好きだとか、僕は寂しいとか、大したこと言ってない。でも、あの彼らが醸し出す雰囲気が好きなんだ。後期のビートルズは好きじゃない。歌詞も曲の構成もあまりにも理屈ありきで作られている。」
先日ある牧師さんとお話をしました。その牧師さんが言うには、「教会に初めてやってくる人は、大体人間関係の問題からやってくる、友人関係、嫁姑の問題、職場での人間関係などだそうです。キリスト教の得意分野は「罪の解決」なんですが、「自分の罪」ために教会に来る人など、そうはいません。人間関係の問題に悩んで、教会にやってくる方々の中には、教会に来て、聖書の話を聞いて、「あーよっかった、すっきりしました」という方もいらっしゃると思います。しかし、イエス様を信じて、教会のメンバーとなり、教会にくるようになると、クリスチャンたち同士でののしり合ったりする現場を目にし、「クリスチャンの本性」を見ましたと言う方もいらっしゃいました。そんなひどい教会は一部だけなのでしょうか?コロナになって、教会がライブ配信を行うようになり、ほっとしているクリスチャンもいます。教会での人間関係に疲れ果ててしまっているのです。一体教会やクリスチャンに何が起こっているのでしょうか。
様々な原因があると思います。今日は、一つ一つを取り上げることはしませんが、もう一度、「自由」ということをよく考えなければなりません。
ルカの福音書には、イエス様がはじめて人前でこう話したと書かれています。
Luke 4:18 「主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、 虐げられている人を自由の身とし、19 主の恵みの年を告げるために。」
 
私なりに言い換えると、「主の霊がイエスの上にあり、貧しい人に福音が伝えられた。私はメシアとして、神に遣わされたのだ。捕らわれた人には解放を、目の見えない人の目が開かれ、抑圧されている人が自由になるのだ。これが神の恵みの年だ。」
イエス・キリストが十字架に付き、復活したのは、悪と罪と死の世界から解放するためです。そんな世界から私たちを自由にするためでした。これがキリストが私たちに示した愛でした。キリスト教が「神は愛です」というのは、そういうことです。ここで問題があるのです。
しかし、この「神は愛です」というフレーズは、ここでは終わりません。「神は愛です。しかし」と続くのです。この「しかし」が問題なのです。「神は愛です。しかし、「愛」とは何かを考えましょう」「神は愛です。しかし、自分の罪をすべて神に話、悔い改めなければなりません」「罪とはなんでしょうか。お酒を飲むことは罪でしょうか、煙草を吸うことは罪でしょうか、罪ではないかもしれないけれど、煙草を吸うことはクリスチャンとして相応しいことでしょうか」「私の心は妻へのイライラでいっぱいです。神様は愛しなさいと言われるのに、私は愛しきれないのです」「神は愛です。しかし」という時、私たちは何をしているのでしょか。教会の片隅で私たちはそんなことを考えることに時間を費やしてはいないでしょうか。
さて、教会にLGBTQの方がやってきました。あなたはどうするでしょうか。不安な気持ちでその人を見るでしょうか。できるだけ、かかわらないようにして、LGBTQの話題には触れないようにするでしょうか。自分の心の片隅で、モヤモヤした思いで彼らを見ているでしょうか。
クリスチャンの頭は、神にどんな生贄をささげるかでいっぱいになっているようです。傷のない自分を神にささげることに必死です。もう、クリスチャンはどうやって神様との関係が健全なものとなるかを死に物狂いで考えるだけです。
Gal. 5:1 キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
 
奴隷のくびきとは、そういうものです。
拓郎さんは、自由や愛や戦争を語る人にも、もっと陽気であっていいんじゃないかと歌います。クリスチャンはもっと自由であっていいんじゃないか。人を愛することの自由です。自分らしく生きることの自由です。先週も言いました。自由であるということは、えてして世の常識から外れるかもしれません。そこには、人を赦す自由も含まれます。偽りの自分を生きることからの自由です。立派なクリスチャン、人間のふりをすることからの自由です。信仰深いふりをすることから自由です。
みな自由に生きたいのです。しかし、その一歩を踏み出す勇気がないのです。それが人間という者かもしれません。だから、教会があるのです。一人の人間に勇気を出して、自由に生きようというのは無理です。しかし、教会は、自由に生きることを励まし、自由に生きるために、一緒に耐える仲間がいるところです。一緒にそんな世界を創っていきましょう。

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