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心の奥底を支えるもの (スピリチュアリティ①)

ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

スピリチュアリティという言葉があります。この言葉は非常に大きな概念で、これと言って、確定的な定義はありません。中村佐知さんというクリスチャンの翻訳家の方がいらっしゃいます。アメリカで「霊的同伴者」という資格を持っておられます。中村さんによると、スピリチュアリティとは、「何か自分を超越した大きな存在との深いかかわり」を求める思いや願いと仰っています。
私はクリスチャンですので、イエス・キリストの父なる神とのつながりを私のスピリチュアリティの中心と感じています。つまり、私の存在は、心の奥底で、イエス・キリストの父なる神との深いつながりを求めています。ある人にとっては、それは様々な宗教の神だと感じるでしょう。自分は宗教的ではないと考えている人も、自然や天体、音楽と自分自身とのつながりを感じる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、スピリチュアリティは単に個人にかかわることだというわけでもありません。スピリチュアリティそのものが文化や社会に関わるからです。
私は28歳でクリスチャンになりました。キリスト教のスピリチュアリティと出会うのは、それ以降になります。それまでの私のスピリチュアリティは、日本や家族の文化の中ではぐくまれてきました。
私はクリスチャンとして、「神は愛」だと教わってきました。キリスト教はその愛こそが、キリスト教の教えの中心だと言います。その神の愛にいつも触れたいといつも思っています。いつもです。こうすれば、必ず神の愛を知ることができる。こうすれば、必ず神の愛に触れられるという方法はありません。
デビッド・ベナーという神学者はこう言っています。
「あなたが人生経験に基づいて神について何を信じるようになったかにかかわらず、真実は、神があなたを思うとき、彼の心に愛がふくらみ、顔に笑顔が浮かぶということです」
人生には浮き沈みがあります。私は、パニック障害、不安障害を抱えています。いつも笑顔が浮かぶということはありません。しかし、それでも、神に叫び、助けを求めます。ある時は、聖書を読みながら、妻と話しながら、学校の勉強をしながら、友人と話しながら、その神の愛をふと感じることがあります。そして、「ああ、確かに神が私を愛してくださっているのだな」と感じます。またある時は、それを感じられない時が、長く続くこともあります。しかし、それでも神が私を支えてくださっていることを知っています。
ここで放蕩息子の話を読んでみましょう。目をつぶって聞いていただきたいと思います。3人の登場人物がいます。父、兄、弟です。この3人のストーリーです。
【ルカ15:11-32(放蕩息子の話)】
 
この話は、神とはこの話の父のような方だということを言い表しています。次男の謝罪など関係ありません。ただ戻て来てくれただけで十分なのです。気難しい屋の長男にも同じようにすべてを与えて愛を示しています。
 
私がどんなヘマをしてしまっても、あなたを愛する神の愛に変化はありません。万が一、あなたが人を傷つけた時、あなたは非難され、社会的にも法的にも制裁を受けます。それに甘んじなければなりません。でも、あなたを愛する神の愛に変化はありません。クリスチャンはこのような愛を求めています。
デビッド・ベナーという神学者はこう言っています。
「あなたが人生経験に基づいて神について何を信じるようになったかにかかわらず、真実は、神があなたを思うとき、彼の心に愛がふくらみ、顔に笑顔が浮かぶということです」
世界は自分の心を支えるものを求めています。私が信じているのは、私たちの心を奥底を支えているのは、イエス・キリストの父なる神です。私たちの人生とは、そのような完璧で変わることのない愛を探す旅なのだと思います。それは、イエス・キリストの父なる神を探し、体験する旅です。その神を経験する時、私たちは本当の意味で、自分の心の奥底を支えている方を知るのです。それがスピリチュアリティです。
一般的にクリスチャンは、祈りの中でその神を経験します。祈りの中だけではありません。自然の中でを歩きながら、街の通りを歩きながら、料理をしながら感じる人もいます。
イエス・キリストの愛から教会は、そのスピリチュアリティ伝統を受け継いできました。そう教会は愛のスピリチュアリティが体験できる場所なのです。だから、天満レインボーチャーチはあなたがいらっしゃるのを待っています。共に神の愛の支えのうちを歩んでいきませんか?

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