見出し画像

「自分の人生に真剣に責任を持つ」ということは、「時には逃げる勇気」を持つということ

 逃げることは悪いこと、諦めや妥協だと、幼い頃に教わったり周りから言われたりして、無意識の中に刷り込まれたことにより、何があっても逃げてはいけないと思いこんでいる人はとても多い。私もその一人だ。


しかし、本当にやりたいことや手に入れたいもの、大切にしたいものを守るためには、決断し、「逃げる」ことを選択することも時には必要だ。


向き合わず、決断せず、選択しないなら、それは単なる「逃げ」だが、
目を背けずに向き合って、責任と覚悟を持ち、決断し、選択する行為は、
もはや「逃げ」ではない。

 

その人なりの意味があって、その上で決断し納得して「逃げる選択」をしているのなら、たとえそれが周りの人には逃げているように見えても、必要があってしていることなのだから、何も萎縮する必要はない。堂々としていて構わない。

逃げること休むことで力を蓄えたり、前に進むことができる時もある。


本当は嫌だけど、こんなことやりたくないけど・・・と言って
なんとなく心の声をスルーしてやり過ごして、
目の前の仕事を嫌々やっていたり、学校に行っていたり、


子供がぐずっている、体調悪そう、でも・・・・仕事休めないし、自分も正直このイヤイヤ癇癪にずっと付き合ってやってらんないし、でも目の前の子は「ママ〜」って言ってる。
でも〜 周りもみんなそうやって保育園行ってるみたいだし、
そもそもそんなのわがままだし・・・と

やり過ごしてなんとか必死に子どもを保育園に預けて、気持ちが晴れないまま仕事して、こんな働き方でいいのかな〜と思いつつ一歩踏み出せずにいるとか、

そういう人って決して少なくないと思うんだけど(過去の私がそうでした。)

そうやって過ごすことのほうが、むしろ「逃げている」。
体は、表向きは逃げてないけれど、心の声からは、自分のありのままの姿からは「逃げている」と言えるのでないだろうか。


ここで過ごすのが嫌だ、しんどい・・・なぜ?
いきたくない、やりたくない・・・なぜ??
本当なこんなはずじゃない・・・こうしたい。・・・なぜ??

ネガティブな感情が湧き上がったとき、
蓋をせず、逃げずに感じきる。そうなんだ、と受け止める。

そして、「なぜ?」と問いかけた結果、「逃げる」決断をした場合、

それは、体は「逃げる」という行為をしているかもしれないが、
心の声や自分からは「逃げていない」。


心の声や本音を無視してやり過ごしていると、当然のことながらストレスが溜まる。
それでもなお、無視し続けていると、やがてその声は体の不調となって現れる

そこでやっと気づく人が多いのだ。

もしくは、心のどこかで、

「体の限界が来るまで頑張らなきゃ、頑張ったとは言えない」と思い込んでいて、だからあえて「体を壊して」、「頑張ったからもういいよね」と周りにも認めてもらいやすい状況を「作りにいっている」という人もいる

かもしれない。

こんな世の中は非常に生きづらい。

残念ながら、日本の社会って、まだまだ「そんな世の中」なところも多いように感じる。(だから、我が島、沖縄は教員の精神疾患休職者が多いのではないか?とこれは個人的な見解だが。)

「こんな世の中」を作っているのは、紛れもなく、私たち大人だ。大人は無駄な我慢をし過ぎている。逃げていいのに、表向き「逃げずに」いて、それは実は、「本質的には逃げなんだ」という皮肉な状況に気づいていないのではないか。

そんな大人たちが教育者や保護者として子供たちに関わると、どうだろう??

子供のSOSに耳を傾けたくとも、「私だって我慢してるんだし」が
溜まりに溜まっている大人に、子どもの「わがまま」の受容は難しいわけで。

「真面目なごく普通の親や先生」が子どもを虐待してしまう構図って、こういうことなんじゃないか?と思っている。(これまた個人的見解だが。)


自分の心の声に真摯に耳を傾けずにいることや、気づいていてもやり過ごす、「逃げ」は、自分だけじゃなく周りからもエネルギーを奪うことになる。

私たちの人生の中には、必要な「逃げ」も、「迷わずに逃げていいとき」も、たくさん存在すると思う。逃げる勇気が必要な場面は、きっと多いと思う。

いただいたサポートは、このnoteのおよび、私が代表をつとめる地域団体「食と農の学び舎BASE」の運営に充てさせていただきます♩